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🗝️🌙軍師の献策は火を灯す
夜の風が、静かに戦の気配を運んできた。
月は細く痩せ、まるで世に疲れた女のように空に浮かんでいる。
黒き陣幕の奥。そこには、香を焚いた帳がひとつ。将も武も入ることを憚られる、静謐なる帳。そこに、ひとりの若き軍師が座していた。
名を――|蘇芳《すおう》という。
齢二十にして、才気比類なき軍略家。だが、女だ。
「策を弄して、勝つだけが戦ではありません。勝った後に、何を得るか。それを見誤れば、ただ屍の山です。」
その声は落ち着いていて、それでいて冷ややかに熱を秘めている。帳の向こう、将である|織葉《おりは》は、黙してその言葉を聞いた。
「…蘇芳。明日、我が軍は山路を迂回し、敵本陣の背後を衝く。」
言い終えて、織葉は盃を差し出した。
蘇芳は香の煙の中、微かに口角を上げる。
「お酒の前に、こちらをどうぞ。」
手ずから用意した小さな膳には、干し貝柱の炊き込みご飯、焼いた山鳥の串、そして塩で揉んだ野菜の和え物が、素朴ながらも丁寧に盛られている。
戦支度の夜にしては、温もりのある食事だった。
「…貴女が作ったのか?」
「ええ。少しでも、胃を労っていただければと。将たるもの、食の乱れは判断を誤ります。」
織葉はふっと鼻を鳴らした。「軍師とは思えぬ所業だな」と呟きながらも、箸をとる。
口に含めば、やわらかな旨みが広がり、思わず目を細めた。
「…美味い。」
蘇芳は静かに微笑んだ。
月は雲間に消え、やがて夜は深くなる。
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翌朝、霧に紛れて進軍した織葉軍は、蘇芳の策通り、敵本陣を背後から突いた。敵将は驚き、混乱し、指揮系統は崩壊した。
日が高く昇る頃には、戦は決していた。
勝利の声は野に響き、太鼓の音が空を揺らす。
しかし、織葉の心にはひとつの疑問が残っていた。
「なぜ…敵将は、背を晒したのだ。彼は、抜かりのない男だったはずだ。」
その答えを、蘇芳はすでに知っていた。
「敵の補給路に手を回しました。米俵の封を切り、貴族の贈物と偽って毒を混ぜたのです。食事は命――それを奪えば、心も戦えません。」
織葉の背に冷たい風が吹いた。
目の前の軍師は、穏やかな目で戦場を見ている。けれど、その目の底は深くて冷たい。
食とは、兵糧とは、戦の要であり、心の拠り所でもある。
それを支配する者こそ、真の軍師だ。
「…お前は、どこまで計算している。」
「全てを、とは申しません。ただ――」
蘇芳は一歩、織葉に近づいた。
「この命と心を、貴方に賭けた時から、私は全てを尽くすと決めました。」
その言葉の重さに、織葉は言葉を失った。
そして、ただひとつの問いを絞り出す。
「それは…忠誠か?それとも、情か?」
沈黙の中、蘇芳はそっと唇を近づけた。
触れたのは、織葉の口ではない。額だった。
「軍師としては、情は持つべきではないのでしょうね。」
そして、一拍おいて。今度は、唇が唇に重なった。
その一瞬、火花のような熱が、二人の間を駆け抜けた。まるで、戦より鋭く、剣より深く。
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それから数年。世は一度の大戦を経て、ようやく安定の兆しを見せ始めていた。
ある日の夕暮れ、城の奥。
書物に囲まれた軍議の間には、あの二人の姿があった。
蘇芳は文を書き綴り、織葉は傍らで黙して見守る。
目の前には、質素な夕餉が並べられている。炊き立ての飯に、甘く煮た大根、焼き魚に柚子を添えて。
「今宵も、見事な膳だな。」
「戦場でなくても、胃を労るのは大切ですから。」
やわらかな笑みが浮かぶ。
そこにはもう、冷たい策士の面影はない。
代わりにあるのは、静かに寄り添い合う、ふたりの温もり。
戦で結ばれたふたりが、戦なき世に交わすキスは、かつての火と違い、柔らかく、暖かく、甘かった。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
今回から、"日替わりお題"機能を使って一話完結小説を書いていくことにしました。
本作は「キス」「食事」「軍師」でした。
書いたことのないジャンルで少し時間を費やしましたが、とても大好きな作品に仕上がったので満足しています。
次回もお楽しみに。