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第9話:消えゆく灯火と、繋がれる言葉
病室の空気は、日を追うごとに重さを増していた。
|新《あらた》の身体は、もはや自力で上体を起こすことすら難しくなっている。視界は度々暗転し、ペンを握る右手の感覚は、数日前から完全に消失していた。
「……っ、あ……」
それでも、新は左手で右手を支え、這うような速度で原稿用紙を埋めていた。
物語の中の『|新太《あらた》』と『|永美《えみ》』は、ついに目的地の「光の丘」にたどり着こうとしている。そこは、二人が子供の名前を考えたあの夜に思い描いた、理想の未来の象徴だった。
その時、廊下が慌ただしくなった。
幾人もの足音と、医療機器がぶつかる金属音。そして、聞き覚えのある小さな泣き声。
「|陽葵《ひまり》ちゃん! しっかりして!」
新の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
隣の病室にいたはずの陽葵。あんなに元気に「物語の続きを読んで」と言っていた少女の容体が、急変したのだ。
新は、点滴の管を引きちぎらんばかりの勢いで、ベッドから身を乗り出した。
「陽葵、ちゃん……」
一時間後。嵐のような騒がしさが去った後、松本医師が力ない足取りで新の部屋にやってきた。その表情を見ただけで、新にはすべてがわかった。
「……陽葵ちゃんは、持ち直しました。ですが、予断を許さない状況です。意識が戻るかどうかも……」
「先生。……僕の、この物語を。彼女に、聞かせてあげたいんです」
新は、書きかけの原稿を震える手で差し出した。
「彼女は、この結末を待ってる。……『新太』くんと『永美』ちゃんが、最後に見つける宝物が何か、教えるって約束したんです。……それが、彼女が『明日』を待つ理由なんです」
松本医師は、新の血走った、けれど迷いのない瞳を見つめ、静かに頷いた。
その夜、新は文字通り、命を削って筆を走らせた。
痛み止めの副作用で意識が混濁し、|永莉《えり》の幻影が何度も目の前を横切る。
『新くん、もういいよ。頑張ったよ。こっちにおいで』
幻の永莉が、優しく手を差し伸べる。
けれど、新は首を振った。
「……まだ、ダメだ。永莉。……僕は今、『今』を生きてるんだ。陽葵ちゃんに、この物語を届けるまでは……行けない」
一文字書くたびに、肺が潰れるような痛みが走る。
それでも新は、永莉と語り合ったあの幸せな記憶を、一滴のインクに変えて紙に叩きつけた。
夜明け前。
ついに、最後の一行が書き込まれた。
『――二人が見つけた一番の宝物。それは、遠い未来の約束ではなく、今、隣にいる人の手を握っている、この瞬間だった。』
ペンが、新の手から力なくこぼれ落ちた。
真っ白な原稿用紙の束。それは、新がこの世に生きた証であり、永莉と共に紡いだ、究極の「遺言」だった。
「……陽葵ちゃん。……待っててね」
新の意識は、そこで深い闇へと沈んでいった。
けれど、その口元には、一年前には決して見られなかった、微かな、けれど確かな満足感の笑みが浮かんでいた。
🔚