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優雅な侵入者
2026/05/02 優雅な侵入者
マリンバの音が音楽室に響く中で私はため息をついた。
演奏が終わると音楽室は拍手であふれた。私も周りと同じようにパラパラと軽く手を叩き合わせる。部員の1人が演奏していた安藤美姫に向かって言った。「すごいねー美姫ちゃん! その曲難しいのに。」へえ難しい曲だったんだと私はわずかに首を傾げた。安藤美姫は余裕のある表情とゆったりとした動きをしていたので曲の難易度はよくわからなかった。それに意識はずっと違うところに向けていた。帰ったら数学の勉強をしようとか、メダカの水を変えなきゃとか、そんなことばかり考えていたのだ。
「紗央里ちゃん、すごかったね、美姫ちゃんてやっぱ上手なんだね。」隣に立つ薫が私に話しかけてきた。背の高い薫と話していると首の後ろが痛くなるので私は適当に相槌を打って話を終わらせようとした。「私も頑張らなきゃなーっ、まあ、トランペットだけど。」
「そうだね。」
「今やってる曲が難しくって、紗央里ちゃんもうできる?」
「できるよ。」
「すごいな〜教えてよ今度! 今日はもう部活終わりだけど…えっとじゃあ火曜日とか!」
教えることなんて別にないのになと思う。けれど断り方がわからなくて首を縦に振った。薫は「やった!」と無邪気な笑みを浮かべたが、すぐに別の部員に声をかけられるとそちらの方に行った。その行為は何もおかしくないのだけれど私はそれを見て急にこの約束を薄っぺらく感じるようになった。薄っぺらい約束だし果たさなくても良いとまるでおかしな逆張りをするような気分になった。どうせ薫は火曜日になればこんな約束のことは忘れているし、覚えていたとしても急に用事が入ったからと顧問に伝えてすぐに帰って後日謝れば済むだろう。
私は通学カバンを肩にかけながら音楽室のドアを開けた。誰かに挨拶するべきかなとよぎったが雑談している彼らに声をかけるのも躊躇われ静かに外に出た。
音楽室だけ校舎から少し離れている。真冬の風に吹かれながら校舎の下駄箱まで小走りで向かう。
火曜日、薫は学校を休んでいた。私は約束が想像とは違う形で破られたことに安心と退屈さを覚えながら、放課後になるといつも通り部活に行った。しかしどうやら早すぎたようで音楽室にはまだ誰もいなかった。それどころか鍵も開いていない。ああ、職員室に音楽室の鍵を取りに行かないといけないのか、と2月の空気にさらされながら考える。重い通学カバンをドアの前に下ろしてからくるりと踵を返したとき、校舎の方から人が歩いてくるのが見えた。
知ってる顔だった。安藤美姫だ。その手には何かが揺れていて、光を反射して輝いているところを見ると鍵なのだろう。私は降ろしたばかりのカバンをまた肩にかけて彼女がこちらにやってくるのを待った。
「七宮さん! もうきてたの、早いね。鍵あいてないでしょ。」
安藤美姫が白い息を吐きながら笑う。私は愛想の良い彼女から思わず視線を逸らし頷いた。
音楽室にはいる。それでも空気は外より少し暖かいくらいだった。私は通学カバンを置いてからトランペットの置いてある楽器庫に行った。安藤美姫はすでにマリンバのバチを持って楽譜を広げ、練習を始めようとしていた。マリンバみたいなでかい楽器は楽器庫に入らないからいちいち取り出したりしなくて楽だろうな、とトランペットを抱えながらぼんやりと思う。
私が楽譜を取り出している時にマリンバの音がぽつんと落ちた。自然と視線を安藤美姫の方に投げた。先週の金曜日に聞いたものとは、多分違う曲だった。
安藤美姫が演奏している間はなぜか私は音を鳴らしてはいけないような気がして、楽譜を眺めるふりをして曲が終わるのを待った。あっという間だった。私は静寂がなんとなく気に入らなくて、また自分の演奏だけが音楽室に響くのも嫌で、口を開いた。
「あ。」安藤さんって、と続けた。「マリンバ……うまいよね。」
その瞬間に私の中で何かが崩れた音がした。喉の奥がかっと熱くなった。唾を飲み込むと胃に重く落ちた。安藤美姫は照れたように目を細めた。初めて彼女の笑顔を正面から見た。
「そうかな。…七宮さんのトランペットってどんな感じなの?」話題が全く別のものになって私は一瞬反応が遅れた。
「ふつうだよ。」
「聞きたいな。あっ、もちろんよかったらだけど!」
やはり断り方のわからない私は数秒迷って頷いた。「い、いま?」「うん!」心臓の波打ちが身体中に広がった。どっどっと1回ずつ全身に流れていく。私は今更「できない。」なんて言えなかった。仕方なくトランペットのマウスピースにくちびるを押し当てた。
トランペットはマリンバより優雅じゃないように思えて仕方がなかった。だから安藤美姫の前で披露なんてしたくなかった。それでもなんだか、私は今初めて、この音楽室に溶け込めた気がしてしまった。喉の奥で汚い音が鳴った。安藤美姫に聞かれていたら嫌だなと思った。