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虚心の住処
大学の中庭には、春になると決まって石楠花が咲いた。
白い花弁は厚く、触れると生き物の皮膚のような弾力があった。
僕はその花を、講義と講義の合間に眺めるのが好きだった。
何かを考えているふりをするには、ちょうどよかった。
僕にはふたつつの側面がある。
前者は、ゼミで真面目に発言し、レポートの締切を守る學徒の顔。
後者は、曖昧な笑顔で人の期待をかわし、肝心なところでは責任を引き受けない顔だ。
後者のほうが、らくだった。
彼女は同じ学部の後輩で、いつもノートを丁寧に取る癖のある人は、
僕を誠実だと思っていたらしい。
相談に乗り、夜遅くまでメッセージを返し、未来の話をする。
そのどれもが、嘘ではなかった。でも、真実ではなかった。
「先輩は、ちゃんと悩む人ですよね」
そう言われたとき、胸の奥で何かが小さく笑った。
ある晩、図書館の閉館を知らせる音楽が流れる中で、僕は不意に思った。
「これは誰の人生だろう」と。彼女の期待か、僕の怠惰か。
答えが出る前に、僕は「忙しくなるから」と言って距離を置いた。
理由としては、十分だった。
その夜、夢を見た。講義室の最後列に、黒い外套を着た人物が座っている。
顔は見えない。ただ、こちらを見ているのが分かった。
「楽な方を選んだね」
低い声がした。責める調子ではなかった。それが、何よりも恐ろしかった。
翌朝、中庭の石楠花は昨日と同じように咲いていた。
何も変わらない。変わったのは、僕だけだ。
彼女からの連絡は来なくなり、代わりに胸の奥に、説明のつかない静けさが住みついた。
不誠実は、大きな罪の形をして現れない。
ただ、選ばなかった方の人生として、後からそっと現れる。
その影に名前を与えるなら、人はそれを「悪魔」と呼ぶのだろう。
今日も僕は中庭を通り過ぎる。
普段とは違い、石楠花を見ないようにしながら。