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灯-第五章-〜ちいさな声〜
第5章:ちいさな声
陽菜は、初めて訪れる児童養護施設「みずいろの家」の前で、深呼吸をした。
古びたレンガの壁に囲まれたその建物は、どこか懐かしい匂いがした。
悠が紹介してくれた施設長・間宮(まみや)は、50代半ばの女性で、柔らかな笑みを浮かべていた。
「彰人くんが来てくれていたのは、もう1年半ほど前ですね。
最初は“怪しい若い男”って思ったのよ。子どもたちには警戒心も強くてね。」
陽菜は苦笑した。
彰人らしい、無計画で真っ直ぐな行動だ。
「でもね、彼、子どもたちの名前を一人ひとり覚えてたのよ。誰よりも早く。」
案内されたホールには、小さな椅子と、折り紙で飾られた壁。
絵本が並ぶ棚。そのどれもが手作りのあたたかさに満ちていた。
「彼のプロジェクトの続きを、ぜひあなたにお願いしたいと思っています。」
間宮の言葉に、陽菜は小さくうなずいた。
■出会い:少年「レン」
創作教室の第一日目。
陽菜は緊張しながらも、準備した絵本と画材をテーブルに並べた。
子どもたちがぞろぞろと入ってくる。好奇心いっぱいの目。
中には興味なさそうにふてくされている子もいる。
そんな中、ひときわ静かに、部屋の隅に座る少年がいた。
他の子と話さず、じっと床を見つめている。
「彼は、蓮(れん)くん。小学5年生。
ここに来てまだ半年です。」
と、間宮が小声で教えてくれた。
陽菜は、そっと彼のそばにしゃがんだ。
「こんにちは。蓮くん、絵は好き?」
彼は何も答えなかった。だが、陽菜の手元にあった色鉛筆をちらりと見た。
「好きな色、ある?」
沈黙。……そして、かすかな声。
「……黒。」
「そっか。黒も、すごく大事な色だよね。影を描くとき、なくちゃ困る。」
蓮の指が、わずかに動いた。
陽菜は、それだけで十分だと思った。
■彼が遺したもの
教室の後、蓮が帰ったあとに、間宮が一枚の紙を渡してきた。
「これ、彼が持っていたんです。施設に来た時、荷物の中に入ってました。」
そこには、色あせたスケッチブックの1ページ。
描かれていたのは、やや稚拙だが、優しい目をした男の人の横顔。
「……彰人?」
「きっと、そうでしょうね。蓮くん、彰人くんに懐いてたんです。
でも突然来なくなって、ずっと何も話さなくなってしまった。」
陽菜はページをなぞった。
自分だけではない。
この子もまた、同じ“喪失”を抱えていたのだ。
——彰人は、生きていた。
彼の存在は、確かに誰かの心に今も残っている。
そして陽菜は、ようやく本当の意味で気づいた。
自分が受け取った“灯”を、今度は誰かに渡す番なんだと。
■再び歩き出す
その日の帰り道、雪がちらついていた。
陽菜は蓮の描いた絵をそっと鞄に入れながら、空を見上げた。
雲の向こうに、淡い光がにじんでいた。
「蓮くん。明日も、来てくれるかな。」
その言葉は、誰にともなく口をついた。
でもきっと、空の上の彼にも届いている気がした。