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30 砂時計の回る部屋
零の発することを待っていたようだった。流暢な言語が語られるまで、蔵書室にいた〝その女〟の存在にまったく気付かなかった。
鞘に手を添えつつ、反射的に後ろを振り返った。
〝彼女〟はまるでそこにいたことが普通であるかのように、テーブルで寛いでいる。
誰もいなかった本の塔で描かれた影の交差。その場所で、そのテーブルで。本を片手に、朗読を続ける。
「|In this way, God often rests in his room.《神は寛ぐものです》
|Because humans are hard workers.《人間は働き者ですからね》
|Why is life limited?《どうして人間に寿命があるんです?》
|Think about it from God's point of view.《よく考えてごらん》
|If you live long, you'll be annoyed.《長生きされたらムカつくだろ?》 ……」
その女は、そろそろ気づいたかしら、とでもいうように英文の朗読をやめ、本を裏返しにしたままテーブルに置く。そしてその手の動くままに、|カップと受け皿《・・・・・・》に触れた。白く淡い湯気が見えた。当然のごとく、悠長に。皿の上のカップを持ち上げ、口に付ける。中身は茶色の液体。直感は記憶と同期した。
カップに淹れられている液体の正体は|紅茶《・・》だった。
そう思えばすぐに、いつの間にか部屋に充満した紅茶の|芳《かぐわ》しい香りに気付いた。あでやかな赤い口紅と紅茶のその色が接する。さらに香りの濃さが増したような気がした。
「……見かけない顔ね、新顔かしら」
紅茶のカップとたしなむ彼女は零に尋ねた。目線をこちらを向けながら。
どうやら身体が固まっていたように映ったらしい。余裕たっぷりな笑みを浮かべている。
「身構えないで。私はあなたと同じよ。あなたと同じ、この世界に来たくて来たわけじゃない人。あなたがあってきたであろう人達と同様の、境遇を持つ者よ」
濃い紫のドレスを着こんでいた。どこかの高級な令嬢が紛れ込んだような、はたまた山奥の魔女がそのまま出てきたかのような。その二つの雰囲気が均等に混ざり合い、不可解な空気を纏っている。
「死臭には慣れたかしら?」
「一人でここにいるのか」
その女に向けて、零は尋ねた。悠久の時を経ている魔女と対峙しているかのようだ。
足を組んで紅茶を嗜み、青紫の長い髪が長期間醸造された赤ワインのごとく深みを持たせている。
「ええ。それが?」
「死ぬぞ」
女性の鮮血のように赤い唇は微笑んだ。
「新顔らしい言葉ね、忠告として受け取っておくわ。……立ってないで、座ったら?」
彼女は片手でテーブルの一席を差した。零は無視して立ったままだった。
「そのようすだと、地下拠点のことは知っているようだな」
「ええ。最初の頃はお世話になったわ。今も食糧を取りに時々寄るの。貯蔵庫の番としては便利だから」女はひと口飲んだ。
「拠点の場所が変わったことは知ってるか」
「知らないわね。あなたはご存じ?」零は現在の拠点の場所を伝えた。
「ありがと」
「拠点には戻らなくていいのか」
「そうね、考えとくわ。けれど私、そろそろ死にたくて」
「そうか、なら死ねばいい」
会話を切り上げて零はそっぽを向く。目的の本はすでに見つけている。それならこの部屋に用はない。この女としゃべる必要は見当たらない。
その身体の勢いのまま入口に足を進めた。名もなき女を背にする。後ろから追いかけるようにページをめくる音がする。
「ここから出るつもりなら、そこの砂時計をひっくり返してくださるかしら?」
「砂時計?」
「ええ。もう尽きたでしょうから」
零の目がその物について探すと、すぐに発見した。
ガラスの容器に薄桃の砂が入っている。容器の中央はおなじみの通りくびれていて、上部と下部に分かれている。すでに砂は落ちきっているようで、零はそれを手に取ってひっくり返した。
砂のたまった下部が上部に置きかわったことで、砂が落ちるようになるだろう。しかし、数十秒も経過するが一向に砂が落ちる気配がない。
「ありがと」
その場から動く素振りのない女が呟く。零はこれについて訊き、本を読みながら答えが返ってくる。
「それは、この世界の『唯一の時計』よ」
「どういうことだ?」
「あなた、『ネグローシア』の時間経過速度が異常に遅いことはご存じ?」
零は首肯する。「一秒経つのに三日かかるというやつだろう」
「そう。『時ヲ止メ』……その砂時計は実測三分なの。すべての砂が落ちるまで三分。その砂時計にも適用されるの。つまり、五四〇日かかる見込みね」
砂時計の周りには膨大な帳簿のような紙が置かれていた。いくつもの山が束となっていた。一番上の紙にはレ点のような、おびただしいチェックの数が刻まれている。
見るに砂時計をひっくり返した数であろう。一チェックにつき三分、『ネグローシア』では三分で五四〇日経過した意味になる。そのチェックがついた紙が束となり、塵も積もれば山積みとなるまでになった。
「こんな束になるまで|砂時計《これ》ひっくり返しても、なんの役にも立たない」
ひと粒も落ちることのない、何も変化しない砂時計を見ていた彼に対して、本を閉じる音が一つ。
「ええ、そうね。でも退屈しのぎにはなる。あなたこそ、一人で外に出ていいの。時は止まっているけれど、死ぬ危険があるのよ? アナウンス、あったでしょ。外には『グドラ』が徘徊している」
そういえば、『|授業《ゲーム》』の真っ只中だったことに気付いた。サクラノキノシタカゲノシタ。それが『|授業《ゲーム》』の科目名……。女神に見捨てられた世界樹。それが徘徊しているという。
「他のヤツにも言われたが、とある理由で死ななくなった。俺は死なない」
「『俺は死なない』……ふふっ」
少しバカにするような響き。
目的は達成した。『女神の唄』とされた詩の在りかは、破かれた魔法書の一節だった。
だからさっさとここから去る予定でいたが、零は入口にて立ち止まった。
閉じたドアに背をつける。女は立ち上がっている途中だった。
「そういう人ほど、真っ先に死ぬものよ。『この学校では』ね」
椅子を動かして濃紫のドレスの裾と床が擦れる。書物にあふれた部屋を歩む。
隙間なく敷き詰められた書棚に手を触れ、指先から何かを読み取っている素振りを見せる。
古びた本を|縁《よすが》にして、|惨憺《さんたん》たる過去を顧みるようにして。
「この学校、結構なマンモス校だったみたい。幾つもの校舎が立ち並ぶとおり。広いでしょ、この学校。だから生徒数もまあまあの数がいた。魔法使いを夢みる候補生たち。今は弱いけれどここで数年学べば、磨けば光る。いつしか一線級の者たちに成れる未来ある若者たちだった。切磋琢磨しあい、しのぎを削り、いくつもの死線を超えた上級生たち。歴戦の英雄と謳われし教官たち。それらが、いた。けれど、このようにモヌケの殻となった。惨殺されたのよ、あの『神々しき蝶』によって」
女の目線は一方を向いた。零は釣られなかった。逆に目を閉じた。目に焼き付けていたからだ。
どうでもいい、という顔をしたのだが、彼女の口は閉じなかった。
どうやら、この世界に飛ばされた住人達は話したがりな者ばかりなようだ。
「惨殺され、放置されたこの建物は長い時間をかけて廃墟となり、血塗られた箱庭となった。残ったのは三つ。『|神々しき蝶《ナイトクローラー》』と、魔物除けとして作られたアーティファクト『|三角刑の生首塚《サクリファイス》』。そして何よりも、見捨てた女神による強力な封印『|停止世界《時ヲ止メ》』。誰も破ることのできない強靭な『ネグローシアの時間の鎧』。もちろん、それは〝初期設定〟での話。
そのあと、貴方のように他の世界から呼ばれることになったわ。『|神々しき蝶《ナイトクローラー》』の手によって選び抜かれた生贄たちが大勢いた。ナイトクローラーは明確な刺客として『|授業《ゲーム》』を開始し、転移者たちをいたぶり始めた。
その中には『不敗』『不死身』『神』などと呼ばれる者たちもいた。でも、ひとり残らず『不敗』は不敗にならず、『不死身』は不死身にならず、『神』は『神』にならず死んでいった……」
「俺は、そういうまがい物とは違う」
「聞き飽きた言葉ね」しゃべりながらドレスをかき分けて歩く。
「むしろ、死なせてくれとまで思う」
「ふふふ、その言葉通りに死んでいったものをどれだけ見たことか」
「あれとは違う。比べるな」
「そう、なら忠告。|今まで覆ることは一度もなかった《・・・・・・・・・・・・・・・》」
零は目の前の女を眺めていると、どうしてこの世界『ネグローシア』に来たのか、その動機を洞察することができた。そもそも『ネグローシア』に来る以前から、『不死の病』に治癒方法が無いのではないかと諦めきっていた。
これ以上異世界を跳躍していっても、可能性はかなり低い。|零《ゼロ》に近い。そう思ってしまう。あの時もそう思った。
それは転移前。あの機械に呟いたとき。
それは転移前。あの機械が問いかけたとき。
――あなたの願いは何ですか?
「病を治したい」
――どんな病?
「死ねない病」
その後、あのナイトクローラーに声をかけられるまで零は会話した。
――病を治したら、あなたはどうなるの?
「死ぬだろうな」
――あなたはそれでいいの?
「それが唯一の、本望だが?」
その会話の行く末として、この世界が選ばれたのだろう。
ここではない、女神が絶望した世界。『ネグローシア』という神に捨てられた世界。
目の前の彼女の話を窺うに、『ネグローシア』では『不死身』でも死ぬことができるらしい。
それは零にとって幸運であり、奇跡でもあり、重畳とも呼べる。
……無事、達成できればの話だが。
「でも、不思議ね」
彼女はテーブルに戻っていたようだった。椅子を引く音が聞こえ、座った。
「死にたくないと願う人もきれいに殺される。私のように『不死身』でもない人が生き残るなんて。死にたくないと言う人は殺され、死なないと言う人も殺され、でも私のように死なせてって思う人には何もしない。NPCっていうのかしら? そう、まるでゲームの住民みたい」
目線は前の窓を見つめている。
美しい蝶が止まっている。黒ずんだ廃墟の校舎の壁に張り付くようにして、虹色の光を周囲に放っている。大きく、羽をはためかせて、止まっている。存在を示す、それに目をやっている。
「ここのオーナーは何をやりたいのかしら。ここに人を集めて、残虐の限りを尽くして……それで終わり。なんともバカげていて、空しくて。儚げな恋のよう。そういえばあなた、恋はしたことがある?」
「……昔のことは思い出さないようにしている」
「そう。つまらない人ね」
カップを持って口元に運ぼうとして、寸前でやめた。
「恋バナを持ってるのに話したがらないなんて、つまらない人。不死身になると皆そうなのかしら。長い間生きてきた証を抹消するために、あなたは口を閉ざして何も言わない。黙して語らず。秘密主義やミステリアスとは異なる色合い。あなたが死んだら思い出も全部消えてしまうというのに」
しばらく時が止まったような時間の末に、ようやく砂時計のくびれから、微細な砂粒が落ちてきた。剥がれ落ちるようだった。ガラス容器の下部で、ふわりふわりと浮かぶ。ひと粒ひと粒、視認できるほどにスピードが遅かった。
彼女は本をさすりながら、
「誰かが本を書いてくれるかもしれないというのに。誰かが読んでくれるかもしれないというのに」
※作者注:
英文がなんかおかしく表示されるのは、短カフェの仕様だと思います。