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檻雨
「だからお前はだめなんだ!2年目だろ!?真面目にやれ!」
ゴツッ
殴られても、これはもう慣れっこだ。いつもいつもそうなのだから。
どんなに罵倒されても、どんなに暴力を振るわれても、涙は出てこない。
純粋な心を失ってしまったから。一体どこから外れちゃったんだろ。私のこの毎日は。
いつしか、どんなに疲れ切ってベッドにダイブしても中々寝付けなくなった。
日が増すごとに増えていく睡眠薬の量。うつらうつらとした夢と現実の狭間。
そこではいつも君が現れる。だが、最近は見えない。
最後に君を見たのはいつだっけ?最後に見えた君はどんな格好してたっけ?忘れてしまった。
だけど大まかな事は忘れてない。忘れられない。
なのに、なんで思い出せないんだろう?…どうして諦めきれないんだろう?
君がステッキを持って時計回りに小さく回す。必死に…必死に回す。
だけど状況は何一つ変わってない。昨日も、今日も、明日も、明後日も、明々後日も、かからない魔法を挑戦している。…おやすみなさい。
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「お前いい加減にしろ!この出来損ない!無能にもできる仕事をこっちは回してやってんのに!」
パンッ
最近上司からの罵倒と暴力が強くなっている気がする。
だけど怒られるのは私の責任なのだから『ごめんなさい』としか言えない。
1時間の残業、週7日の出勤。今日も人一倍残って仕事をして帰路につく。
ポツッ
「嘘…雨?」
突然の雨にかなり戸惑った。傘も持っていない。…仕方ない。急ぎ足で家へと向かった。
ニャー
泣き声がした方を振り返ってみる。
雨で濡れた体を小刻みに震わせてそこに佇んでいた。黒猫が。
このままでは可哀想。拾って温めてあげないと。
…だめだ。私のそんな時間の余裕はない。自分の痣の処理だってシないといけないんだから。
「ごめんね…私じゃあなたを寂しくするだけだと思うの。拾ってあげられないわ。」
ニャ
猫はそう鳴いてとぼとぼと私の横を過ぎ去っていった。
どこか寂しそうな猫の背中に、同情して。
雨の匂いで染まったアスファルトから、逃げたくて。
小走りで猫に近づき、そっと、抱き上げた。
ニャーニャー
「ごめ…帰ろっか。」
私、なにか言いかけた。だけど飲み込んだ。なんて言おうとしてた?なんか事実を隠した?
猫を抱いて黒で塗りつぶされた空を見上げる。降ってくる雨が目に入って痛かった。
辺はすっかり誰もいない。だからより、雨に閉じ込められたような…そんな束縛を感じた。
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「池井さん…あなた浦井課長からパワハラ、受けているでしょう。」
パワハラ…なんかじゃない。あれは指導だろう。そう出来損ないの私をマトモにするための。
「池井さん、それをパワハラって言うのよ。実は、池井さんのような社員が複数いてね、その人達全員で訴えてきたんだけど…ってニュース見てない?」
ニュースなんて見るはずがない。ラック(道で拾った黒猫の事だ)の世話をしてそのまま薬を飲んで寝るのだから。
「そうなのね…今まで苦しい思いをしてきたでしょう。これからは課長が代わるから安心してね」
安心も、不安もなにも浮かんでこなかった。無だった。完璧な。
「お前が…言ったんだろ。お前が社長にチクって俺をやめさせたんだろ。
パワハラなんかじゃなく指導なんだよ。それすらもわからないのか?結局逃げただけだろ!」
ゴツッ
パンッ
ボコッ
ドカッ
…ドサッ
「これすらも指導なんだよ。調子乗ってんじゃねぇよ。」
あの人は街の雑踏に紛れていった。辺の足音はもう完全になくなっていた。
『うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ』
必死に取り繕った腕の痣も、冷やして直した顔の腫れも全部が崩れた。
「大丈夫…ですか?」
『たっ、あっ、だっ、すっ、けて…」
「家近いですか?」
『くっ…とっとっ…おっ…い…』
「病院、行きましょう。救急車呼びますよ。」
やめて!!!
こう叫びたかった。だけど喘ぐことしかできなかった。意味のない呼吸を加速させる事しかできなかった。殴られても、罵倒されても周りには気づかれないように傷を隠して、無理に笑って上手くやった。
なのに…なのにさ、なんで痛みには弱いの?痛がりも直したいよ…
気づけば、呼ばれたはずの救急車なんかなく、繁華街の人通りのない路地で仰向けになっていた。
ザー
空から落ちてきた大粒の雫が髪を伝って目に入り込んだ。痛くて思わず目を閉じた。
また…また雨か…。路地には街頭の一つもない。当然人通りなんて皆無だ。
またあの束縛が私を閉じ込めた。ここから出してくれるのはラックでも、課長でもなくきっと君だ。
もう一度瞼のカーテンを開けた。さっきよりももっと強くなった。
今度は、目から雫が溢れ出した。目尻を伝って頬を通過した。…やっと自由になれそうだよ。
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暖かい川が目の前に現れた。夢か現実かは分からなかった。
川の向こうで誰かが手を振ってる。少しずつ、川に足をつけて渡った。
「由利ちゃん。」
優しい声で私を呼んだのは、ステッキを持った君だった。