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さよなら、幽霊さん(序章)
序章 『あれは、そう』
四月の初めにしては少し肌寒いような、そんな日に。何処までも続く青空の下によく映える一本の桜の木が植えられた遊歩道で僕は一人泣いていた。気が付いた時にはそこにいて、ただ風に吹かれていた。直前のことは何一つとして記憶にない。ただ、得体のしれない喪失感が胸を締め付けている。身体に穴でも開いた気分だ。何一つ理解が追い付かないが、何処か僕の知らないところで、大切な何かが失われたことだけは感じた。爽やかな春草の香りが微かに頬を撫でた。それと同時に、生温いものが溢れ出す。
「……どうして……」
この涙は何なのか。何に対して、僕は泣いているのだろう。痛いのか、辛いのか、悲しいのか何もわからないままに、ただ頬を伝う涙の温度を感じていた。苦しい、息が詰まる。呼吸の仕方を忘れ、日差しの海に呑まれ沈んでいくような錯覚に陥る。あまりの苦しさにその場にしゃがみこんだその時───
『……わた……れて……に……きて』
───どこかから声がした。頭の中に直接響く不思議な、けれどもどこか懐かしく感じるその声が確かに聞こえた。濡れそぼった頬を拭い、辺りを見渡す。誰もいない遊歩道。しかしとある場所に、身体が吸い寄せられていく。たった一本だけ植えられた桜の木の下に零れた日溜まりに足が向かう。《《君》》が好きだった桜の───
「……《《君》》……?」
ふと、頭に浮かんだ存在があった。一瞬で消えてしまったが、記憶の中に確かな輪郭があることを感じ取った。暖かな記憶の奥底に、誰かの笑う声が微かに響いた。それに呼応するように、忘れてはいけない何かが、僕の身体を操るように桜の下に動かす。
『……のこと……れて…』
『……になったら……を…見に…よ…』
『……のこと……しくね……』
朧げな記憶の断片が、頭に雪崩れ込む。知らないはずの声が、姿が、仕草が、微かに熱を帯びながら胸を締め付ける。耐え難いその苦痛に、堪らず瞼を閉じたその瞬間。
『私のことは忘れて、幸せに生きてね』
聞こえた。鮮明に、聞こえた。大好きな声が。もう、二度と聞くことは叶わないその声が、はっきりと聞こえた。
「……っ!!」
全て思いだした。目を開けると、眩い光の中で、彼女が泣いていた。彼女を包む光の束が次第にその姿を溶かしていく。嗚咽が静かに響く。手を伸ばし、叫んでも、僕の声は彼女に届かない。彼女はやがて、光の粒になって、春風に舞いながら消えていった。全て、何もかもが遅すぎた灰色の春の結末に唇を嚙み締め、|蹲《うずくま》って泣いた。
『ねぇ』
ふと、呼ばれた気がして顔を上げた。満開の桜の花の間隙から零れた淡い光が僕を照らしている。
あぁ、そういえば、君と初めて会ったのも、こんな日だったな。
あれは、そう。