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ワスレナグサ
八月の終わりになると、街は少しだけ静かになる。祭りの提灯が外され、河川敷に残っていた屋台の跡も消え、夜風に混じる匂いが変わる。土と汗と油の匂いから、濡れたコンクリートの匂いへ。
それでも湿度だけは居残っている。空気は重く、肌にまとわりついたまま、季節の移り変わりを認めようとしない。
ぼくがそのアパートに住み始めたのは、二年前の秋だった。駅から十分ほど歩いた住宅地の奥にある、三階建ての古い建物だった。壁は薄く、廊下は狭く、夜になるとどこかの部屋のテレビの音が遠くに滲んだ。
二〇三号室にぼく。隣の二〇四号室に、三上さんが住んでいた。
最初に顔を合わせたのは、引っ越しの翌日だったと思う。共用廊下で段ボールを潰していると、後ろから「朝早いですね」と声をかけられた。振り返ると、痩せた男がスーパーの袋を提げて立っていた。白いTシャツに灰色の短パン。髪は寝癖のままだった。
「うるさかったですか」
「いや、起きてたので」
それだけ言って、彼は部屋に入っていった。その後もしばらく、ぼくたちは挨拶程度しか交わさなかった。エレベーターのない建物だったから、階段ですれ違うことが多かった。彼はいつもコンビニの袋か、クリーニング店の針金ハンガーを持っていた。ぼくは仕事帰りで、汗を吸ったシャツを背中に張りつかせていた。
ある夜、廊下に出ると、三上さんがしゃがみ込んでいた。自販機で買ったらしい缶ビールを床に置き、煙草を吸っていた。雨が降ったあとで、コンクリートはまだ湿っていた。
「暑いですね」
彼は煙を吐きながら言った。
「九月になるのに」
ぼくもそうですね、と返した。
会話はそれで終わるはずだったが、彼は煙草を灰皿代わりの空き缶に押し込み、「飲みますか」と訊いた。
ぼくは少し迷ってから頷いた。彼の部屋は、妙に整頓されていた。必要なものしか置かれていない感じだった。小さなテーブル、本棚、薄いカーテン。冷房は弱く、部屋の奥に湿気が溜まっていた。
ぼくたちは缶ビールを飲みながら、とりとめのない話をした。
仕事のこと。駅前のスーパーが閉店すること。近所の弁当屋の味が落ちたこと。
彼は印刷会社で働いていると言った。夜勤もあるらしく、昼間に寝ていることが多いという。
「この辺、静かだから助かるんですよ」
「静かですか」
「夜になると」
そう言って彼は笑った。笑うと、少しだけ幼く見えた。それから時々、ぼくたちは互いの部屋を行き来するようになった。頻繁ではない。月に数回程度だったと思う。どちらかが缶ビールを買い、どちらかの部屋で飲む。話題はいつも曖昧で、会話は途切れがちだった。
沈黙が苦にならない相手というのはいる。ただ、それを親しいと言っていいのか、ぼくにはよく分からなかった。夏が近づく頃、三上さんはベランダで植物を育て始めた。朝顔だった。
「今さらですか」
ぼくが言うと、彼は「安かったので」と答えた。
小さな鉢が三つ並んでいた。夕方になると、葉の青臭い匂いが廊下に漏れてきた。ぼくは仕事から帰るたび、何となくそれを見るようになった。
七月の終わり、朝顔が咲いた。
薄い青色だった。
その日の夜、三上さんの部屋でビールを飲んだ。冷房が効きすぎていて、缶の表面に細かい水滴がついていた。
「花って、咲くと急に終わりが見える気がしませんか」
彼がそんなことを言った。
「咲くために育ててたんじゃないんですか」
「まあ、そうなんですけど」
彼は笑わなかった。
テーブルの上に、読みかけらしい文庫本が伏せてあった。ぼくは題名を見たが、忘れてしまった。外では、誰かが原付をふかしていた。湿った夜気が、網戸の隙間から少しずつ入ってくる。
「昔、熱帯魚を飼ってたんです」
三上さんは唐突に言った。
「小学生の頃?」
「いや、大学の頃です」
彼は缶を傾けた。
「水槽って、見てると落ち着くんですよ。音もしないし」
「魚は?」
「すぐ死にました」
それからしばらく、彼は何も言わなかった。ぼくはテーブルの木目を眺めていた。その沈黙には、意味があるようにも、ないようにも思えた。
八月に入ると、雨の日が増えた。洗濯物は乾かず、部屋の隅に湿気が溜まった。夜になると、遠くで雷の音がした。ある夕方、仕事から帰ると、二〇四号室の前に段ボールが積まれていた。引っ越し業者の名前が印刷されていた。ぼくは少し立ち止まったが、そのまま部屋に入った。一時間ほどして、インターホンが鳴った。開けると、三上さんが立っていた。汗をかいていた。
「うるさくしてすみません」
「引っ越するんですか」
「来月には」
彼はそう言ってから、「実家のほうに戻ることになって」と付け足した。理由を詳しく訊かなかった。彼も説明しなかった。部屋の奥では、ガムテープを引く音がしていた。
「飲みますか」
彼が言った。
「こんな状態ですけど」
床には半分ほど閉じられた段ボールが並び、本棚は空になっていた。カーテンも外されている。窓の外の空だけが妙に広かった。ぼくたちはコンビニの安い酎ハイを飲んだ。
「何もなくなると、音が響きますね」
彼が言った。確かに、缶を置く小さな音まで部屋に反響した。
「ここ、長かったんですか」
「四年くらいです」
「じゃあ、少し寂しいですね」
そう言うと、彼は曖昧に頷いた。沈黙。窓の外で、子どもの声がした。夏休みなのだと思った。
「この辺、好きだったんですよ」
彼は独り言のように言った。
「何もないから」
ぼくは返事をしなかった。好きな場所について語るひとは、すごいと思う。それが失われることを、どこかで知っているように見えるからだ。帰る時、彼はベランダの朝顔を一鉢くれた。
「持っていきます?」
「いいんですか」
「荷物になるので」
葉は少し萎れていた。ぼくはそれを部屋の窓際に置いた。数日後、花は咲かなくなった。
九月の初め、三上さんはいなくなった。最後の日、ぼくは仕事で帰りが遅く、挨拶もできなかった。二〇四号室のドアには、管理会社の紙が貼られていた。
部屋は空になり、夜になると妙に静かだった。隣から聞こえていた生活音が消えると、建物そのものが古くなったように感じた。廊下を歩く足音。水道管の震える音。遠くの電車。
ぼくは朝顔に水をやり続けた。けれど新しい花は咲かなかった。
ある夜、ベランダに出ると、ぬるい風が吹いていた。夏の終わりの風だった。湿気を含みながら、それでも少しだけ乾いている。遠くで犬が鳴いていた。ぼくは隣の空いたベランダを見た。
物干し竿だけが残されていた。人がいなくなった場所には、その人の形だけがしばらく残る。それは匂いではなく、記憶とも少し違う。視線の置き場所のようなものだ。
ぼくはふと、三上さんが言っていた熱帯魚の話を思い出した。水槽の中は閉じている。音もなく、水だけが循環している。その静けさに安心する人間がいる。たぶん、自分も少しそうなのだと思った。
翌朝、朝顔の鉢を持って外に出た。空は曇っていた。まだ暑かった。アパートの裏手には、小さな空き地がある。雑草と砕けたブロックが転がっているだけの場所だ。ぼくはそこに鉢を置いた。土は湿っていた。
しばらく立っていると、シャツの背中に汗が滲んできた。風はなかった。どこかで蝉が鳴いていた。弱々しく、途切れながら。
ぼくは部屋に戻った。階段を上がる途中、二〇四号室の前を通る。当然、もう誰もいない。それでもぼくは、少しだけ足音を忍ばせた。