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〖第六話〗 階段の下にいるもの
二〇二五年六月二十七日、午後六時五十二分。
望月紗季は、文学部棟の裏手に立っていた。
大学のキャンパスはすでに閉門の時間を過ぎていたが、彼女と片瀬航は、かつての"仲間"である宇田川柊司に許可を得て、夜の敷地に入っていた。宇田川は現在、ここの非常勤講師を務めている。今夜の再会も、彼の提案だった。
そして――
あの"階段"は、何も変わっていなかった。
薄暗く、鉄製の手すりはところどころ錆びており、地面には湿った落ち葉が張り付いている。
階段の下には小さな植え込みと、石造りの通路が伸びていた。
誰も使わない通路。
七年前、"山添琴音"が"落ちた"場所。
「……来たか」
不意に、階段の上から声がした。
宇田川柊司。スーツ姿に薄手のコート。細身の体型は変わらず、しかしその目元には妙な疲れが滲んでいた。
「来てくれて、ありがとう。……この場所に、もう一度立つことになるとは思わなかったけど」
「……柊司。理子が死んだの、知ってる?」
「ニュースで見たよ。……赤い靴、だったらしいな」
その言葉に、紗季は小さく息を呑む。
宇田川は、その情報を"なぜか知っていた"。
片瀬が一歩前に出る。
「お前……知ってるな。律が"何を遺そうとしたか"」
宇田川は暫く黙っていた。
夜風が三人の間を吹き抜け、雨の気配を運んでくる。
やがて彼は、そっとポケットから古びたノートを取り出した。
それは、大学時代にサークル内で共有していた"創作ノート"だった。
「律が、最後に書いた"未発表の詩"だ。――俺だけが預かっていた」
紗季が一歩踏み出す。
「……なぜ、あなたが?」
「律が言ってたんだ。『最後に真実を書いた。でも、みんなには渡さない』って。……その代わり、『柊司、お前が"あのときのこと"を本当に反省しているなら、この詩を持っててくれ』って」
「反省……?」
片瀬の声が震える。
「お前、まさか……」
宇田川の唇がわずかに揺れる。
そして――静かに語り始めた。
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七年前。
文芸サークルは、当時十人ほどの小規模な集まりだった。
芹沢律は中心的な存在で、赤羽理子は彼の創作を支える編集的立場にいた。
望月紗季と片瀬航も、才能ある書き手として注目されていた。
そして、山添琴音。
彼女は詩ではなく"短編小説"を中心に活動していたが、その文章には他の誰にもない"鋭さ"があった。
しかし――
その"鋭さ"こそが、忌み嫌われるきっかけだった。
山添琴音はある日、"サークル内の人間関係をモデルにした"小説を投稿した。
そこには、赤羽理子の恋心、片瀬航の傲慢、そして――宇田川柊司の"盗作"をほのめかす描写があった。
琴音は告発のつもりではなかった。
しかし、その文章が回覧された日から、彼女は徐々に孤立し始めた。
誰も、彼女を守らなかった。
律でさえも。
「俺たちは、見て見ぬふりをしたんだ。いや……正確には、笑った。"あんなの、ただの嫉妬だろ"って。……琴音は、律に想いを寄せていた。でも、律が想いを寄せていたのは理子だった。そういう、どうしようもない三角形があった」
「それでも……彼女を突き落としたのは……?」
紗季の声に、宇田川は言葉を詰まらせる。
そして――答えた。
「……誰も"押してない"んだ。琴音は、自分から階段を降りていった。でも、そのとき俺たちは……」
雨が降り始めた。
冷たい水滴が、彼の言葉に重なった。
「後ろで笑ってた。『またあの子、情緒不安定じゃない?』って。誰かが『突き落としちゃえよ』って冗談で言った。その瞬間、琴音は一歩、踏み外したんだ」
沈黙。
「本当に、誰も押してない。でも、俺たちは見ていた。手を伸ばせば、止められた。律も、片瀬も、理子も、俺も。誰も何もしなかった。……だから、律は言ったんだ。"沈黙は、共犯だ"って」
宇田川は、創作ノートの最終ページを開いた。
そこには、芹沢律の筆跡でこう書かれていた。
**"俺らは押していない。**
**でも、笑った。誰も止めなかった。**
**彼女が落ちていくのを見て、目を背けた。**
**"それ"を罪と呼ぶならば――**
**僕らは、皆、殺人者だ。"**
望月紗季は目を閉じた。
雨の中、階段を見下ろす。
あの夜、自分がしたこと。
何もしなかったという"行為"。
赤羽理子は、その罪を抱えたまま、生きてきた。
そして、ついに耐えられなくなったのだろう。
「……律は、だから"詩"にしたのね。告発じゃない。証明でもない。――贖罪よ」
片瀬が肩を震わせた。
「……あいつは、一番苦しんでた。琴音に向き合おうとした。でも、彼女は大学を去った。連絡も取れなかった。だから、自分の死を通して"詩"を残した。……俺たちに、思い出させるために」
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夜の階段。
そこには、誰もいなかった。
けれど、足元に残る黒い影は、確かに"そこにいた"証だった。
彼女の名前は――山添琴音。
忘れられた名。
そして、詩となった魂。