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〖第四話〗 言葉と魔法と始めての"写本"
神殿書庫の一角、整理棚の隅に置かれた机の前に、リィナは座っていた。
机の上には、淡く黄ばんだ羊皮紙。小さなインク壺と、削られた羽ペン。それから、例文が記された練習用の写本。
「今日は、始めて"写本"をやってもらおう」
シオンの声は、どこかいつもより慎重だった。
「文字は読むだけのものではない。"書く"ことで、その意味は体の中に刻まれていく。そして、"魔法"も同じだ。魔法は言葉の力から生まれる」
リィナは緊張しながら羽ペンを握った。
初めて触る羽ペンは軽く、けれど繊細だった。少し角度を間違えるだけで、線が太くなったり滲んだりする。
「まずはこれ。『風は運びしもの、言葉は開きし鍵』――神殿の基礎句だ。この一文を、写してみなさい」
「はい……」
リィナは深呼吸し、そっとペンを紙に落とした。
す――っと、黒い線が走る。最初の一文字、"ヴェス"――風の文字。見慣れた形だが、自分の手で書くとまるで別物だった。
集中。慎重。呼吸を止めそうになる。
指が震える。だが、必死に形を真似し、心を込めて書いていく。
「……できました」
五分もかけて一文を書き終えた時、額には小さな汗が浮かんでいた。
シオンは紙を手に取り、じっと見つめた。
「……丁寧だ。少し字の傾きはあるが、力の入れ方が悪くない。君は――"言葉を大事にしている"書き方をしている」
リィナの顔がぱあっと明るくなった。
「ほんとうに……?わたし、書けたんですね……!」
「書けた。しかも、"言葉に意味を込める"感覚を掴みつつある。これは君の素質だ。」
リィナは何度も頷いた。言葉に、力がある。そう感じた瞬間だった。
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それから数日間、リィナは毎日一文ずつ写本を続けた。
最初はぎこちなかった文字も、やがて筆跡にリィナらしいリズムが生まれ始める。文字を追う目は澄み、手は迷いなく走り出す。
ある日、シオンは新しい課題を出した。
「今日は、聖典の一節を丸ごと写してもらおう。"風の祈り"――これは古くから儀式で唱えられてきた文句で、魔力を帯びやすい。君の力を試す、よい機会だ」
リィナは頷き、練習机に向かった。
『我は風の子、空より来る者。巡りて流れ、運びしもの。迷える言葉を導き、封ぜられし門を開け……』
その節はどこか、言葉そのものが生きているようだった。
写していくうちに、リィナの周囲の空気がふっと変わった。
窓はない。風もない。けれど、机の上の羽ペンがふわりと揺れた。
「……?」
目を上げると、部屋の角の魔石ランタンが、わずかに瞬いたように見えた。
ペンの先が軽く震える。
「……風が、……吹いた?」
リィナの囁きに、背後から声がかかった。
「感じたか?」
振り替えると、シオンが書架の陰から姿を見せた。彼の顔には、微かに笑みが浮かんでいた。
「言葉に込めた"想い"が、文字を通して現象を呼ぶ。それが、魔法の原初だ。君はまだ無自覚だか、さっきの祈りの文――わずかに"響いた"」
「……わたし、魔法を……?」
「いや、まだ"兆し"だ。だが、正しい方向に進んでいる。写本は写すだけだなく、"書き写しながら、理解する"行為だ。君の言葉は、響き始めた」
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その夜、リィナは下町の小さな屋根裏で、ぼんやりと天井を見上げていた。
薪の匂い、母の寝息、そして、かすかに指に残るインクの匂い。
文字は、読めるようになってきた。書けるようにもなった。
次に――自分は、何を"書きたい"と思うのだろう。
写本は"写す"だけ。けれど、もし自分の "言葉"を書けるなら。
その瞬間、リィナの心に浮かんだのは、黒い布に包まれたあの本だった。
――封じられた頁。真実すぎる言葉。
シオンが言った。「そのときまで、開けてはならない」と。
でも、もしもその"時"が――少しずつ、近づいているのだとしたら。
彼女は、知らず呟いた。
「わたし……書けるようになりたい。物語を、言葉を、真実を」
そして、誰かに"読ませたい"と、強く願った。