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悪女人生#1 「私は誰」
○月○日、23:30。
東京タワーの近くに立つマンションの前を、ぽつりぽつりと降り始めた雨にビニール傘をさして歩く女がいた。
「はぁ…」
彼女の名前は|綾森 美月《あやもり みつき》。大手企業に就職している才能多き人間だ。
そんな彼女がため息をつく理由。それは…
「綾森さん、どうかしたの?」
「ううん、なんでもないよ|新村《にいむら》くん。」
新村|一《はじめ》。美月の指導する部下であり、何故か美月を慕っている男だ。
「お家まで送るの迷惑でしたか?」
「ううん、ありがたいよ。」
彼を嫌いになれないのはこういうところだ。
自分に非があるとすぐに気付き、それを相手に聞く。美月を不快な思いにさせていないかをすぐに確認しているので嫌いになれないのだ。
「ここでいいよ、もう中入るだけだし。」
「そうですか…では、お気をつけて。」
彼は一度お辞儀してから方向を変えて帰り始めた。美月がマンションに入る前に。
「…」
ここまでついてくるなら最後まで見送れよと、美月は思った。彼女は彼に好かれてから一度もゆっくりと帰宅が出来ていない。気を抜いていられるのは家の中だけだ。
月のキーホルダーがついている鍵を穴にさし、鍵を開ける。扉を開けて電気をつければ誰もいない寂しげな部屋がある。
服を着替えず体の向くままにベットに倒れ込む。そのまま意識を吸われるかのように夢の世界へ落ちていった。
---
「…」
家に香るはずのない淡い花の香り。
体が沈む柔らかなベット。
ふわりと体にあわせて動く毛布。
私の家のベットはこんなじゃない。
恐る恐る目を開けると、天蓋ベットだった。
私は目を見開いた。
「…天蓋ベット?」
私が寝たのはシングルベッド。
売ってた中で一位二位を争うくらい安いやつだ。
こんなお嬢様のようなベットではない。
私が意味がわからなく唸っていると、扉を叩く音が聞こえた。
その音を聞いて体を起こすと、絶対に自分の部屋ではないことがわかった。
キラキラと輝くシャンデリア、ふわりと靡くカーテンに大きな扉。貴族が住んでいそうな部屋だ。
私の服もスーツではない。白のネグリジェのようなものだ。こんなのは持っていない。
「お嬢様?入りますよ?」
扉の向こうから声が聞こえる。
それの少し後に扉がゆっくりと開いた。
「お嬢様、いらっしゃるならお返事を…」
「だ、誰よ。」
メイド服を着た女の子なんて知らない。
私の家はここじゃない。私は、
「私は誰?」
床に座り込んで呟く。床は赤ワインのような色だ。私の家の床はフローリングのはず。
横に垂れる髪もこんなに長くはない。黒髪は一緒でも、私の髪は腰までない。
「お嬢様、どうかしたのですか?」
「あなたは誰よ、私も誰?ここはどこ?」
喋ってるうちに何もかもわからなくなる。
私は誰でここはどこ?この人は誰で私は誰?
「お嬢様、やはり記憶が…」
目の前のメイドが涙目になって言う。
「記憶って何よ、やはりって、」
記憶喪失ってこと?でもどうして?
この体が記憶喪失になったから私が入った?
魂の交換?だったら私にはこの魂が入ってる?
考えれば考えるほど訳がわからなくなる。
「私の問いにだけ答えてくれる?聞かれていること以外は喋らなくていいから。」
この子を怯えさせる気はない。答える事がはっきりしていればこの子も安心して答えられる筈。
「まず、貴女の名前は?」
「わ、私は『カノン・パリスランド』でございます。」
「カノン・パリスランド…」
聞いたこともない名前。
よくある転生物なら昔やったゲームか漫画で出てくるはずなんだけど…残念ながらここは、私の全く知らない世界みたい。
「じゃ、ここは何処?」
「ここはお嬢様のお部屋でございます、」
「まぁそうよね…」
て言うかそんな事はわかってるのよね。だってこんな服着てここで寝てるわけだし。
「この場所は何処?国名とか、地名とか?」
ゲームか漫画、アニメで聞いたことがある名前なら記憶の片隅にあるはず。一度見たことは忘れないのよ、思い出せないだけで。
少しでも記憶にかすればいいんだけど…
「こ、ここは『レインストレイン』と言う国でございます。」
「レインストレイン…ね。」
困った困った。全く聞き覚えがない。
これじゃこの人間がどんな風に暮らしてるのか、結末すらわからないじゃない。
「最後に、私は誰?」
「お嬢様は『バレッタ・シュヴァリアル』様でございます。」
「バレッタ…私の名前ね。」
バレッタなんて聞いたことないわよ。
記憶の中からグルグルとバレッタの名前を探しながら困っていると、カノンが何かを思い出したかのような顔をして慌て出した。
「ああお嬢様、こんな呑気にお喋りしている時間はございません!」
「どうしたの?」
「今日は舞踏会に向けた踊りのお稽古がございます!遅れてはいけません!」
「踊り…こんな朝から?」
「いつもの事でございますよ!!」
「いつも!?」
バレッタ・シュヴァリアルって朝から踊れる人なんだ…って、ご飯もなしに踊るのかしら。
「朝御飯を急いでご用意致します!もう少しお待ちください!!」
そう言って走ってこの部屋を去ろうとするカノン。つまづきそうになっているのだけど…
「あ、焦らなくていいからね〜…」
こんなショボい声かけしか出来ない自分とは。
何したらいいか広すぎてわからないから、天蓋ベットに寝て貴族気分を堪能する事にした。