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紬いだ線路で
気がつくとそこには瑠璃色の海が広がっていた。地平線までずっと続いていた。膝下までの浅い海で、足元をみると目を見張るほど透明だった。自分が立っている場所が浅いので、後ろは陸か、と思って後ろを向くと、後ろにもずっと浅い海が広がっていた。空と海しかなかった。誰もいないし、何もない。すごく心地よかった。深呼吸をして暫く目を瞑った。目を開け、見渡すと、右側の方に線路があった。地平線までずーっと続く線路。不思議に思って水飛沫をあげながら線路まで走っていった。水の中に埋まっている線路。でも錆びたりはしていなかった。どうやらここは現実ではないらしい、とぼんやり思った。恐怖はなかった。暫く線路の横を歩いていた。どれだけ歩いても地平線の向こうには何も見えない。ずっと海の中を歩いているとだんだん足が冷たくなってきた。何処かに休憩できる場所はないかなとか思っていると、後ろから何かの音が聞こえた。小さい音。それがだんだん大きくなってようやく電車がこちらへ向かってくる音だということに気がついた。電車は静かな水面を荒らしながらこちらへ向かってくる。その電車は私の前でゆっくりと止まった。黄色く塗装された電車。誰も乗っていなかった。運転手もいなかった。私はその電車の一番前の席へ座った。暫くそこで座っていると、急に動き始めた。1時間くらい乗っていただろうか。時間を計る方法はないため完全に予想だが、長い時間電車に揺られていた気もするし、一瞬だった気もする。窓の外の景色はずっと変わらなかった。電車が揺れる音だけが、辺りに響いていた。ふと、前を見ると線路の上に少女が立っていた。本来は白くて綺麗なワンピースなのだろうが、今はそれが泥で汚れていた。足も血だらけ泥だらけで、髪も濡れていて、大きな声で泣いていた。異様だった。綺麗な海、空の中でその少女だけが薄く汚れていた。このままだと電車で轢いてしまう。急いで運転席のような物があるところへ向かった。赤い丸がついたレバーのようなものを思いっきり引く。これがブレーキという確証は持てなかったが、なんとなく、そんな気がした。金属音を響かせて電車は少女の前でぴたりと止まった。水面がだんだん静かになっていく。左側のドアから電車を降りて少女のところへ向かった。少女は泣いていた。6歳くらいだと思う。薄く汚れてはいたが、端麗な顔立ちをしていて、どこか脳裏に残る顔だった。身長にしては大人っぽい顔だが、その涙には隠しきれない幼さのようなものを感じた。どこがで、見たことがある気がする。どうしたの、と少女に聞く。
「あのね、」
少女は言いかけて唇を噛んだ。風もないのに水面がざわりと揺れた。
「あのね、紬ね、おとうさんから叩かれちゃってね、それで……」
そこまで言って言葉が途切れた。涙がぼろぼろと零れ落ちる。
「それでね……」
一生懸命喋ろうとする少女に私は、大丈夫、わかるよと声をかけた。涙を汚れた腕で懸命に拭っている。
「紬ちゃん、いま何歳?」
「…6さい」
「そっか」
まっすぐな目だと思った。少女の目にうつるのは父への怒りや絶望ではなかった。生きたい、もっと知りたい、と希望に満ちた目だった。私とは違う。
一緒なのに、違う。
「おねえさん、紬、これからどうすれば良いのかな」
これから、という言葉がなぜか深く心に刺さる。この子は今のわたしよりつらい事があっても生きようと、必死に足掻いている。
「大丈夫だよ、紬ちゃん。」
薄く汚れた体をぎゅっと抱きしめた。細くて、弱々しい。でも、私より強かった。この子は、私だ。過去の私。父から虐待を受けていた頃の私。
「生きててくれて、ありがとう。」
少女の目が大きく開く。少女は薄く汚れたワンピースを小さな手でぎゅっと掴んだ。
「紬っていらない子なのかな」
「紬ちゃんがいるから今の私がいる。紬ちゃんと会えたから、これからの私がいる。」
「ありがとう、紬ちゃん。」
抱きしめる手を強くすると、私の背中のシャツをぎゅっと握られた。私は、今まですべてから逃げていた。全部全部中途半端に終わらせて、結局何も残らなかった。私は、何もできない。味方は誰もいない。もう、死んでもいい。そう思っていた。でも、この少女は__。
「おねえさん、ありがとう。紬、がんばるね!!」
「こちらこそありがとう。一緒に頑張ろうね」
海に落ちていた貝殻を拾う。水が輝きながら滴る。ちょうど2つある。小さい頃、これを持っていた気がする。どこで拾ったのか、思い出せずにいた。どうやら未来の私が渡してくれていたようだ。
「これあげるよ。つらくなったら、思い出して。」
少女は貝殻を見て柔らかく笑った。
「ありがとう、おねえさん!!…またね!」
気がつくと、ベットの上で朝日を浴びていた。手には濡れた貝殻が握られていた。朝日が眩しくて目を細めると周りが滲んではじめて、泣いているということに気がついた。夢だったんだ。とぼんやり思った。でも、手には貝殻が握られている。ここはあの美しい世界ではなかった。でも、いつもと違う、そんな気がした。