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二
「やぁ、アヤくん?」
肩に手が置かれている。郁衣は首を少し傾けて声の主を見た。誰かは声をかけられた時点で分かっていたのだが。
癖毛の黒髪に一筋の赤いメッシュ。片頰には絆創膏が貼られ、特徴的な二つ並んだほくろと凶暴なまでに開けた耳のピアスが目を引くその人は。
「なんすか、蓮黒先輩」
先輩の作業員である蓮黒だった。
彼は謎が多い。明るくフレンドリーでありながら、自分の情報を一切見せず、飄々として掴みどころがないのだ。蓮黒というのが本名なのかすら分からないし、年齢も性別も教えてくれなかった。「秘密主義」なのだと言っていつもはぐらかすのだ。
「いやぁ、郁衣くんがボーッと突っ立ってサボっているようだったからねぇ。ダイジョーブ?」
「人を見送ってただけっすよ」
「人ぉ?」
蓮黒は郁衣の肩に、黒い手袋に包まれた手を乗せた。ファッションとしての手袋であろう、指の先が露出している。それおしゃれっすねと郁衣が言うと、蓮黒はふふと笑って応じた。
「ありがと。それで、誰を見送ってたの?」
「あの人…ってもういないか。えっと、清掃員の加賀沢くんっす」
「ああ、オミくんか」
「オミくん?知り合いなんすか」
「うん。この前話した。あの子、無愛想だけど可愛いよねぇ」
「はぁ…」
相変わらずこの人はよく分からない。その思考さえも読まれていそうで、郁衣は首を振った。
「…あの。そこどいてくれません?」
「ん?」
蓮黒が顔を上げた。郁衣も声のした方を見る。
そこには一人の女性が立っていた。
「やぁ、千夏ちゃんじゃないか」
「お疲れ様っす」
「いいからどいて下さい」
「…さーせん」
やっぱ怖ぇな、と思いながら、郁衣は立っていた場所を退いた。蓮黒も肩に手を乗せたまま移動する。女性は郁衣たちを一瞥すると、灰色の長髪を靡かせて通りすぎた。醒めたような青い瞳に自然と背筋が伸びる。
何となく二人で彼女を見送った。作業着に包まれた細い身体が硬く強張って遠ざかる。生活の苦労に揉まれた身体だと郁衣はいつも思っていた。
彼女は名を磯谷千夏という。冷酷な性格で、敬語ながら人を煽るので、後輩に少し怖がられている。食うや食わずの深刻な貧困を抱えており、金稼ぎのために工場Uで働いているらしい。そんな訳だから、以前郁衣がうっかり口を滑らせて「結構金に困って入社する人多いっすよね」と言ったときには「貴方に本当の貧困が分かるんですか?」と散々なじられた。
「…アヤくん、千夏ちゃんのこと怖い?」
「いやまぁ…大声では言えないっすけど。先輩はどうなんっすか」
「自分は全然平気」
「まあ先輩ならそうっすよね」
『三片郁衣。仕事だ。305室へ向かえ』
ふいに放送が入り、二人の会話に割り込んだ。
「あ、俺仕事みたいっす。じゃあ」
「うん、またね〜」
手を振る蓮黒に軽く頭を下げ、郁衣は指定された305室へと歩き出した。