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#5『episode Fuzo:一番星のオーバード』
この物語はフィクションです。また、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
--- 夜が開けるのが、いつも嫌だった ---
--- 永すぎる時間は、他のみんなを置き去りにする ---
--- |夜明曲《オーバード》が終わっても、側にいてくれる誰かを、欲していた ---
---
「……その煙草は、何?」
「え、銘柄ですか」
「そうじゃなくて、なんで煙草吸ってんのって話なんだけど」
溢れ出そうな怒りをじわじわ沈めつつ、声に苛立ちが出ないよう気を付けながらゆっくり話す。目の前の青年は、キョトンと……というより、ボーっとした顔で不思議そうに呑気なことを言い返した。
あの唐突な遠征要請から数日後。今俺らは迷いの森の入り口にいる。目の前には前衛武具隊隊長の|榊 真《さかき まこと》くん、後ろには困った顔の隊員達がいて、俺だけがこの空間でキレているこの状況は、少しだけ居心地が悪かった。
「なんでって…そら吸いたかったので。あ、現地集合って言わなかったのはすいません。煙草吸いたくて、連絡するの忘れてました」
「…いや、なんかもう、色々おかしいよね」
意味の分からない弁解に、段々と苛立ちが募る。事の発端は、多分今日の遠征の始まりからだった。
---
「…いない?」
「は、はい。その、榊隊長がまだ……」
「……なるほど。ありがとうね」
隊長になってから眉間を揉む動作が癖になっているのか、眉頭に指を当てていたことに気がつく。ため息をつく代わりにこれでは、結局他の子達に心配をかけてしまうから意味がないではないか。
今日は、迷いの森への遠征日。ちゃんと時間を決めて集合すると決めたのに、肝心の隊長…榊真くんがやって来ていない。さらに他の子への連絡もなく、予約していた馬車が来るのも時間の問題だ。
どうしようもない問題について考えるのを止め、横にいる隊員達を見やった。その表情はあからさまに不安げであり、心がモヤつく。別に関わりが多いわけではないけれど、それでも部下達にこんな顔をさせるのはいただけない。
「……とりあえず、榊隊長のことは忘れて、先に行っちゃおう!もしかしたら、集合場所を間違えちゃってるかもしれないしさ」
「え、でも…」
「総統には俺が言っとくよ。もし隊長になんか言われたら、俺にチクっといて」
「…ありがとうございます!フーゾ隊長!」
「どういたしまして。あ、馬車来たからもう乗っちゃお。馬車内で遠征内容もっかい確認ね」
「「はい!」」
---
(で、森まで来たら入り口で榊真くんが煙草をふかしていた、と)
「もう行きます?今新しいやつ火つけるんで、ちょっと待っててください」
「…へぇ、火消すとかじゃなくて?」
「え、消した方が良かったですか。別に俺煙草吸い終わったら地面に捨てるとかしませんけど」
そうじゃねぇだろ~……と心の中で溜め息をつく。どうやら榊くんはそこそこ厄介なヤニカスらしかった。
馬鹿な子だなぁ、とぼんやり思う。煙草は肺を悪くする嗜好品だ。別に医者として許せないだとかそんな正義感がある訳じゃないけれど、体力あってナンボの軍人がそれを嗜むのか……という呆れはある。
「火つくと危ないからしまおっか」
「えー…まぁ、そう言うなら」
渋々、といった風に榊くんは煙草をしまった。まだ聞き分けはある分マシかな、と思いながら振り向いて後ろの子達の様子を確認する。その顔は安堵に満ちていて、気遣わせちゃったなぁと反省した。
気を取り直して、森へと視線を向ける。ただの普通の森だけれど、行方不明者が多発している油断ならない場所。もしかしたら、俺らがいたような施設の根城になっているかもしれないそこへと、足を踏み入れた。
---
『【迷いの森】行方不明者が多発する、奇妙な森。一度入れば、出ることは非常に困難。…私達の家への、入り口』
---
「マジでここ、どこだよ……」
ぐるり、と辺りを見回す。先ほどまで一緒にいたはずの榊くん達は影も形もなく、まるで俺が白昼夢を見ているようだった。代わりにあるのは、不気味な色をした木々達。頭が痛くなりそうな配色と、妙な胃の違和感に口元を抑える。
歪んだ紅紫の幹に、深紫の葉、どす黒い地面、銀色の獣道。やけに輝きを持つそれらは、俺の目をザクザク突き刺すように光を放っていた。
キッカケなんてどこにもない、普通の探索中だったのに。榊くんが煙草を吸えないせいでイライラし出して、それを部下の子達が宥めているのを見て嫌な気分になって。
そうしたら、何か足に引っ掛かったんだ。木の根だろうかと下を見たら、その時には俺はもう黒い地面を踏みしめていた。顔を上げれば不気味な風景。まさに悪夢だ。
「……進む、か?」
後ろを振り向いても彼らはいないし、ただ俺らが来たような森が続くだけ。仕方なく足を進めることにした俺は、あるものを目にした。
「あ、蝶」
ひらひらと、薄紫の羽が2対揃って舞っている。やけに目を惹くその姿に、何故か思い出の中の姉を思い出した。
どうせ出口が分からないのなら、いっそのこと蝶にでも賭けてみよう。そんな馬鹿な考えを働かない頭に浮かべ、ふらふらと覚束ない足取りで俺は蝶を追った。
蝶の赴くまま足を進めれば、蝶は俺の思いもよらない方向へと進んでいく。右、右、左、右、あ、また右?なんか面白くなってきた。先ほどまでの緩いダレは消え、子供の頃に戻ったような気分になる。こんなに蝶を追いかけて、俺、何してるんだろう。
もう少し歩いていると、開けた場所に出てくる。先ほどまでは無かった紫の薔薇が咲き乱れ、真ん中には大きな木がそびえ立っていた。デカいし、なんか雰囲気がある不思議な木だ。蝶は、その木の右側へするりと抜けていく。俺も、その蝶の後を追った。
蝶は、その木の回りをぐるりと1、2、3周してまた来た道を戻ろうとする。
(え、戻るんだ。木の周りを回った意味とは)
そう思ってしまうと、なんだか疲れがどっとやってきた。大きく溜め息をつき、眉間のシワを揉みながら木に寄りかかろうと足を進める。いっそのこと、ここで寝てしまっても良いかもしれない。
すぅ、と気持ちの良い風が吹く。あの分厚い森にこんな心地よい風が吹くのかと思えば、薔薇の香りがした。
ざく、ざくと足を進めていたはずなのに、いつの間にか足音は固く、まるで石畳を踏んでいるかのようになる。先ほどまで一切しなかった生物の気配が、今は鳥の鳴き声となって俺の耳に届いた。
「……え?」
驚いて目を見開く。先ほどまで俺がいたはずの森は跡形もなく消え去っていて、代わりにあるのは美麗な花園のみ。咲き誇る薔薇達は生き生きとしていて、あの森の木々よりも輝いている。
足元に目をやれば、そこは石でできた品の良い道で。苔一つないそれは、手入れが行き届いている証でもあった。
そう、ここは庭園だ。懐かしい香りのするそこは、ひどく心を落ち着かせる。それが良いことなのか、悪いことなのか分からない。判断力が落ちているのかも。
あのときの蝶が、いつの間にか俺の周りを舞っている。俺もお前みたいに空が飛べたら森から抜けられたんだがな、と心の中で悪態をついた。
「…森の次は、庭園かよ」
溜め息をつき、文字通り頭を抱える。あの森と比べたら、まだ精神的にくるものはないが……正直なところ、これが良い変化なのかすら分からない。
何かトリガーがあったのだろうか、と考える。…そういえば、俺はここに来るとき多分木を通ったよな?
木といえば、桜街の方には御神木というものがあるらしいし。あの木だって、不思議な雰囲気を持っていた。
あの木がここへのゲートになっている可能性があるなら。もしかしたら、行方不明者達も皆、ここへと迷い混んだのではないか?
まだ俺の周りで舞い遊ぶ蝶を見やる。あの森の中にいたとき、俺は判断力がひどく低下していた。それこそ、酩酊状態のように。
もし俺のように、迷い混んだ奴らの判断力を低下させる、もしくは酩酊状態に近くする魔法があの森に満ちていたのであれば。この蝶に着いていきたいと思わせるような、何か魅了に近しいものをかけられていたなら。
「…もしかして、ここに誘い出された…?」
『違うわよ』
「あ、さいです、か………」
バッサリと切り捨てられ、落胆をしたのもつかの間。俺の耳に届いた声が、働かなくなった脳を瞬時に動かしていく。
懐かしい声がした。
瞬間、長らく朧気だった記憶がぐるりと動き出す。昔の昔、そのまた昔まで遡り、あの柔らかくて暖かい記憶が蘇っていった。
鼓動がバクバクと早まって、息の仕方を忘れそうになる。こんなところに、どうして?なんて、呑気なことすら考えてしまうくらいに、俺は動揺していた。
どうして、忘れていたんだろう?どうして今まで、何も思い出さなかったんだろう。分からなくて、また頭を抱えた。
紫色の薔薇、丁寧に手入れされた石畳。奥に見えるガゼボの位置に、アーチの形まで。その全てが、俺に懐かしさを感じさせていたのに。無意識に蓋をしていた原初の記憶が、甦る。
この空間は、俺がかつて住んでいた家にある庭園だった。
紫色の薔薇が咲き乱れている中、使用人によって丁寧に手入れされた石畳を走り、あの銀色の蝶を追いかけている風景が頭に浮かぶ。あれは、昔の俺だ。
懐かしい声のした方を、ゆるりと振り向く。何度も探して、けれどどこにもいなかった、俺の世界で一人の大切な人。
期待しても辛いだけだ、そう思いながらもはやる心は止められない。あの声も、この空間も何もかも、彼女がいるのであれば納得できてしまうから。
「………ねぇさん」
ぽつり、と弱々しく名前を呼ぶ。振り向いた先にいた彼女は、俺が探して止まなかった俺の姉だった。
銀色の髪も、俺より赤みの強い紫の瞳も、優しげな微笑みも、何もかもが懐かしさを残したまま、記憶の中の少女は大人へと変化していて。それでも見間違えることがないくらい、再開を待ち望んでいた人だった。
どこにいたの、何をしていたの、そう聞きたくて、けれど何も言葉が出てこない。代わりに出てきたのは、必要のない涙だけだった。子供のように流れてやまないそれをせき止めようとして、目元を擦る。
ねぇさん、ねぇさん、そう弱々しく呼ぶことしかできない自分が情けなかった。あれだけ探して、頭の中で何度だって思い描いていた場面なのに。現実の俺は、ただ泣いてばかりだ。
「ねぇさん、ねぇさん……あいたかった…」
『…フーゾ』
温もりに抱き止められ、涙は勢いを増していく。俺が泣いたとき、いつも姉さんは抱き締めて、こうやって慰めてくれていた。その度に俺は、心の中の柔らかいところまでも暖かくなる心地がするのだ。
懐かしい温もりに、年甲斐もなく縋りたくなる。忘れたくても、心の奥底で覚えていた暖かな記憶が、じわじわと色を取り戻していくような感覚だった。
『フーゾ、大きくなったね』
「…ねぇさん、も、大人になった」
『そうね。でも……身長は、あなたに負けちゃった』
くす、と笑う気配がして、それがまた懐かしさを加速させていく。どんどん暖かい記憶に囚われて、駄目になってしまいそうだった。
「俺、ねぇさんに会うために頑張ったんだ」
『知ってる。ここに貴方が来ることも、全部私は知っていたの』
「…ねぇさんは、すごいな……俺は、もう……疲れたよ」
すり、と頭を揺らして姉を抱き止める。こうしていないと、すぐにでもまた姉は消えてしまいそうだった。
もう、大切な人と離れ離れになんてなりたくない。そんな思いが俺の思考を駄目にする。懐かしくて暖かいそれは、真綿で首を絞めるように俺を抱き締めていった。
「…姉さん、一緒に帰ろう…それで、故郷に帰って……家も、親も、もういないけど…でも二人でもきっと楽しいよ…」
『軍の仕事はどうするの?』
「…辞める。もういい、しらない」
いくら治しても、治しても、負傷した兵士は増えるばかり。上は彼らを捨て駒のように扱う癖に、俺ら医療隊に戦うゾンビを作らせようとする。いたちごっこも良いところだ。
初めはやりがいがあった。治せば感謝されるし、多少のスリルは永劫の退屈に幾らかの刺激を与えてくれる。でも、それだけだ。
殺せば楽になる、そう思ったことは一度や二度じゃない。兵士の中には自害をする者もいたし、そうでなくたって俺に「殺してくれ」と頼む奴らはいた。無論全員治したが。
ヒトは脆い。命は短いし、怪我だってすぐ治らない。そのくせして、先を見据えず突っ込むのだから意味が分からなかった。
別に、興味の無い奴が死のうがどうだって良い。同僚だとか、仲間だとか、上司だとか、ずっと疲れてばかりだ。
戦争をするくせに、なんで全て暴力で解決しないんだろう。気に入らないなら殴れば良いし、言うことを聞かせたいなら脅せば良い。法なんて、あってないようなものだ。
『…いらないことを考えてるのね』
「わかるの」
『ええ、分かるわ。…貴方が、帰るべきだってこともね』
ぱ、と姉が腕の中から消えて、俺の腕は自分を抱き締めるような形になる。
また、姉が消えてしまう。そんな感覚が思考をずるりと支配して、強い恐怖が呼吸を変にした。
『立ちなさい。立って、あそこのアーチを潜るの』
「やだ、ねぇさん、行かないで」
後ろに立っていた姉さんの手を掴もうとして、手が空回る。いつの間にか姉は俺の後ろに立っていて、俺の背中をとんと押した。
『行くのは貴方よ。私はここでやるべきことがある。…貴方も、ね』
「また離れ離れになりたくない!!もし姉さんがここから出れないなら、俺がここに残る!!」
『我が儘言わないの。ほら、早くしなさい』
ぐいぐいと背中を押され、一つだけ色の違う、木でできたアーチの中へ押し込まれそうになる。必死に抵抗するけれど、姉の力は信じられないくらいに強い。足は虚しくも石畳の上をゆっくり滑ってゆき、アーチが眼前に迫る。
「何が、なにが駄目だった?!ちゃんと、ちゃんと直すからまた一緒にいたいよ!!」
『……そうね、強いて言うなら…』
ぱ、と背中から手が離れた隙に姉の方を振り返った。姉はとても寂しそうに笑っていて、一瞬思考が巻き戻る。
あの笑顔を、俺は知っていた。俺が誘拐された時、心配させまいと笑う、虚勢の現れ。別れの、笑顔だ。
『まだ、閉幕の時間じゃないもの』
後ろから強く引かれて、アーチの方へと体が吸い込まれる。足に力をいれる隙もなく、俺は呆気ないほどの早さでアーチの中に落ちた。
最後に見えた姉さんの目には涙が浮かんでいて。寂しい顔は変わらないけれど、なんとなく、憑き物が落ちたような清々しさがあった。
--- どうして? ---
--- 俺の何が駄目だったの ---
--- あんなに、探したのに ---
--- また、俺は… ---
---
「フーゾさん、浮かない顔してるね」
「え?ああ…うん、ごめん。それで、ティアーちゃんはどうしたんだっけ」
じ、と白色の目が見つめる。俺はすっかり話を聞き流していたようだった。彼の耳は伏せ、表情は変わらないが…恐らく、少々不機嫌になっているだろう。申し訳ないことをした。
俺らが迷いの森探索から帰還して、数ヵ月が経っている。時の流れはいつでも遅かったけれど、今回ばかりは早いとしか言いようがなかった。
あの後、俺は榊くんたちと合流して、そのまま森を出ている。結局、行方不明者の情報を掴むことはできなかったから、後日別の調査隊が赴いたとのことだ。
なんの成果もなかったけれど、俺らに処罰は与えられなかった。まぁ、捨てたはずの駒が戻ってきたことに悔しさは感じていたようなので俺は満足だが。
今は化学兵器隊の新人、ティアー・メリオーデちゃんとカフェで休憩している。ちょうど先ほど、街中でのちょっとした仕事を終えたところなのだ。
改めてティアーちゃんの顔を見る。どこか気の抜けたような、でも綺麗な顔の子だ。赤色の髪が色素の薄い瞳の代わりによく目立っている。
「…フーゾさん、ボクじゃなかったら多分今殴られてるよ。話聞き流したの、今で4回目だからね」
「え、そんなにか」
「そんなだよ~。フーゾさん、女の子と遊んでたって言うけどあしらい方下手だね」
「耳が痛い話だねぇ…」
ザク、と心に突き刺さるような言葉を、何ともないように放つ彼に、思わず苦笑した。
獣人であるティアーちゃんは、どことなく世間とズレている。それでも干されずにやれているのは、きっと彼が類い稀なる天才だからだろう。
「それでさ、ボク今髪の毛短いじゃん?だから伸ばそうかな~って。ロングツインテールとか結構似合いそうじゃない?」
「良いねぇ、ティアーちゃん顔が可愛い系だから似合うよ」
「分かる。なんでボク女の子じゃないんだろうね~」
「ね~」
……忘れそうになるが、ティアーちゃんはれっきとした男性だ。自認は男性だが、恋愛対象は男性。……ちなみに、彼が自分のことを「なんで女じゃないんだろう」と言うのは「なんで(こんなに可愛いのに)女じゃないんだろう(これじゃあ本当の女の子が報われないよ)」という意味である。
所謂ナルシスト、それも女装趣味。俺自身がバイセクシャルなので偏見は無いが、他は違ったようで。彼はキワモノ揃いの軍の中でも、相当浮いている存在であることは間違いないだろう。
「てか、フーゾさん今好い人とかいないの」
「いないねぇ、ここ暫くは忙しかったから」
「ふーん……」
そう、忙しかった…だけではない。本音を言えば、姉さんのことを引きずっていたのだ。
あの時の『まだ閉幕の時間じゃない』という言葉が、ずっと引っ掛かっている。姉さんは、あんな表現を使うほど劇や本が好きなわけでもなかったのに。
敢えてあの表現を使ったとしても、その真意が分からない。まるで、この世界そのものが演劇だ、と言わんばかりの…
---
「…フーゾさん?フーゾさ~ん」
「……あれ、ごめん。またボーッとしてた」
「5回目。疲れてるなら寝なよ」
「うん…そうしよっかな。ごめんね」
やけにモヤモヤした感覚がして、重い体をなんとか立たせる。今日は、何にも考えずに早く寝たいな……
カフェから出て、俺の家の位置をなんとなく頭に浮かび出させた。ここからなら、魔法を使わずともすぐに行けそう、かな?
「あの~、すいませぇん」
「……うん?どうかしました?」
声がして振り返れば、いかにも男が好きそうな格好をしている女の子がいた。可愛い、けど……先程ティアーちゃんを見たせいで、若干目が肥えているのだろう。とても可愛いとは思えなかった。
「お兄さん、格好いいな~って……この後とかって、暇ですか?」
ああナンパね、と一人納得する。最近は忙しくて外をあんまり歩かなかったから、久しぶりな感じがして気づけなかった。
ごめんねと断ろうとして、されど口をつぐむ。別に忙しさは緩んでいるし、火遊びもたまの息抜き程度なら構わないだろう。
「暇だけれど……もしかして、ナンパ?」
「あ、バレちゃいましたぁ?」
するすると進んでいく会話が、やけに懐かしく感じる。自然に絡まされた腕も、甘ったるい香水も、全てが何も響かないまま。
頭の中に、古い記憶が甦る。シイと一緒に寝ていたときの、あの感覚。お世辞にも柔らかいとは言えない筋肉がつき始めているくらいの固さで、それでもひどく暖かかった。今とは似ても似つかない。
(…馬鹿だな、俺)
こんな|もの《記憶》、大事にしまっていて何になるのだ。
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「政府公認の殺し屋制度……って、何考えてるんですか総統!!」
「フーゾ、軍は人手不足なのだ。今は、殺し屋だろうがなんだろうが使える駒が欲しい」
「でも、危険すぎます…!!!」
「私が決めたことに口出しするのか?」
「……申し訳ありません、失礼します」
バタン、と当て付けのようにドアを勢い良く閉め、大きなため息をついた。ついでにあの馬鹿総統、ついにやりやがった…と呟く。
この国では一般的な、されど違法の職業。依頼された相手を要望通りに殺害する、それが通称殺し屋だ。勿論うちの国で殺人は許可されていない(ということになっている)し、俺だって何回か現行犯を見つけたことはある。
そんな殺し屋を許可するなんて、今も低い民からの信用をさらに地の底へ叩きつけるような行為だと、なぜ分からないのだろう。
どんなに試験を難しくしようと、結局はどこまで行っても殺し屋。総統はそういう奴らと話したことがないから、その事が分からないのだ。
もう一度、大きくため息をつく。総統の尻拭いをさせられるのだから、補佐官なんてロクな仕事じゃない。何が出世だ。
恨みがましく総統室の扉を睨み付け、俺は目的地へと足を早めた。
---
「…フーゾさん、なんか怒ってません?」
「ああ、榊くん……まぁね。てか煙草」
「…今吸ってないのに」
「匂い。軍服から煙草臭のする軍人とか最悪だから、何とかしなよ。…ほら、出して」
「……どぞ」
角から出てきた榊くんの煙草を没収する。もうこの流れも何度繰り返したのか分からないが、彼が性懲りもなく煙草を吸っていることだけは確かだ。
彼と何度か仕事を共にしてはいるけれど、今でも彼の人となりはよく分からない。面倒くさがりなのか、効率主義者なのか、聡いのか愚かなのか。
「なんでキレ気味なんすか」
「何回言っても君が煙草を辞めないからじゃない?」
「…それは、まぁ……サーセン」
謝るくらいならやらないでよ、と思いつつその言葉を飲み込む。煙草を大人しく差し出す所を見るに、本人も辞めたがっているのだろう。俺はその手伝いをするくらいで良い。
「……で、なんでキレてんすか」
「まだ聞く?……まぁ、総統絡みだよね」
「あ~…あの新制度」
「そ、クレーム対応とか増えそうだし、ほんと勘弁して欲しい。…これ、総統にはナイショね?」
「うぃ」
じゃあね、と手を振って榊くんと別れる。そんなに顔に出てたかな、と考えていれば、自身の手がまた眉間を揉んでいたことに気がついた。
完全に無意識だった、もしかしたら榊くんコレ見て分かったのかな…???
(…なんか、加齢を感じちゃうな)
嫌なことを考えてしまい、頭を振って思考を外へと追い出す。そう言い聞かせて、俺も榊くんとは反対方向に歩きだした。
---
--- その噂は、突然耳に入ってきた ---
それは、始めて公認殺し屋試験が実施された後だった。つつがなく行われたその試験にて、なんと一人合格者が現れたとのこと。
あれは本物の軍人ですら身に付けないような、言ってしまえば不必要な知識もないまぜにされた筆記試験に加え、戦い慣れている兵士との対人戦闘試験はハッキリ言って殺し屋には不利な条件だった。それを、戦闘試験に関しては魔法・武具どちらともにクリア。
何故軍人にならなかったのかと思うほどの知識量と戦闘能力を兼ね備えた男の噂は、瞬く間に軍内で噂になった。ソイツはあまり軍基地には来ないため顔を知っているやつは少ないが、それでも試験時の容姿は噂に兼ねられている。
--- どこかで、そんな予感はあった ---
白い髪にオレンジの目、尖った耳を持つ美形の男。極めつけは、敬語を使わないこと。
「……それ、なんて男?」
恐る恐る聞きながら、俺は確信を持っていた。あんな男がこの世に二人といてたまるか、なんて妙な悪態をつきながら、心は運命のような何かに期待をしている。
「ソイツの名前ですか?ええと、名前は…」
幼馴染みで、同じ師匠を持つ仲間で、親友で、そして、俺の初恋のひと。太陽のような、強くて美しい彼の名前。
--- シイ・シュウリン ---
ありがとう、と掠れそうな声で伝えて、その場を後にする。…否、本当は言えていたかどうか自信がない。とにかく、今は誰とも合いたくなかった。
油断をすれば覚束なくなる足に力を入れて、頭に浮かんだ一つの場所へと歩き出す。あそこなら誰か来る可能性は低いし、来たとしても俺がいるのは不自然なんかじゃない。
生きていた、なんて今更なことを実感する。シイ・シュウリン、もう何百年会っていないのか分からないほど、遠く昔の彼。俺の心に大きな穴を残した、もう一人の人。
そんな彼がこの国にいて、ついこの間俺のいた軍に来た。それだけで心臓がカッと熱くなって、体中の血が巡る程喜びを覚える。
(いる、生きている。シイは、この国のどこかにいるんだ)
会いたい、なんて気持ちが出てくるのはそれからすぐだった。人間というのは欲に正直な生き物のようで、さればその思いは押さえられないほどに大きくなる。
今から戦争でも起こせば、シイは召集されてこの軍にやって来るのだろう。いっそのこと、俺が今から起こしてやろうか。
(…いや、さすがに敵国は良くないか。最悪俺もシイも死ぬし)
マシになった足取りを止めて、念のためルームプレートを確認する。そこにはしっかり「医務室」と書いてあったため、安心して部屋の扉を開いた。
俺が向かっていたのは、医療隊の基地とも言える医務室だ。まぁ、基地と言うには色々な場所に医療隊が出払いすぎているのだが。今回だけは、それが好都合だった。
バタンと勢いよくドアを閉めて、誰もいない部屋のベッドに横たわる。頭の中には、どうすればシイと会えるのだろうかということだけが頭を占めていた。
この国は微妙に広い。別に永い命があるんだから地道に探せば良いのだが、それよりも手っ取り早いやり方があるのならそちらを優先したかった。
最近、国内では革命の兆しが見え始めている。今の総統の駄目さからいずれ来るだろうとは思っていたが、どうやら公認殺し屋試験が図らずしも民衆の怒りを沸騰させる最後の一押しになったようだった。
さすがの総統もこの兆しに気がつかないほど馬鹿ではないようで、何度か俺らも様子見をしたことはある。
そこで分かったのは、怒れる民衆を束ねているのは一人の少女だ、ということ。名はクリス、10代ほどにしか見えない彼女は、言葉巧みに民衆達の心を掴んでいた。
軍内部でも、現総統への不満は募ってきている。それこそ、殺し屋試験を皮切りに辞職した者達も少なくはなかった。俺自身辞職を考えたこともある。
(革命が起きれば、軍は動く)
凪いでいた心に、一つ、また一つとさざ波が立っていくようだった。どうするかなんて心の中ではもう決まっているようで、ただ最後の確認だけを一人で何度も反芻している。覚悟はもう、とっくのとうに決まっていた。
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「君が、クリスちゃんで合ってるかな」
「……何か用か?」
ピリと空気が肌に焼き付くようで、思わず苦笑してしまう。空気の発信源である目の前の少女は、ピクリとも笑わずこちらを見つめていた。
鷹のような少女、という印象を抱かせる彼女と俺は、今使われていない廃屋の中で会合をしている。
キッカケは、俺が彼女を呼び出したこと。革命運動に精力的な知り合いに頼んで、彼女とアポイントを取ったのが昨日。正直、呼び出しに応じてもらえるかは半々だったが、応じてもらえてまずは一安心と言ったところだ。
「俺は軍人なんだけどさ、最近総統に不満がある奴らが増えてきたんだ。…だから、俺らも君たちの仲間になりたいんだよね」
「…そうか。なら聞くが、お前が私達を摘発する可能性はどう消すつもりだ?」
その言葉に、賢い子だなという感想を抱く。普通、革命だとかそういう大義名分を背負う奴らは感情に身を任せるのに。やりづらいっちゃやりづらいが、逆に味方になれば心強そうだ。
「じゃあさ、君が俺のこと見定めてよ。総統になるんなら、人を見る目は鍛えておいて損はないし。ね?」
「………構わない。が、何か変な行動をすればその時は交渉決裂だ」
きっと、彼女には俺が下らない理由でこの革命に参加しようとしていることもバレているのだろう。そう思うほど、この少女には隙というか、そういうものが無かった。
一先ずはまた安心、と思い肩の力を緩く抜く。改めて少女を色眼鏡抜きで見てみれば、本当に若く無邪気な少女にしか見えなかった。この容姿で人を束ねるカリスマ性があるのだから、人は見かけによらない。
「ところで、その場合はどこに行くの」
「…………確か、最近近くにパティスリーができたそうじゃないか」
「じゃあ、そこに行きましょうか。お茶もできるし、丁度良い」
(…甘いものは好きなのね)
不思議な所で年相応なことに、内心面食らいながらも了承する。ホント、軍服じゃない私服で来て良かった。じゃないと有ること無いことを彼女が言われてしまいそうだ。
---
--- その時は、存外すぐにやって来た ---
「クリスちゃんって下の名前何て言うの?」
「ワケあって、今は下の名を明かすことは避けたい。よって教えることはできないな」
「ええ?つれないなぁ」
ですよね、なんて心の中で相槌を打ちながら人混みを歩く。今日はそこそこ人が多く、パティスリーが空いているかどうかだけが不安だ。
そうは思いつつも、おくびには出さずに彼女との会話を続ける。やっぱり革命の首謀者ともなれば警戒心も強く、こちらに悟らせぬように一線を引くのが上手かった。
そうして腹の探り合いをしつつ、それでも幾つか世間話なんかもしながら歩いていた時。
不意に、視界を懐かしさを覚える白色が独占した。……否、独占されたように思えるほど、俺はその一点に釘付けになったのだ。
「……シイ?」
驚きで、思わず声が出ていた。考え出したら止まらなくて、そうこうしている間にシイらしき人物はスタスタと前を歩いていってしまう。
足が動き出したのは、ほぼ反射と言っても良い。そのくらい、俺は彼が何者なのかを知りたかった。
後ろからクリスちゃんの咎める声がする。信用失ったらヤバいかな、なんてぼんやりと無責任なことを考えるフリして、頭はシイのことしか考えていない。
「っシイ!!」
「うお」
行かないで欲しい、そんな焦りのあまり声を荒げ、乱暴とも取れるようにシイの腕を掴んだ。厳密にはこれがシイの腕である確証は殆ど無いのだが、何か確信めいた予感があった。
驚いた声がして、こちらを彼が振り向く。その刹那、記憶も思考も全てがあの日あの場所へと戻っていくような感覚を覚えた。
なびく白髪は太陽の光を受けて眩しいほど輝き、橙赤色の瞳は目まぐるしく感情を写す。あの頃の端正な顔立ちはそのままに、幼さが移ろい大人びた印象を与えた。
白い肌も、尖った耳も、鍛えているのにどこか華奢な体だって。哀しいほどあの日の彼で、愛おしいほど美しい。思い出の中の彼が、歳を取って今ここに幻覚として現れたのでは?なんて、馬鹿なことを考えるほどだ。
「久々じゃんフーゾ!うわ、すげぇぐーぜん!」
「あ、そ、そうだな。シイも元気そうで、何よりだよ……」
そうして見惚れているうちに、己がシイの腕をガッと掴んだままなことに気がつく。が、慌てて腕を放せどシイは嫌だった素振りを見せはしなかった。
シイは久々の再開にはしゃいでいるようで、喜びのあまりか所々言葉がつっかえている。それもまた幼少を思い出して、何故か無性に泣きたくなった。
俺と言えば、逆に緊張して馬鹿みたいに吃りを発症している。シイは明るい笑顔を作って他愛の無い話を振ってくれるのに、俺を経由したらラリーが一切続かない。
会話続かねぇよ、どうすりゃ良い?昔の俺はどうやってシイと接してたんだ。そんなことをぐるぐると考えていると、ふとたった一つだけ、俺がシイと関連のあることを知っている話題が頭をよぎる。
「……あ、そういや。公認殺し屋試験合格おめでとう。…軍でも結構噂ンなってるよ」
「ェ、ほんと~?!へへ、なんか照れるわ」
言葉通り、シイは軽く頬を染めて頭を掻く。その動作の一つ一つがひどく魅力的に見えてしまって、これが惚れた弱みか、なんてやけに冷静な感動を捉えた。
シイの一挙手一投足から目が離せなくなって、視界がシイで独占されるような感覚だ。でもそれは決して嫌ではなくて、俺自身がそう望んでいたのかもしれない。
とにかく今は、視界のどこかへと消えてしまわないようにずっと見ておきたかった。
「……後ろ、カノジョ怒ってるぞ?」
こしょ、とシイが俺に耳打ちする。カノジョ、と言うのは女性を指す三人称よりも、きっと恋人と言う意味なのだろう。
嗚呼そうか、あの状況ならそう思われるかもしれない。
「え、あ、いやそういうわけじゃなくって」
弁解しようとした言葉は、案外簡単にほどけてその意味を失っていく。どう捉えたって慌てて浮気じゃないと弁解している男のような俺に、心の中で苛立ちさえ募ってきた。
行ってこいよ、とシイに背中を強く押されて、渋々前に出る。視線を向ければ確かにとても不機嫌なクリスちゃんが立っていて、あーやっちゃったかしら、なんて温度の無い反省が頭をよぎった。
「交渉をここで終わりにしても良いんだぞ」
「すいませんって……」
「…仮にも信用してもらうためのこの機会に恋人探しとは、随分と良いご身分なようで」
「ほんとに…てか恋人募集してませんって」
怒っているのか喜んでいるのか微妙に分かりづらい彼女に意識の殆どを向けつつ、ちらと後ろを確認する。
もうそこに、思い出の面影を纏った彼はいなかった。
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頭が真っ白になる代わりに、視界が真っ黒になったような感覚を覚える。普通対局の色のはずなのに、今だけは共存していてそれが憎たらしかった。
目の前の光景に、強く感情が荒れだすのが分かる。心がグチャグチャに引っ掻き回されるようで、今すぐその根元を立ちたい気持ちすら芽生えてきた。
運命のような再開、だと思っていたのに。それは俺だけだったのだろうか?
シイが俺なんかに惚れるはずがない。俺は両性愛者で、アイツはきっと異性愛者だって思って、我慢してたから。
クリスちゃんとの交渉を終えて、俺はすぐシイを追いかけた。もっと弁解がしたい、あるいはまだあの心地よさを味わっていたいという気持ちのばかりに。
そこで目にしたのは、シイが知らない男に半ば凭れかかるようにしながら歩いていた光景だった。
寂しくて、シイのそんな言葉だけが耳鳴りのする鼓膜を微かに揺らす。寂しい、なら誰にだってそういうことをするのか?なんて。
(俺も同じじゃないか)
寂しいから誰かに体を預けるシイと、虚しいから誰かの心を貰う俺。そこに何の違いも無いと、今なら断言できてしまう。
シイと男が内郭区域に足を運ぶのを眺めながら、俺はただ呆然と下らないことを考える。今俺は、この世界で誰よりも意味の無いことをしているとさえ本気で思えた。
不思議と失望はなく、代わりに強い自己嫌悪が流れてくる。俺がもっと、日和らずにアプローチでもなんでもしていれば?否、俺がシイに体を預けられると思われるくらい好かれれば良かったんだ。
いくら考えても時間は戻らないし、俺の気持ちがマシになるわけでもない。それでも虚しくて、苦しかった。
初恋はレモンの味と言うのなら、始めて味わう失恋の味は辛酸のような苦痛を伴っていた。感傷的な気持ちのまま、誰に言うわけでもない言葉を放り投げる。
「……やっぱり俺ら、似たもん同士だね」
言葉は誰にも届かずに、ただ俺の心を抉るばかりだった。
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その出来事から1ヶ月ほどたった頃。今はシイと一緒に中央区域のとあるバーに来ていた。シイは飲むペースが早かったのか、カウンターにぺしゃりと顔を預けている。
あれから、シイとは何度も会うことが多くなった。軍の仕事もしつつ、革命の準備もしつつなので当然会える回数は少ないが、それでもシイと会えるのは嬉しい。
なんだかんだ、あんな場面を見ても俺はシイのことが好きなようだ。惚れた弱み、なんて言われてしまえばそれまでだけれど。なんとなく、まだ諦めたくない気持ちがあった。
と、シイの顔が本当に赤く目がとろんでいることに気がつき、さすがに止めたほうが良いかと思い始める。
「シイ大丈夫?もう飲むのやめたら?」
そう言ったものの、シイはこちらの言葉が聞こえていないのか止めるつもりは無さそうだった。それどころか、新たな酒に手を伸ばしている。
シイと酒を飲むのはこれが初めてなのだが、さすがにこれが通常のペースでないことだけはすぐ分かった。何か自棄になっているような、酒で忘れようとしているような感じがするから。
どう止めたものか、と悩んでいればまたシイがぐいと酒を煽る。さすがに飲み過ぎると死が顔を出してくる可能性もあるので、このくらいで止めにさせようとシイを咎めようとした。
と、シイがやけに俺の顔を見ていることに気がつく。ゴミでもついてる?と聞いても返事は返ってこず、ただぼーーーっと俺の顔を眺めるだけだ。
「…シイさーん?酔ってる?」
ぺちぺちと頬を軽く叩いていると、不意にその手を掴まれる。あ、怒ったかなと内心冷や汗をかいていると、シイが俺の手に頬擦りをしだし、た。
(…え?え、え?どういう、何これ夢?)
突然自分が馬鹿になったのかと思うほど、何も考えられなくなる。シイかわいいとか、夢かもとか、そういうガキみたいなことばかりが頭を占めて思考スペースが一切空く気配がないのだ。
俺の気もしらず、シイはぼんやりと頬擦りを続けている。シイがたまにこちらを見るときの、目の潤みだけでおかしくなってしまいそうだ。
「…っ、あーもーその目やめて…それで見られるとほんと効くから……」
顔が赤くなっていることを感じながら、何とか制止の言葉を呟く。と、やっと言葉が耳に入ったのか、シイがこちらを見た。…上目遣いで。
バクバクと心臓が熱くなってくる。頭がさらにふわふわしだして、現実と妄想の境目が甘やかに溶けていった。そのときブツ、と何かが千切れる音がしたのは、きっと気のせいじゃない。
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「オレは……ううん、オレも、フーゾと付き合いたいよ」
夢のような感覚だった。現実じゃないような気がしていて、それはきっと今が幸せすぎるからなのだろう。
酔った勢いでシイのことをお持ち帰りして、結局日和って何もせずに帰って数日。気まずさから全力でシイのことを避けていたのに、交遊関係が広く勘が鋭いシイには見つかってしまった。
手を出さなかったことを何故か詰められ、半ば自暴自棄になって想いを溢してしまい、あー終わったな、なんて思っていたのに。想いを伝えた後のシイの顔が、あんまりにも照れていたものだから、思いきって告白までしてしまった。
恋愛的に好き、付き合いたい、シイのそんな言葉が耳に入ったとて、臆病な俺はそれが都合の良い夢である可能性を考えてしまう。
「…言っておいてなんだけど、良いの?」
「……二回も言わすな」
どうしよう、どうすれば良い?もし夢だとしても、覚めないでほしい。
いつでも、置いていかれるのは俺のほうだった。皆の命は短くて脆いから、夜が明ければすぐ消えてしまう。俺はそれを見送る側。
でも、シイとなら。永い命を持つ者同士、夜が明けてもずっといられるんじゃないかと、そんな空想ばかりしていた。それが現実になることはなく、ただの絵空事だと、本気で信じて。
「……本当に良いんだよね?夢じゃない?」
「今ここでお前の頬つねってやろうか」
「やだよ。シイのつねり強いし」
「恋人サービスで痛くしないこともできる」
他愛の無い会話が、いつものように続いていく。でも、以前とは違う甘さがそこにはあった。
虚しさはもう、そこにはない。あの日失くした温もりは帰ってこないけれど、もう寂しくもなかった。
ふと思いたって、シイを抱き締める。腕の中の動揺を感じながら、愛おしさを温もりと共に抱き締めていたかった。
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『|夜明曲《よめいきょく》、またの名をオーバード。夜明けに別れる恋人たちの詩。|小夜曲《セレナーデ》の対局。…まだ、流れることの無い曲』
◇Thanks for reading and to be continued…?