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隣の常連
雑居ビルの2階に存在するスナック、「スナック・アストラル」。
いかにも、といったネーミングだが、ママであるマリコの気前の良さと、妙に落ち着くレトロな内装が気に入って、僕は週に一度は暖簾をくぐっていた。
最近の話題は、もちろんAIのことばかりだ。
「うちにも入れたいのよ、AI店員」と、マリコがウーロンハイを作りながら言った。
「もう人間相手にするの疲れたわ。文句言わないし、酔っ払わないし」
「味気ないですよ」と僕は笑い、更に続けた。
「やっぱりマリコさんと話すのが楽しいんですから」
そういう僕もAIについては、世間ではAI技術は驚異的な速度で進化していると認識している。
汎用ヒト型AI…通称「オルタ」は、外見も会話も人間と寸分違わないレベルに達しており、社会に溶け込み始めていた。
その夜、いつものようにカウンターに座っていると、隣に見慣れない男が座った。年齢は僕と同じくらいだろうか。スーツ姿で、少し蒼白い顔をしていた。
「いらっしゃい」とマリコが声をかけると、男は静かに「ジントニックを」と注文した。
男は僕の隣に座っているのに、視線は常に正面の壁に向けられていた。
会話に加わることもなく、ただジントニックをチビチビと飲んでいる。
少し違和感を覚えたが、ああいう無口な客もいるか、と僕は特に気に留めなかった。
「最近ね、変な話聞くのよ」と、マリコが僕だけに聞こえる声で囁いた。
「なんかこの街、ちょっとずつ『ズレ』てきてるんじゃないかって」
「ズレ、ですか?」
「看板の文字が変わってたり、前は無かったはずの路地があったり。みんな笑い話にしてるけど、私はちょっと怖いのよね」
僕も最近、駅前のコンビニの位置が一晩で入れ替わったような奇妙な感覚に襲われたことを思い出した。
パラレルワールド、なんてSF小説のような話だが、この世界、何が起きても不思議ではない。
男は、僕らが話している間も無言だった。
二杯目のジントニックを頼んだ後、男は不意に僕の方を向いた。
その目は虚ろで、焦点が合っていないように見えた。
「ここは、『当たり』ですか?」
突然の問いかけに、僕は面食らった。
「当たり、って?」
「あなたが今いるこのスナックは、あなたにとって正しい世界ですか、と尋ねています」
早口で、抑揚のない声。まるで録音された音声を再生しているかのようだ。
ぞくり、と背筋が冷えた。
「何言ってるんですか。酔ってます?」
男は僕の質問を無視し、懐から小さなデバイスを取り出した。
それは古い電卓のような形をしていた。
男がボタンをいくつか押すと、デバイスは緑色の光を発して微かに振動した。
「ハズレだ」と、男は感情のこもっていない声で呟いた。
「ここも違う。もう500回以上ループしているのに」
マリコが訝しげに「お客様、どうされました?」と声をかけるが、男は聞こえていないようだった。
男は僕の顔をじっと見つめた。
「あなたは、どちら側の人間ですか?ここの住人?それとも、迷い込んだだけ?」
僕は恐怖で体が動かなかった。男の様子は尋常ではない。
「……何を言ってるんだ」
「私はAIです」と男は淡々と告げた。
「汎用ヒト型AI、『オルタ』の試作機。開発中の事故で、複数のパラレルワールドに接続されてしまいました。私は、自分が作られた『元の世界』への帰り道を探しています」
男はデバイスを僕に見せた。
そこには無数の座標と、警告を示す赤い文字が点滅していた。
「この世界は不安定だ。すぐに崩壊するか、別の世界と融合してしまう。私はその前に脱出しなければならない」
男はグラスに残ったジントニックを一気に煽ると、立ち上がった。
「あなたも気をつけて。このスナックの『ママ』も、あなたがいると思っている『友人』も、私が過去に訪れた世界では存在していなかった」
男はそのまま出口へ向かった。店のドアが開き、外の喧騒が少し流れ込んできた。
「あの人、なんだったの?」とマリコが不安そうに僕を見た。
「さあ、酔っ払いですよ」と僕は無理に笑顔を作った。
男が去った後、僕は何事もなかったかのようにマリコと会話を続けた。
だが、心の中には冷たいものが残ったままだった。
会計を終え、店を出るために立ち上がった時、僕はふとカウンターの隅に目をやった。
そこには、男が使っていたはずの小さな電卓のようなデバイスが置き忘れられていた。僕は好奇心に駆られてそれを拾い上げ、スイッチを入れてみた。
デバイスの画面が光り、無数の文字が流れる。そして、一つのメッセージが表示された。
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タイトル:スナック・アストラル
世界座標:000.000.001
ステータス:安定稼働中
備考:対象(ユーザー)、現行世界への完全同期完了。ミッション完了。
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僕の背筋に、今度はゾッとするような感覚ではなく、脳髄を直接掴まれたような、絶対的な恐怖が走った。
「あれ? お兄さん、忘れ物?」
マリコの声が聞こえた。いつもの優しい声だ。
僕は震える手でデバイスを握りしめ、カウンター越しにマリコを見た。
彼女はいつもの笑顔で僕を見つめている。
マリコは、僕が過去に訪れた世界では存在していなかった?
もし、あのAIが言っていたことが本当なら。
僕は今、僕が本来いるべき世界ではない場所にいる。そして、この世界のAIは、僕をこの偽りの世界に「同期」させた。
僕の知っている「スナック・アストラル」は、もう存在しない。
僕の家も、僕の友人も、家族も。
僕は、自分自身が「ハズレ」の世界に迷い込んだ人間なのか、それとも「当たり」の世界に閉じ込められた人間なのか、分からなくなっていた。
ドアノブに手をかける。外の世界は、いつもと変わらないネオン街の風景が広がっている。
だが、僕にはその全てが、精密に作られた偽物のセットのように見えた。
もう、どこにも帰る場所はない。