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誓ったあの日
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「吾輩はお前の夢の実現のために視力を尽くす。この先もずっと,この命尽きるまで,お前のそばにいる。そして,お前のことは吾輩が守る。約束だ。」
許婚というのは,ほとんどが幼少期から本人同士の意思に限らず両親によって取り決められる婚約のことである。故に,許婚関係にある2人の関係は必ずしも良好というわけではない。どちらか,または両方が別の者を思うが故に破綻になることも少なくない。思いを諦め許婚の関係に従う者もいる。運命を自らの意識沿わず決められることは誰しも喜ばしいことでは本来ない。
吾輩も初めはそうであった。突然母君に告げられ見合いに連れられたが,相手は吾輩よりも遥かに歳の若い娘だった。納得がいかなかった。代々我ら蛇の家系と蛇を扱う家系は許婚の関係を組み,繁栄してきたことは親族から幼き頃よりうんざりするほど聞かされていた。納得はいかないが,従う他ない。娘のことが気に入らなければこちらから婚約を破棄すればいいだけだ。
さて,吾輩と許嫁の娘は結局同居することになった。吾輩は反対したが,両者の親族は皆譲らなかった。娘も苦笑いしていた。その娘はというと,どうやら医者を目指しているらしい。ある面で言えば元より体の弱い吾輩は良い被験体ということか。故に娘が自室から出てくることは殆どない。本を読み漁り,貴重な紙を使って纏め,時々吾輩の身体を見ては何かを呟いている。正直不気味だ。家事は殆ど吾輩が行なっていた。そうしなければ奴は食事を摂ろうとしない。倒れられたらたまった者ではない。認めていない奴の看病など吾輩はしたくなかった。
ある日吾輩は何故そこまでして医者になる必要があるのかと問いた。
「僕,人に尽くして生きていきたいんだ。毎日何処かで誰かが重い病気に苦しんでる。怪我で動けなくなってる……そんな人達を一人でも多く僕が救ってあげたい。そのために医者になるんだ。」
娘は頬を掻きながら,少し照れくさそうに言った。その瞳に曇りはなく,嘘偽りのない,女神のように穏やかな笑みを浮かべていた。吾輩の心がほんの少しだけ揺らいだ。
そこからは早かった。医者に弟子入りをして家に帰らない日も増えた。毎日食事は共にしていただけあり,微々たるものではあるが寂しさを感じた。しかし帰ってくるたびに奴は目を輝かせた。今日もまた大勢を救えた,と。そこには心の底からの喜びと幸せを感じた。それを見ていた吾輩の頬も同じように緩んでいた。一生懸命に努力しそして人のために尽くして喜びを得る。その姿が何とも愛おしい,そう思った。
いつの間にか,吾輩は娘に惚れていた。
暫くして,娘と吾輩は医院を始めた。初めのうちは人こそあまり来なかったものの,娘の確かな実力は瞬く間に知れ渡り,2人では多忙すぎるほどの人が集まった。大変ではあったがやり甲斐はあった。汗水垂らしながらも人のために笑顔で看病をする娘を見れば疲れもないに等しかった。娘と祝言をするにはまだ少しあるが,時期に|夫婦《めおと》となる吾輩はとても誇らしかった。娘のおかげで病弱だった吾輩の持病も良くなっていた。他の医者に頼っていてはきっとこれほど早く良くなることはなかっただろう。
夜の涼しいある日,吾輩と娘は2人で月を見ていた。片付けそびれた風鈴が涼しげな音で鳴く。吾輩達は肩を寄せ合い手を重ねていた。ふと,娘が吾輩の方に寄りかかって言った。
「僕,一人だったら絶対にこんな大勢の人は救えなかったと思うんだ。だから,ありがとう。僕の夢を手伝ってくれて。」
今までに見たことがないほど安堵し,幸せそうな微笑みを浮かべていた。吾輩は胸の高鳴りを感じた。その顔の先は,今吾輩に限定されている。耳まで熱くなる感覚がした。
「あ,照れてる?意外と可愛いところあるじゃん」
今度は悪戯っぽく笑った。先ほどの凛々しい顔とは違い,幼さの含んだ笑み。
吾輩は娘の手をそっと上げ,そして髪を耳にかけてその手の甲に唇を落とした。少し動揺している娘の瞳を見つめ,吾輩は口を開く。
「吾輩はお前の夢の実現のために死力を尽くす。この先もずっと,この命尽きるまで,お前のそばにいる。そして,お前のことは吾輩が守る。約束だ。」
今度は娘の方が耳まで赤くなっていた。全く愛おしい限りだ。
「うん,これからもずっと一緒だよ。」
娘はそう言い吾輩の身体を抱きしめた。小さく細い身体だったが,その背中はとても大きく頼もしいものだった。包み込むように抱きしめ返すと,再び風鈴が涼しげに鳴いた。華燭の典を迎える日が,より一層楽しみになった。
吾輩は永遠にお前のために生きる。お前が幸せならばそれで良い。たとえどんな道を歩もうとも。お前だけ幸せなら,吾輩はそれで良いのだ。
あの時,吾輩が命を落とさなければ,吾輩があの病に侵されなければ,お前は今頃心から笑えていたのか…?皆から心から愛されていたのか…?
お前は,心から幸せになれたのか?