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ノンブレス・オブリージュ
ピノキオピーさんの楽曲「ノンブレス・オブリージュ」からのインスパイア小説です
目の前が赤い糸で覆われていく。
僕の身体から上に向かって伸びていく。
そしてその糸が遠くの方でふわふわと歪な円を描いていく。
まるで赤い花のように。
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冬のとある日。
とても寒く、水分を含んだ土面には霜柱が立っているような昼間。
カラリと澄んだラムネのような青空が頭上に広がっていた。
僕はいつも通りその景色を、鋭い砕石の敷き詰められたコンクリートの地面に頬を擦り付けながら見ている。
晴れ渡った空から、無数の蹴りが降ってくる。
その雨のような蹴りが体に当たるたび、僕は醜い呻き声をあげた。
なぜそんなことができるのか。
なぜそんなふうに人を踏みつけにできるのか。
なぜ。なぜ。なぜ…
僕はその言葉を飲み込んで、息を殺しながら時が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。
目を覚ました時にはもう辺りは暮れていた。
すでに心身ともに限界を迎え、僕は起き上がることすら、ままならなくなっていた。
助けは来ない。誰もこのことを知らない。知らせるにも指の一本すら動かせない。
ああ、無力だな。
一人孤独に死んでいくのか。
動かない体とは対照的に、思考だけはぐるぐると回りだす。
「死ね」と言われるのはもう何度目だろう。
勝手に人の人生を終わらせないでほしい。
だけど本当はもうこんな人生なんて捨ててしまって向こう側に行きたいとも思う。
ここまで来ると既に、人(の)生ではないのだし。
だけどやっぱり諦めたくなくて。
生きたくて。
それでもやっぱり死ぬことに助けを求めてしまって。
そんなことを考える。繰り返し考える。
やっぱり人生ってくだらないな。
体というものは思いのほか再生力があるようで、しばらくすると動けるようになってきた。
スマホで時間を見ると18時であった。
なんだ、まだこんな時間だったんだ。
動けるようになった体を仰向けにして、大きく広がった真っ黒い空を見上げる。
親は帰ってきてないだろうしな。
ここは人通りもないから助けは来ないしな。
あいつらも重症にならない程度で手加減しやがってな…
歯を食いしばって沸々と湧き上がってくる感情を押し殺す。
怒りというものは傷を疼かせるらしい。
だからその気持ちをかき消すように、頭上の夜空をよく見ていると、点々と光る星がまばらに見えた。
とても数少なく見える。
しかし星というのは見えないけれど、いつもそこにあるらしい。
朝も昼も夜も雨の日も曇りの日も晴れの日も。その見えない星たちは僕のようだと思った。
なんかポエムみたいで気持ち悪いな。
僕はダラダラと起き上がると、フラフラとした足取りで帰路に着くことにした。
…鞄?そんなもの知ったこっちゃない。
持ち帰るものなんてない。何せ全て盗られたからね、あっはっは。
あ、スマホはありましたね。スマホだけは持っていますね。
なんてもう、もうどうでもいいや。
帰り道にはいつも池の横を通って帰る。
この池が唯一の僕の癒しだ。
ふと立ち止まる。
いつもとは違う種の引力が、今日だけはこの池にあるような気がした。
ここに飛び込んだらどうなるんだろう。
寒いんだろうな、苦しいんだろうな。
もう二度とここには戻って来れないんだろうな…
…なんてもう、もうどうでもいいから。
ふつりと糸が切れる。
気がついたら僕は水に浮かんでいた。
背中が寒い、冷たい。思った通りだな。
同じく寒々しい夜空を見つめると、先ほどまでよりも輝く星が増えていた。
この星々を何処かで見ている人がいるのだろう。
ああ、よかったね、誰かに輝きを見てもらえるようになって。
僕とは違うね。よかったね。
僕は深呼吸した。吐いて吐いて吐いた。
そして沈んでいった。
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目の前が赤い糸で覆われていく。
僕の身体から上に向かって伸びていく。
そしてその糸が遠くの方でふわふわと歪な円を描いていく。
まるで赤い花のように。
傷口から流れる血を止めないまま、息を吐くのも止めないで。
水面が段々と遠ざかっていく。
暗くなってやっと見えるようになった星たちも、水面の向こうに沈んでいく。
もう、死ぬしかないんだ。
僕は解けていく赤い花と星々に背を向けた。
すると少し先の方で黒くて丸っこいものが蠢いているのが見えた。
見間違いかと思った。
しかしそうではなかった。
溺れかけの犬がいた。
君も同じか?
虚ろな目をしたまま、犬を見下ろす。
犬はもがいて苦しんでいるようだった。
君は、生きたいの?
犬は足をジタバタとさせて水面を目指しているようだった。
僕とは違う。
そう思ったが、いつの間にか僕は犬の足を掴んで、水面を目指していた。体中の痛みはその時だけ忘れることができた。
真冬の闇の中。
突き刺すような冷たい風を受けながら、僕らはこの世に泳ぎ着いた。
犬は黒色かと思っていたが白色だったことに気付く。
その白い犬は今にもくたばってしまいそうなほど硬く、冷たくなっていた。
…大丈夫か?
僕は重たい犬を抱いて帰路をたどった。
その時初めて、深呼吸できた。