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ケーキ泥棒は新たな友人を得るか?
三人称の練習。
修学旅行はつつがなく進んでいる。
「では、これから夕食です。手を洗ってから食堂に向かってくださいね。」
「はーい。」
まばらに返事が返ってくる。
|桃《もも》はシャープペンシルをしまってから立ち上がった。
今日の夕食はカレーライス。味付けが好みであることを桃は知っている。前日の夕食もカレーライスだったからだ。
「えー、またカレー?」
「でもさでもさ、今日はケーキが出るらしいよ!」
「本当!?やったあ!糖分、糖分!」
友人たちの会話が耳に入ってきた桃は、一瞬動きを止める。
ケーキ。それは、桃の大好物。
流石に修学旅行中は食べられないと思っていた桃にとっては、嬉しい誤算だった。さして興味がないその土地の博物館を見てまわるよりも、どんなケーキなのか考える時間のほうがずっと楽しい。
ショートケーキかな。チョコレートケーキかな。パウンドケーキかな。
桃の頭の中を色とりどりのケーキたちが占領する。なんとなく甘い香りがするように感じてくる。
「桃ちゃん、早く行こうよ。」
「あ、ごめん。ちょっと考え事してた。」
友人にせっつかれて、桃はようやく足を進めた。
席に座って、順番が来るのを待つ。食事が桃たちのグループは早めだったことに、桃は心から感謝した。
「はい、では4班さん。食事を受け取りに来てください。」
この言葉を、桃はずっと待っていたのだ。
桃は班員の中でも一番に列に並び、トレイを持った。1つ下にあったトレイがかちゃかちゃと音を立てる。
じりじりと進んでいく列。桃にとっては、この時間がとにかく苦しかった。早く進んでくれ。桃の胃は空腹を訴えていた。ぎゅうぎゅうと腹が痛み出す。
ようやくケーキが見えた。チーズケーキである。もちろん、桃はこれが大好きだった。
あの濃厚な味をこの宿で味わえる。糖分が欲しいと脳が訴え始める修学旅行2日目の夕食で、甘いものを堪能できる。
「夕食にケーキが出る」という噂は本当だった。それが確かめられただけで、桃は天にも昇る心地だった。
ちょっと味は好みだったけれど、カレーライスなんかどうでもいい。サラダなんてもっとどうでもいい。
ついに、ケーキのところに辿り着いた。
金色のケーキが桃の皿に取り分けられる。ついに手元に、チーズケーキが。
甘い匂いがふわりと、桃の元に届く。くらりとしながら、席に戻った。
「手を合わせてください。いただきます。」
「いただきます。」
あどけない声が、何度もその言葉をなぞっていく。
銀色に光るスプーンを手にして、桃はカレーライスを一口掬った。本当はフォークを手にしてチーズケーキを口に運びたかったのだが、しょうがない。チーズケーキは最後のお楽しみにしよう。
賑やかな話し声が響く食堂。
先にチーズケーキを食べた友人たちは、口々にチーズケーキを褒める。カレーを食べる手が早まる。
そしてついに、桃も件のチーズケーキに手をつけることにした。フォークを通じて、チーズケーキのしっとりとした質感が桃に伝わってきた。
「……美味しい!」
桃が想像していたよりも優しい甘さで、上品な味で、口の中でとろけていく。
だからだろうか。あっという間に少しの欠片を残して、チーズケーキは桃の胃の中に収められた。
儚い、ひとときだった。
桃は何も乗っていない皿を1人寂しく見つめていた。……しかし、しばらく後に担任教師が言った言葉で喜色満面の笑みになった。
「はい、おかわりOKだそうです。だからといって、食べすぎてはいけませんよ。明日も修学旅行ですからね!」
おかわりOK。つまりはケーキももっと食べられる。
ガヤガヤと席を立つ男子たちとともに、桃もワクワクしながら並ぶ。
ケーキだけ食べるのは少し恥ずかしかったので、サラダも少しだけもらうことにした。
そして、ケーキを1つ追加した。
ああ、本当に美しくおいしそうだ。サラダも食べ終わったので、早速いただこう。
その時だった。クラスの人気者の少女が、叫んだのは。
「あたしのケーキがない!」
彼女は、桃よりも少し後にプログラムが終わり、今から食事をとるようだった。小さなケーキの皿は、天井の照明を反射するばかりである。
「どうして?必ずもらえるんじゃなかったの!?」
大きな声で騒ぎ立てる。生徒全員の視線が集まる。
「ケーキは1人につき1つ、必ずあるはずです。もしかしたら……ケーキを2つ持って行った生徒がいるのかもしれませんね。」
ささやき声が、食堂に充満していく。
桃は手でついケーキを隠した。その数秒後に、怪しい行動だと気づき手を膝の上へと移動させる。
どくんどくんと、心臓が早鐘を打つ。いや、そんなまさか。それは後出しだ。私は、私は悪くない。先に言っていなかった先生が悪い。それに、私は見た。他に2個目を持って行った生徒を。
そう心の中で言い訳をする。それでも、桃は分かっていた。
この手の食べ物には限りがある。よく考えれば分かったことだ。事前に訊けば良かったのだろう。
私が悪い。そう、桃は分かっていたのだった。
分かっていても言い出せない。喉が鉛のような重く鈍いもので満たされ、唇がぶるぶると震える。
こっそりと桃は担任教師の様子を伺った。
目が合った、気がした。
お前は2個目を持ってきたんだろう。心のうちを見透かされたような心地がした。
すぐに担任教師の視線は別の生徒に移ったが、桃の気分はより暗くなる。
「泥棒ですか。せっかくの修学旅行なのに。残念なことです。」
致命傷だった。
「あの、先生。わた、私、気分が……。」
数十分後、ようやく桃は食堂に戻ることができた。
とっくのとうに他の班員たちは食事を終えて部屋に戻っていた。今ごろトランプでもして遊んでいるのだろう。
言うなれば桃にケーキを泥棒された少女。彼女は、今はその整った顔をほころばせてチーズケーキを頬張っていた。周りの生徒が話している内容によると、先生の分のケーキを彼女に回すことで解決したらしい。
桃のトレイが、机にぽつんと置いてある。ケーキは堂々とトレイに鎮座していた。
相変わらず綺麗で美味しそうなチーズケーキ。しかし、桃は食べる気にならなかった。
泥棒。
その単語が、胸に刺さって今もじくじくと痛みを放っている。チーズケーキを知らん顔して、のうのうと食べることは出来なかった。
ぼうっと椅子に座って、しばらく桃はチーズケーキを見つめていた。
片付けることにした。
かたかたと揺れるカトラリーを下げる。
ケーキも生ゴミとして、ゴミ箱に捨てようとした。
しかし、誰かの手によって皿は桃の手から奪い取られる。
予想していなかった事態に、桃の体はフリーズする。ゆっくりと、首を動かしてケーキ泥棒のケーキを泥棒した、その人を見る。
「あーあ、もったいないよそれ。ダメでしょ、食品ロスは。総合の授業でやったじゃん。」
変人。彼女をひとことで表すと、こうなる。
絶妙に価値観が俗に言う普通のそれからズレている子。
変な子だけど悪い子ではない。
そう評価されることがほとんどな少女。
「|諏訪《すわ》さん。まあ確かに総合の授業で勉強はしたけど……調子が悪いから、どうしても残したくて。」
諏訪は表情を変えず、ちょうど持っていた食器類をフォーク以外下げた。そして桃にとってありえない行動に出る。
「……うん、美味しいわ、やっぱり。これ残すとかもったいなさすぎる。」
咀嚼した。
桃が残したケーキを、実に美味しそうに諏訪は咀嚼した。
「は?」
これでも優等生だった桃は、思わずあまりに優等生らしからぬ間抜けな声を上げてしまう。
「あれ、ダメだった?でも、食べないとチーズケーキがかわいそうでしょう?」
「いや、そういう問題じゃなくて。」
クラスメイトが残したものを、何でもない顔して頬張る。
桃には到底できない所業だった。
「まあまあ、細かいことはいいじゃない。それに……。」
諏訪は桃の耳元でささやく。
「これで私も、共犯だよ。」
「は?」
またも間抜けな声をあげてしまう桃。
「ご馳走様。あと、もうそろそろお風呂の時間が近いから、急いで戻ってお風呂の準備した方がいいよ。じゃあ、またね。」
1人残された桃は、チーズケーキの皿と去っていく諏訪を交互に見た。
「……でもまあ、いいか。細かいことはいいじゃない。うん、確かに私は泥棒だけど。」
先ほど諏訪がかけてくれた言葉を、桃は反芻する。
喉にまだ重く鈍いものは残っている。しかし、一部は消えたみたいだった。
変な子だけど悪い子ではない。
その肩書きが、今の桃には眩しく見える。
「そうだ。バスの座席、結構近い。」
帰りのバス車内。今まで距離を置いていた「共犯」に話しかけてみよう。
新たな友人ができるといいな、とケーキ泥棒は願った。