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ひと夏の夢にさようなら
hpmiプラスです。お相手は簓です。夢主女子小学生設定です。
※恋愛要素なしです。厳密に言うと、基本的には恋に近い愛って感じです。
※簓さんの要素がちょっと少なめです。夢主ちゃんの独白だと割り切って読むのが良いかもです。
※直接的には描いていませんが、夢主に対する虐待の設定があります。苦しさや辛さの描写があります。苦手な方はブラウザバックなどの対応をお取りください。
これらが大丈夫なお方は、よろしくお願いいたします。
動物園とやらには、色々な動物が、それはもうたくさん居るらしい。水族館という施設も似ていて、海の生物達が巨大な水槽の中で、泳いでいたりするらしい。それを、お客さんは楽しむんだとか。
クラスメイトの子達とかから、たまに聞くそういう話。どこに行った、そこで何をした、どう思った、みんなが色々な体験を話してくれる。私はそれを、うんうん、とだけ頷きながら、黙って聞いている。
私は、みんなが家族で行くような場所に、行った事がない。家族とするような楽しげな事も、経験がない。同級生にとっては贅沢な二泊三日も、当たり前な夕飯時の家族団らんも、私はした事がないのだ。
私の家系は、ほぼ全員が公務員として働いている。学校の先生だったり、警察になっていたり、医者になっていたりと、最終的な職業は人によって様々だが、とにかく、全員が公務員であり、輝かしい人生を歩んでいる。
この伝統は、絶やしてはいけない。親からは常に、そう教わってきた。ずっと勉強を続け、筆記も実技も完璧にこなす。そうして、お前もこの家の人間として恥じない者になりなさい、と言われてきた。
だから、私は青春とか、楽しい事を何一つしない。勉強で忙しいから、テレビは見ない。旅行にだって一切行かない。というか、家族がそれを許しはしない。少しでも娯楽に触れてしまえば、母親も父親も、私に罵声を浴びせる。特にお母さんがひどいのだ。時と場合によっては、私がいくら泣いて謝ろうと、ちっとも許してなんてくれない。ずっと怒りっぱなしで、その瞬間は、私の事を忌み嫌ってくる。
勉強、勉強、勉強。他に何もいらない、あんたにはそれしかいらない。これが両親の口癖だし、きっとこれからも、それは変わらないんだろう。
でも別に良い。学校の先生になりたいと嘘を吐いて、ひたすら机に向かうのは、確かに窮屈で寂しいけど、だとしても良いんだ。
私が良い子でいる限り、お父さんもお母さんも、良い親で居てくれるから。それでこの家庭が守られれば、私が伝統を守って、親戚も平和で居られるのなら、きっとそれが一番だ。
あわよくば、そんないつかそんな私を褒めてほしいと思った事もあった。でもそんな願いは、いつからか泡になっていた。
--- *** ---
そんなある日の事。いつも通りの小学校で朝の会が始まると、担任の先生が嬉しそうな顔をしながら、こんな事を言った。
「今度、学校でバラエティ番組の撮影があります。当日は体育館で、芸能人の人達と遊びます。全国テレビに顔とお名前が出るかもしれないので、このプリントに保護者の方のはんことかサインをもらってきてください」
突然のお知らせだった。クラス中に配られたプリントは、テレビに子供の顔や名前を出す許可を求めるものだった。どうやら、親のサインなどが必要になるらしい。
私は芸能人なんて知らないし、テレビにこれといった興味もないので、淡々とプリントを連絡袋にしまった。しかし、周りのクラスメイトは、バラエティ番組の撮影というイベントに、今から心を躍らせているようだ。早速、先生への質問祭りが始まっている。
「先生! 芸能人って誰来るんですか?」
「これっていつやるんですかー!」
宥める隙も無いくらい、ひっきりなしに尋ね続けるクラスメイト達。ちょっと羨ましいなと感じた。芸能人であんなに喜べるなんて、きっと幸せな事だ。私は嬉しがれない。テレビの事も、有名人の事も、何も知らないから。皆は知ってるから、ああやって喜べるんだろうな。
「まあまあ、とにかくすごく有名な芸能人さんが来る事は間違いないから! いつやるかは今後話すから。さ、早く授業始めるよー!」
少々困ったような様子で、先生は授業に移り始めた。みんなはちょっぴり不服そうな顔をしながらだけど、とりあえず授業準備を始めてる。教科書やノートを取り出す音が、さっきまで歓声でいっぱいだった教室の中を支配した。
--- *** ---
数時間後。家に帰ってすぐ、私は両親に今日の事を話し始めた。
「ねえ、お母さん、お父さん。今日、学校でこういうプリントを渡されたの」
朝の会で配られた、あのプリントを二人に差し出す。最初はいつもと同じ顔で受け取ってくれたが、数秒後には怪訝な表情が浮かびはじめていた。
「#名前#、これはどういうものなの?」
「テレビ番組の撮影で、私達の顔とか名前が出るかもしれないって。それで、保護者の人に許可をもらってきてって、先生が」
私がそこまで言うと、二人の表情は、さらに黒く深まった。怪訝というより、もはやただの蔑みの目をしている。
お母さんもお父さんも、娯楽をあまり好まないタイプの人だ。テレビなんてもってのほか、論外なんだろう。とても不服そうに、プリントを見て目を細めたり、首を振ったり、眉をしかめたりしている。本当に、よほど気に食わないのだろう。
「……#名前#。これって拒否してもいいの?」
拒否の話は、そういえば先生はしていなかった。興味も無さすぎて、自分から質問もしていなかった。あの時聞けば良かったなと思いながらも、正直に「分からない、先生は言ってなかった」と声に出した。
「まったく、それぐらい質問しなさい」
お父さんが厳しく言う。お父さんは寡黙な人で、怒った顔がすごく怖い。怒られると、思わず萎縮してしまう。もう何十回もされた顔なのに、未だに心臓が跳ねそうになってしまう。お父さんは怖い人だ。
「お父さんの言う通りだわ。……今の時間から連絡掛けて、繋がるかしらね」
今の時刻は午後七時。学校に電話をするには、少々難しい時間だと思う。お母さんもそれは分かってるみたいで、無理かしらと口にした後、私の方を見てこう言った。
「ねえ#名前#。明日学校に行ったら、先生にテレビには出れませんって、伝えてちょうだい。今から私が電話しても、多分繋がらないわ。よろしく」
冷たい拒否の声が、私を殻の中に閉じ込める。やっぱり、こういうのは無理か。学校が直々にやってるとしても、やっぱりダメか。
「はい」
後で明日の予定帳に書いておかなきゃ、そう思いながら、私は頷いた。
ただ、いつもと感覚が違った。まるで心に穴が空いたような、いや、ずっと前から空いていた穴をやっと確認したような気分がする。悲しいでも、寂しいでも、苦しいでもないのに、自分の部屋に戻れば涙が出ちゃいそうな気持ち。
こんな感情を意味する言葉、まだ習ってないや。塾の先生も、教科書も、お母さんとお父さんでさえ、知らない私の気持ち。言葉にできない思いだった。
なんで、テレビの企画撮影なんてものが、許されると思ったんだろう。なんでちょっと、もしかしたら学校が言うなら、って考えてたんだろう。普通に、この二人ならダメって言うに決まってるのに。
なんでショック受けてるんだろう、私は。
--- *** ---
「やはり、あんな私立の小学校に入れるべきでは無かったんじゃないか。テレビ撮影だなんて俗な真似をする所より、親戚の人に薦められた名門に行かせるべきだったのでは」
リビングに置いてしまったヘアゴムを取りに行くために、一階に降りただけだった。その時、両親が話をしているのを見てしまった。勉強終わりで疲れている頭で、必死に内容を聞き取る。
その話は、私が聞くには衝撃だった。
「だって、それで万が一あの子が落ちてしまったら、#苗字#家の名前に傷が付いてしまうじゃない」
「あいつなら、この辺りの小学校御三家のうち一つくらいなら、合格できただろう。なぜそうしなかったんだ。恥だと言って保守するのか? その結果、あいつが公務員になれなかったらどうする」
お母さんとお父さんの声は、段々と大きく、威圧的になっていくようだった。顔は見えないけど、二人とも怒ってるみたいで、なんだかすごく怖い。逃げ出したい。ヘアゴムの一つくらい捨て去って、早く逃げ出したい。でも、恐怖で足が動かない。
「小学校の頃からしっかり教育するべきだ! お前はいつもそうだ、詰めが甘い!」
「じゃあなんで小学校決めの時にそれを言わないのよ! あなたが良いんじゃないかとか言うから、私はあの学校に#名前#を通わせたのよ! あの子を育てているのは私、文句言わないで!」
「学校を決めるのはお前の大事な仕事だ! あいつには、必ず名門大学への進学率が高い高校や中学に行かせろよ!」
実際の顔は見えないのに、声色だけでどんな表情をしているのかが分かってくる。二人の張り上げられた声が、恐ろしく怖い。体中が震えて、頭がおかしくなりそうなくらい、悲しい気持ちになる。
きっとこの先の人生で、今日の両親の会話は、耳にこびりついて、離れなくなるんだろう。そう思う。それがたまらなく、怖かった。
二人に気付かれる前に、私は音を立てずこっそりと、自分の部屋へと戻っていった。
早く、明日の授業の予習でもしなきゃ。
--- *** ---
テレビ撮影の日は、思っていたよりもずいぶんと早くにやって来た。
「さて皆さん、今日は待望のテレビ撮影です! タレントの皆さんと遊んで、思いっきり楽しんでください!」
皆が、本当に楽しそうなものを目の前にしている人の顔をしていた。やっぱりまだ少し、他の人達が羨ましい。
結局、私はテレビ撮影には出ない事になった。周りの家庭が軒並み許可して我が子を送り出している中、私だけが見学。体育館からの歓声も聞こえないような静かな教室で、一人だけのお留守番だ。
結局、出てみたいなんて言葉は出てこなかった。いや、出せなかったんだ。そんな事を口にしようものなら、親からどんな仕打ちをされるか分かったものじゃない。だったら、教室で寂しく自習でもした方が、苦しさとしてはまだマシだ。
下手な希望を持つくらいなら、最初から諦めていた方が良い。できるかも、と思ってできなかった時より、できないかも、と思ってできなかった時のほうが、よほどショックは少ない。
だったら、私は楽な方に進む。私自身がそうしたいし、何より、周りもそういう私を見ているから。
お母さんも、お父さんも、親戚の人達も、先生も、皆がそう。きっと、大人は私に茨の道を進んでほしくないんだ。だからあんな風に、私の道を塞いでいるんだ。その道は危険だよ、って。そう思う事にしている。
じゃあもう、いいや。それで。
「#名前#ちゃん、行ってくるね!」
「あとで体育館でのお話、聞かせたげるね!」
クラスメイトが、明るく体育館の方へと進んでいく。私は軽く手を振りながら、待ってると言っておく。
ああ、私もそっちに連れて行ってほしい。もう諦めなきゃいけないのに、胸の中にまだ残るちょっとした期待が、またよぎっていった。でも壊さなきゃいけないので、必死に無かった事にする。
教科書とノートとワークを机に置いて、心を上書きした。
--- *** ---
「そういえば、出演者の人って誰なんだっけ」
勉強をしている最中、ふとそう思った。本当はワークとのにらめっこを続けるべきなんだろうけど、気になって仕方がなくなった私は、プリントに乗っていた出演者の名前を確認した。
「――え、|白膠木《ぬるで》|簓《ささら》……?」
その時、覚えのある名前が目に映った。瞬間的に、脳裏にある記憶が浮かんでくる。
昔、私は一度だけテレビを見てしまった事がある。親戚の家、一人になった時に、出来心でつけてしまった。
確か、夏休みの夕暮れ時の事だった。いけない事だと考えていながら、気付けば私の手は、リモコンをしっかりと握り締めていた。夏の暑さが由来か、それともそれ以外か、汗で手のひらは軽く湿っていた。
テレビでは、バラエティ番組がやっていた。お盆スペシャル、なんて銘打たれたそのテレビでは、芸能人たちがトークで盛り上がっていた。
可愛いアイドル、話を繋げる司会、場を盛り上げる芸人。
その中に、白膠木簓が居た。
彼の話は面白くて、一瞬で虜になった。世の中にはこんなにおもしろくて、かっこいい人も存在するんだ、と思った。見ていてすごく、元気をもらえた。
あの日にテレビを見た事は、まだ誰にもバレていない。墓まで持っていく、一つの秘密にしておくはずだった。でも、思い出してしまった。
周りには居ない、これからもきっと現れない、憧れのヒーロー。いけない事の先で出会った、密かに大好きな彼の事を、まだ覚えてしまっていた。忘れなきゃいけない記憶が、まだ鮮明に浮かんでくる。
「……ダメだ、ほんとに」
勉強に戻らなきゃいけないはずなのに、手が全然動かない。その代わりに、頭と心が止まらなくなっている。
あの時見た彼が、今はここの体育館に居る。私がいつも体育の授業をしている、先週は跳び箱をしたあの体育館に。それで、いつもおしゃべりしてるクラスメイトと、遊んでいる。
いつもの日常の場所に、最大の憧れが居る。そう考えるだけで、脳がパンクしそうになる。心が震えて仕方がない。勉強どころじゃない思考が、巡り駆け回りはじめる。
嬉しい。一つの言葉にまとめるなら、これだと思う。とにかく嬉しくて、今この瞬間が楽しくて、しょうがない。
会えないのは少し寂しいけれど、でも良い。私にとっていつもある場所に、彼が立っている。それだけで良いんだ。その事実だけで浮足立つくらい、嬉しくてたまらなかった。
「簓さん……、居たんだ……」
ふわふわとした気持ちになっている、そんな中、私の耳の中に、一つの声が聞こえてきた。
「あれ、ここどこや……?」
青天の霹靂のような、足元から鳥が立つような、そんな衝撃だった。あの夏に聞いた、いつまでも忘れられない声。その声は、廊下側から聞こえてきた。
一瞬で分かった。間違いなかった。あの時に、私を救ってくれた人だった。その人が今、私の日常の中に立っていた。不思議な感覚がする。浮かぶような、同時に沈んでいくような、そんな心地がする。
「この学校広すぎやろ……どこ行けばええんや」
どうやら、体育館までの道で迷ってしまったらしい。確かにこの学校の校舎は広いから、迷うのも無理はない。実際私も、一年生の頃はずっと迷子になっていた。初めて来た人が迷うのは、もはや当然だ。
「んー、ほんまにどないしよ」
悩んでいるような声と、ふらふらと廊下を歩く音が聞こえてくる。
体育館へ、私が連れて行ってあげれば良いなと思う。私自身も、それができたらなと思う。でも、やっぱり脳裏に、お母さんとお父さんの事が浮かんでくる。怒っている時の顔と、耳をつんざく怒鳴り声と、躾の痛さと苦しさが、頭の中を駆け巡った。やっぱり、思い出すだけでも怖いのだ。これをもう一回受けるくらいなら、やっぱり私は――。
「誰かおるかな……あ!」
「え」
――なんていうのは、変わる前のわがままなんだろうか。
--- *** ---
「お嬢ちゃん、名前は?」
数分前まで、一人だけだった教室。そこには今、あの日見た憧れの人が立っている。
「えっと、#苗字##名前#、です」
現実である、という心地が全くしない。これは夢なんじゃないか、いつか目が覚めるんじゃないか、とも思う。でも、感覚もはっきりしてるし、さっきから自分の足をもう片方の足で踏んづけてるけど、これも中々に痛い。これは、疑ってしまうくらいに、夢みたいな現実なんだろう。というか、そうである事を願う。
「ええ名前やな。俺は白膠木簓や、よろしゅうな」
簓さんは優しく微笑んだ。あの日に見たのと、全く同じ笑顔。記憶と変わってなくて良かった。私が変にこの人を神聖化しすぎているわけじゃなくて、良かった。
「は、はい。あの、聞こえてきたんですけど……。白膠木さん、体育館までの道で迷ってましたか?」
いざこうして対面すると、思っていたよりも恐怖や緊張なんて無くて、気付けば体育館まで案内するのも大丈夫かも、だなんて考えが浮かんできた。親の顔が脳をよぎるよりも先に、私は自然と口を開いていた。
いや、やっぱり少し違うかもしれない。先に言葉が出たというより、できるだけ親の事を考えないようにしていた、の方が近いかもしれない。正直に言って、今はあの人達の事なんて、考えていたくなかった。
「そう、そうなんや! もうこの体育館広すぎて、迷うてここまで来てもうてんよ!」
そう言う簓さんは、ちょっと笑っちゃうくらいの、わかりやすい困り顔をしていた。それを見て、私も思わずフッと笑いが出てくる。
心の糸がほぐれたみたいな感覚があって、そこからはもう、話したい事が自然と口をつくようになった。
「そうですよね、ここ広いから。もし良かったらなんですけど、体育館まで案内しますよ。口頭でも難しいので、一緒に行きます」
この学校は、とにかく広い上に、廊下の回路が複雑だ。何を目印にどこに行けばいいか、口で言って辿ってもらっても、大体の場合はほぼ分からない。ここからかなり遠い位置にある体育館ならなおさらだ。だから、私が着いていく事にする。
それに、ほんの少しだけ、簓さんと一緒に居てみたいという気持ちもあった。
「ほんまか? おおきに、ほな道案内は頼んだで!」
そう言われたので、急いで勉強道具を机にしまって、私は席を立った。
「頼まれちゃった、頑張ります」
一人だった教室を後にして、渡り廊下の方に足を踏み入れた。
--- *** ---
「そういえば、#名前#ちゃんは教室で何してたんや? ずっとあそこにおったんか?」
廊下を歩いていると、簓さんがそう言った。すぐに下の名前で呼ばれた事にびっくりしつつも、とりあえず頷いた。
「はい。ずっと教室に居ました。勉強してました」
別に隠す理由も無いのでこう答えた。だけど、簓さんの方を見ると、少し驚いたような顔をしていた。何かまずい事でもあったかな。
「そうなんか? なんでや、遊びとかは興味無いんか?」
少し、言葉に詰まる。興味が無いと言われればそうだけど、あると言われてみてもそうだ。どっちで答えれば良いのか分からなくなって、気付けば答えははっきりとしないものになっていた。
「いや、そういう事じゃないですけど……」
濁したような、そんな口ぶりがついて出た。
「……そうなんか」
迷う私を見て何かを察したのか、簓さんはそれ以上、何も言わなかった。さっきまでと同じ、ただの静かな廊下に戻る。
さっきまでと同じなのに、雰囲気はなんだか妙に違うように思えてくる。体育館までの道が、なんだか遠く感じてくる。でも、これはただの気の持ちよう。この感覚は気にしない事にした。
そうやって数分間ほど、私達は互いに何も言葉を発しないまま、淡々と歩き続けた。
言いたい事はたくさんあった。聞きたい事も、したい話も、心の中に山ほどあった。でも、こうして実際に二人になると、何を言って良いか分からなくなって、私は口をつぐんだ。
意外とこんなもんなんだ、そんな感想が頭に浮かぶまで、そう時間は掛からなかった。
言いたい事は、いっぱいあったのに。
--- *** ---
そうして歩き続けていると、体育館が見えた。
「あ、着きました」
普段、授業で移動する時は近く思えるのに、今日はなんだか、道のりが遠いように感じた。
「おお、#名前#ちゃん、ほんまおおきに!」
簓さんは笑顔でそう言ってくれた。無事に着いて良かった、と思いながら、私も笑って撮影頑張ってくださいね、と手を振った。
あの人が体育館に入っていく様子を確認して、私は教室まで帰り始めた。また何も無く、淡々とした廊下を歩む。
「……結局、簓さんとは何も起きなかったな」
少し遠くの体育館から、皆の笑い声が聞こえる。その中で、私は一人で教室まで戻っていく。
本当はどこかで、この出会いで何かが変わる事を期待していた。簓さんに変えてもらう事を、どこかで望んでいた。ただ、ほんの数分ぽっちで私の思想が変わる訳はないし、簓さんに今までの全てを打ち明けられる訳じゃない。そんな事、本当は分かっていた。
「全部変えてもらおうなんて、バカみたい」
分かっていた。私の状況を塗り替えられるのは、簓さんじゃないって事。誰かに話せたら人生が明るくなるなんて、そんな現実は無いって事も。
なんだか、頭の中の糸が完全に解けたみたいだった。簓さんと会って、これは奇跡や運命なのかと思った。でも実際は、何も無かった。決定的な変わり目なんて存在してなかった。
やっと頭でも、心でも分かった。変わり目は、自分で作るしかないって事。
それに気付いたら、なんだか虚しさとすっきりしたような感情が同時に溢れてきて、泣きそうになった。
変えるのは全部、自分だったんだ。