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No.001 その日、東京が沈んだ日
『一年近く降る雨ですが、止むような兆しはあるのですか? 専門家に問います』
『この長雨は既に351日目を記録し、地下排水システムは限界に近づいています。現在、東京上空にかかる暖かく湿った空気は……』
火曜日の夕方。俺はスマホを見ながら夕食を待っていた。
「ねぇ、里音。ちょっと買い物行って来てくれない?」
「ん? ああ、いいよ」
母さんに頼まれて家を出た。父さんは大阪に単身赴任していて、母さんと二人暮らしだ。
俺はマンションの一室を出て傘を差した。決して強い雨とは言えないが、小雨とも言えないような雨だ。
スマホには母さんからの連絡が届いている。
必要なものが書かれている。えーっと、じゃがいもと玉ねぎと人参? 今日ってカレーの日だったっけ?
バチバチと傘に当たる雨は強さを増している。
浜田山駅を横目にスーパーに入る。
買い物だけして、帰ろう。そう思った瞬間だった。
スマホが揺れた。画面には赤く「緊急地震速報」の文字がうかんでいる。
追加して「ハワイで巨大地震発生。マグニチュードは10前後」と書かれている。
去年、理科の授業で計算したじゃないか。
ここからハワイまでは凡そ6200km。P波を8kmと仮定した場合……うあああ!
苦手なんだよ! こういう計算!
周りの人たちがわらわらと動き出した。
「おい! 里音! ボケっとすんな!」
俺を呼んだ人物を知るには、顔を見る必要も無かった。耳に馴染んだ声。
一応俺の幼馴染・桐生颯真。
「颯真! ちょっ、何だよ!」
「お前だってそれ、見ただろうが。とにかく、家近いからは入れ!」
引っ張られた手を振り解く事なく、俺はその手に身を委ねていた。
「でもいいのか? 親とかもあるだろ!」
「|無問題《モーマンタイ》。親は今、外出中だ。それに、今、そんなこと言ってる場合かよ」
周囲の喧騒は薄れ、蒼真の家に近づいた。
その次の瞬間には、足元が軽く動いた。
「と、とにかくは入れ!」
颯真に促され、家に踏み入った俺は、手近な机の下に潜り込んだ。
ほんの数秒遅れで颯真も入ってきた。
「は、はは。主要動までには間に合ったな」
去年の理科の知識が光る。惰性の学校の授業が役だったような気がした。
だが、そんな安堵も束の間。直ぐに大きな揺れが俺達を襲った。
揺れる机に動き回る証明。どこかで何かが崩れる音。
机の脚を持っている俺の手が震えている。地震で揺れているだけではない。俺自身、何かの恐怖を感じ取っている。
颯真の家の外から大きな何かが崩れる音がした。
強烈な振動を机の上から感じた。颯真と目が合った。アイツも感じたか。
次の瞬間だ。コンマ一秒としないうちに。机の木の脚が折れた。バキッという音と共に。
視界が白く弾け飛んだ。
俺、死ぬんだ。
そう悟ったのが、最後だった。
最期ではなく、最後だった。
「うぅっ……」
見える先は暗い。
右で颯真が倒れている。その腕からは鮮血が流れている。
軽く体を揺すった。
「大丈夫。起きてるさ」
薄く目を開けた颯真は俺にいつもの笑顔を見せた。
スマホを開くと、災害情報が流れている。
「「『関東平野海面下沈没可能性大。避難完了を確認』」」
俺と颯真の声が重なった。
何だよ。避難確認を完了って。俺達は何だよ。
「嘘……だろ。もうあれから二日も経ってるのかよ」
「本当だ。『二日という時間の中で見つける事の出来なかった人間は、避難不可位置にいたということ』『大阪臨時政府は非難不可位置にいた人は救助・救出困難又は不可と判断し、救助・救出を全面的に取り止めると発表』……」
「と、とにかく、外に出よう。何も分からないし、その腕も……」
「これか……。大丈夫だ」
軽くその右腕をさすり、俺は瓦礫をこじ開けた。
俺の両の眼に映ったのは、崩れた家屋。東を見れば東京駅がある。だが、ビルの数が妙に少ない。
「嘘……だろ」
東京二十三区の中でも高い位置に位置する杉並区でさえ、何か低い場所にあるように感じた。
港区、渋谷区の方から海水が流れ込んできている。勢いが強い。津波か。
それに加えて勢いよく、津波に乗じて海水が流れ込んできている。
三百六十度、瓦礫の山だ。
「地震による大規模な地盤沈下。海面下沈没とは、そういう事か……」
「……っそだろ」
颯真も俺の隣で頭を抱えている。
「ど、どうすんだよ! このままだとあの水に飲まれちまうぞ!」
「瓦礫で筏みたいなのを即席で作るとかしか……」
俺がもう一度周りを見渡した時、遠くで光が見えた。
「颯真。あれって渋谷だよな。渋谷のビルに光るものが見えないか?」
夕方の暗がりの中でもはっきり見えた。
「あ、本当だ」
「でーも、西向きの窓に夕日が反射してるだけじゃないか?」
「逃げ遅れた俺達と同じ状況の人たちが居るかもしれない……」
「いないかもしれない」
「だとしても、この日本最大の平野である関東平野が沈むなら、少しでも高い所に行った方が良いだろ」
俺は渋谷スクランブルスクエアを指さし、颯真に語った。
「生き残りが居れば、協力できる。この助けの来ない状況を生き残れるのは協力だけだ」
「なら、急ごうぜ。そこら辺から廃材を集めりゃいいんだろ?」
その日、東京が沈んだ日。
後に俺達はこの2026年6月10日をこう呼ぶことになる。
沈都の日と。