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タイトル不定
自分の体験とか、感じたこととかも交えて創作したので、苦手な方は閲覧をご遠慮ください。
病気のこととか、そういうものに対する概念とか、自分の考えを自分で整理するためだけに書きました。
特に意味はありません。
|「…ぁ……お…………、?………笑笑……ぅ、………………る……」《朝からずっと調子悪いの?えマジ笑笑うんうん、めっちゃわかる》
なんで。
なんで?
この間まで、私はそこで笑って、
そこで肩を組まれてたのは私で、
…あ、また放課後遊ぶ約束してる、
正直自分がこんなことになるなんて思ってなかったし、想像もしてなかった。
欠陥してる自分の体はないはずなのに、五体不満足。
車椅子でしか自由に好きなところに行くこともできない。
耳が聞こえない感覚なんて、知らなかった。
この先知ることなんてないと思ってた。
知りたくなかった。
高校生になった。
クラス内では色々あったけれど、そこそこに仲のいい友達もできて、学校に通っていた。
そんな今年の6月、突然両足が動かなくなった私に下された一つの診断。
機能性神経障害。
学校で突然そうなってから、早退して、学校からの受診をいくつかの病院に断られたから仕方なく別の病院を探していた。
でも、どこに行けばいいのか、そんなことも一切わからない。
ただ足が動かない。
何か心当たりがあるとすれば、体育でマット運動をしたこと。
脊髄かどこかを負傷したのか、と言われれば、そんなこともない。
とりあえず近所の内科に行って、そこで紹介状をもらった。
少し離れるけれど、家から割と近い位置にあった総合病院。
移動は全て車か車椅子。
こんな感覚は初めてだった。
採血もした。
レントゲンも撮った。
CTも、MRIも。
なのに、何もなかった。
そこのお医者さんは首を捻って、それからとりあえず、命に関わるとか、そういうのではないから安心して大丈夫だよ、とわたしに言った。
はっきりした原因とかはない、身体に欠落した部分もない。
強いていうならば、ストレス。
そんな輪郭のぼやけた病気。
精神的ストレスや葛藤が身体症状として表出する、一種の「身体化」。
左腕には静脈注射だか、シリンジポンプだかが繋がっていて。
もしかしたら、点滴だったのかもしれないけれど。
入院が決まったとき、勝手に涙が出てきた。
看護師さんが見たのは、私の左腕にあった傷で。
採血やその針を刺すときに気づいたようだった。
少し休もう、大丈夫、急に立てるようになる、なんてことも普通にあり得るから、と。
自分が頑張ってたのが、ずっとストレスを抱えてきてたのが、ようやく気づいてもらえたのかなって。
最初にはそう思った。
そしてあれよあれよという間に部屋へ移動して、親友とLINEで話した。
病室には私と、お隣におばあちゃんと、もう1人おばあちゃんと、向かいに1番年齢の高いおばあちゃん。
翌日くらいにお隣の人は退院して行った。
何日めか覚えていないけれど、夜に向かいと斜めのおばあちゃんが眠れないね、と話しているのが聞こえて。
かなり咳き込んでいたから、思わず大丈夫ですかと声をかけてしまった。
「…あの、大丈夫ですか」
「大丈夫だよ、--さんは大丈夫?」
「私は大丈夫です、」
「どうして入院になっちゃったの?」
「足が動かなくなっちゃって…」
「あらまあ…若いのに大変だねぇ…」
「本当にねえ…高校生くらいなんですか?」
「はい、高校生です、」
看護師さんに苦笑されながら、眠れないですよね、と言われてしまうまで会話は続いた。
翌日くらいには、向かいのおばあちゃんが認知症がひどくなってしまって、別の部屋に移って行った。
2人になった部屋で、時々話したり、私は車椅子を病棟の中で練習してひたすらぐるぐると回ったり。
驚くことに、私の高校の先輩のおばあちゃんだということがわかった。
あちらこちらの外国を訪ねたりしているそうで、とても明るくて楽しい方。
ご飯は思っていたよりも美味しかった。
朝も洋食か和食かを選べる形式。
「朝担当の--ですー、よろしくね」
「お願いしますっ」
「採血するねぇ」「はい…!」
「わー、そのクリップかわいいですね」
「え、ありがとうございます!」
朝決まった時間に起きて、いつもよりずっと早い時間に寝て、毎日の血圧や心拍数などの計測ももうルーティン。
親友が来てくれて、お菓子を持ってきてくれたり、話したり、勉強を教えてもらったり。
そんなふうに時間が経っていた。
もちろんお風呂も入ったけれど、私は自力では不可能だったからほとんど看護師さんに手伝ってもらっていた。
ここの病院に入院して、4、5日くらい経った頃。
精神的なサポートがこの病院では不完全だから、と、さらに大きな病院への転院が決まった。
短い期間だけど、とても優しくて親身になってくれた主治医の先生や看護師さんたちと離れるのが嫌で泣きそうだった。
転院の日、看護師さんや主治医の先生に挨拶をして。
最後まで挨拶が言えていなかったおばあちゃんの方をチラリとギリギリまで振り返っていると、部屋を仕切っていたカーテンが揺れた。
「頑張ってくださいね」
「はい…っ、--さんも、」
手を振ってくれて、手を振りかえして、病院を後にした。
病院の入り口のところまで見送ってくれた看護師さん。
車に乗り込んだ後も泣きそうになるのを必死にこらえていた。
お昼に軽食でおにぎりとパンを食べながら、転院先の病院へと向かう。
着いたのは、前の病院よりもずっと家から離れているところ。
最初に行ったのは脳神経内科だったけれど、入院が決まってから一瞬救急科に移動した。
そこはまるで地獄みたいだった。
地獄を知らない私だけれど、地震や戦禍みたいな、
そんな血みどろではないけれど、とても恐ろしかった。
私と同い年くらいの男の子。
私よりずっと幼い女の子。
逆にお年寄りの方。
外国の人。
多種多様な人が、色々な状況に置かれていた。
その中でも、女の子が1番鮮明に浮かぶ。
「大丈夫、大丈夫だよー、ちょっと我慢してねー」
幅の狭い小さなベッドがたくさん並んで、カーテンで仕切られていて、それでも動かない足の代わりに体を起こしたり横になったりを繰り返していた私は周囲がよく見えた。
泣き叫んでいた女の子の周りには明らかの他の人よりも多い医師や看護師がついていて、おそらく事故か何かにあったらしかった。
足が、おかしかった。
初め私はこの場所に入院するのかと思って驚いたけれど、しばらく待つと部屋へと案内された。
「--ちゃんは高校生かぁ、妹も高校生なんだよね」
「部活とかはしてるの?」
「そうなんだ、私は高校生の時バスケしてたな〜」
看護師さんと話しながら進んでいくと、すごく広くて難しいつくりなのがわかった。
着いた部屋は、前の病院と似た、でも前の病院より少しホテルみたいな雰囲気があって驚く。
そして諸々説明があったあと、その日は終わり。
次の日か、その次の日からリハビリが始まった。
理学療法士の先生は2人。
男の先生と、女の先生。
作業療法士の先生は女の先生1人。
みんなすごく心の距離感が近くて、話すのも楽しいし優しくて。
毎朝主治医の脳神経内科の先生が来たり、精神科の先生が何人か来たり。
一度だけ言語聴覚士さんが来たけれど、結局何故だったのかは分からずじまい。
毎週火曜日はたくさんの先生がくる日。
様子や経過を見たり聞いたりしに、10人強ほど人が一気に来るから少し緊張する。
入院して一週間くらい。
リハビリの先生に勉強を教えてもらったり、作ってくれた時間割に沿って毎日生活していく。
フルートの練習をできるようにしてくれたのは、理学療法士さんの男の先生。
すごく面白いし、もう1人の理学療法士さんとの絡みも楽しくて、リハビリが大好きになった。
HALを使ったリハビリが始まったのはその頃から。
ハルは足につけるロボットで、脳から筋肉に「動いてね」と伝えられる電気を感じ取って動いてくれる、今ある中では1番新しいリハビリの方法らしい。
この電気が普通くらいならちゃんと強く電気が出るし、それがうまく伝わっていなかったり出ていなかったりすると足が動かない。
だから最初は、このハルの電気に対する動きの大きさを強く大きくする。
電気が安定してちゃんと伝わるようになってきたら、少しずつ小さくしていく。
歩行器やポールを使ったリハビリ、それから車椅子で色々病院内を動くこともあった。
ポールは縦に天井から床に設置されていて、つかまり立ちをする練習、なのだけれど、初めは全然ダメで変なポーズになって先生と笑った記憶がある。
二回ほど作業療法士さんとエントランスでやっていた腕のアロママッサージをしてもらいに行ったり。
ラベンダーとオレンジ、無香料があったから二回で前二つを試した。
リハビリは、毎回の成長を録画して見返したり、主治医の先生に見せたりする。
理学療法士の男の先生が、もしかしたら学会での発表にさせてもらうかもしれないけれど、使っても大丈夫?と聞いていたから、もちろん快諾した。
自分のことがまた同じようなことに遭う人たちに活かされるのは本望だから。
親友は遠くなったにも関わらず度々お見舞いに来てはお菓子や勉強に土産話も持ってきてくれた。
結局文化祭に参加できなかった私は様子だけでも知りたくて、写真を見せてもらったり。
ワッフルを持ってきてくれた時もあった。
親戚や同い年のいとこも度々お見舞いに来てくれた。
私の上半身と同じくらいの大きさの「幸せすぎて太っちゃった猫」のぬいぐるみや、私が前に好きだと言ったシマエナガとマイメロちゃんのフェルティングニードルをくれたり。
お菓子もたくさんくれた。
退院祝いにかわいいヘアピンと髪ゴムもくれた。
すごくたくさんのプレゼントをもらってしまって申し訳なかったけれど、嬉しかった。
海に近かった、というか海の上だったから、すごく眺めはよくて。
リハビリの合間に景色を見たり、図書館に行ったり、それからタリーズコーヒーに行ったり。
下に行けばコンビニもあって、充実してるなあ、と思った。
お風呂は、初めは手伝ってもらってほとんどやっていたけれど、リハビリが進むにつれて自分1人でも車椅子や椅子を使って入れるようになっていた。
そういえば、少し服装を変えた時理学療法士さんに「あれ、今日いつもと雰囲気違う?」と言ってもらえたのは嬉しかった。
腹式呼吸のトレーニングや除脳猫の話、研修生の人たちやハルを手伝ってくれた研修生さんも。
退院の数日前、理学療法士さんの女の先生が下のコンビニでたべっ子どうぶつを買ってきた。
首から下げている名札に、そのおまけでついてくる切手型のアクリルステッカー。
とは言ってもステッカーには使わなそうだった。
めっちゃ可愛いですねそれ!、全員集合しているのが当たって嬉しくて、みたいな会話をしたり。
その翌日、退院前日に、それを二つ買ってきてから私のリハビリに来た。
「最後の私とのリハビリ終わったら、一緒に開けよ!」
「えっ、いいんですか…?」
「本当はダメだから内緒ね、笑」
そう言って笑った先生の顔は一生忘れないと思う。
結局先生はヤギを、私はアヒルを引いて、今も私の部屋に、キーホルダーになるケースに入れて大切に飾っている。
退院直前には作業療法士さんが会いに来てくれて、もうそこで涙が止まらなかった。
主治医の脳神経内科の先生。
精神科の先生方。
カウンセリングやテストをしてくれた先生。
毎日時間を縫って話に来てくれた精神科の担当の先生。
多すぎてお名前と顔がなかなか一致できなかったけれど、みんな優しくて可愛くて、憧れの看護師さんたち。
PTさんたち。OTさん。そして、その研修生の人たち。
清掃に来てくれた人たち。
図書館の方。
私にハルを試してはどうかと言ってくださった先生。
同じ病室だった方々。
フルートを吹いていた目の前の部屋に入院していらっしゃって、数日前に尺八を舞台で吹いてきた、フルートの音色が癒しだ、とても上手だ、と言ってくれたおじいちゃん。
その他、ここに書ききれていない、私に関わってくれた全員にお礼を言って回りたいくらい。
そうして私は家に戻った。
気がついたら夏になっていた。
周りが少しずつ日に焼けていた中、ずっと病院の中にいた私だけ、変に白かった。
屋外を2本杖で歩くようになって、ようやく学校に戻った。
夏休みに入る、少し前のことだった。
教室の喧騒が久々で、杖をついて入るのは些か緊張した。
何も、ほとんど変わっていない。
ただ、稼働していた冷房と気温が、蝉の声が、時期は確かに変わっていたことを示していた。
入院していた時に来た心配のLINEも、好きな人からのLINEも、こうならなかったらもらえなかった思い出だと割り切ることにして。
いつも一緒にいた彼女は、別の人とよくいるようになっていたのが気がかりだった。
当然だろう、一ヶ月以上登校していなかったんだから。
それでも一緒にいてくれて、近くで支えてくれたのも、今も彼女の存在が大きい。
クラスでの万博は車椅子で。
クラス写真に映る私は他の人と違って車椅子。
ただ、同じ班の子は優しいから。
並ぶ時間がなくなってラッキーだったじゃんと言ってくれる。
夏休み明け。
ちらほらと耳に異変を感じていた。
それから、休部に体育祭に、聴力障害の中での授業や生活。
目まぐるしく毎日が過ぎていった。
耳と同時に車椅子、なんてことにならなかったのは不幸中の幸い。
いつ治るかも分からないこの耳の症状の中で、どうやって過ごすのか、どうするのが正解なのか、私はいまだに答えが見つけられない。
「無理しないでね」
「もっとちゃんとしたら?」
「休んだほうがいいよ」
「逃げすぎじゃない?もっと立ち向かわないと」
周りの声はいつも正反対のことを言うから、誰があっているのかわからない。
というより、正解なんてないんだろうけれど。
「なら、どうしたら誰にも嫌われはしませんか?」
別に好かれようとは思わない。
誰にでも好かれたいわけじゃない。
ただ、ちょうどいい関係を保ってはいたい。
わざわざトラブルを起こしたくない。
今は、次の通院の日を待つだけ。
何かがどうにかなるわけではないけれど、病院にいることで安心するまであるから。
とにかく早く耳が治って。
完治という概念のない機能性神経障害に、終わりが見えることを祈ってる。
普通の生活に、いつか戻れますように。