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『願いの値段』
雨が降っていた。
灰色の空の下、傘も差さずに歩く青年の足音が、石畳の路地に鈍く響く。
青年の名前はリオン。生まれつき目が見えない。だがこの街の匂いと音だけは、幼い頃から何千、何万と記憶に刻んできた。足元を濡らす雨粒の感触。通りをかすめる馬車の音。香辛料の香りを乗せたパン屋の煙突の匂い。
すべてが、彼にとっての"世界"だった。
「……ここ、か」
レンガの壁に指を滑らせながら、リオンは小さな店の扉の前で立ち止まった。
店の看板にはこう書かれている――
《魔法屋・クロネリ》
どんな願いも、一つだけ叶えます。
ただし、代償は"あなたにとって一番大切なもの"。
噂は半信半疑だった。だが、どうしても目が見えるようになりたかった。いや、「見たいもの」があった。
彼は扉を押し開けた。
扉の鈴が、猫のようにか細く鳴く。
「いらっしゃいませ」
不意に、リオンの鼻先を香ばしいカカオの匂いがかすめた。声の主は、椅子に座っていた"黒猫"だった。人間の言葉を話す黒猫。琥珀色の目が、リオンをじっと見つめる。
「リオン様ですね」
「……なぜ、名前を」
「願いを求める者の魂には、名前が刻まれているのです。さあ、お座りください」
リオンは躊躇いながらも、テーブルの前に腰かける。カップから漂うのは温かいチョコレートの香り。だが、彼は手を伸ばさなかった。
「願いを聞かせてください」
黒猫の声は柔らかいが、どこか冷たい。
「目が見えるようになりたい」
「それは……どんな色を見たいのですか?」
「色じゃない」
リオンは微かに微笑んだ。
「"あの人"の笑顔を、どうしてもこの目で見たくて」
その瞬間、部屋の空気が変わった。まるで時間そのものが止まったような静けさが満ちる。
「代償として、あなたの "未来の記憶"をいただきます」
「……未来の記憶?」
「この先、あなたが経験するはずだった"全ての記憶"です。喜びも、痛みも、後悔も、幸福も……。目覚めたとき、あなたは今だけを生きる者になります。未来を思い描くことも、愛する人の笑顔を思い出すこともできません」
リオンはしばらく黙っていた。だが、やがて静かにうなずいた。
「構わない。それでも……見たいんだ」
次に目を覚ましたとき、リオンの世界は"光"で満ちていた。
朝の陽射し。淡く揺れるカーテン。差し込む金色の光が、部屋の隅々まで輝かせている。
「……これが、世界……?」
涙が、頬を伝っていた。
リオンは初めて"見る"という感覚を手に入れた。
街の人々の表情、空の色、雨粒のきらめき、草花の揺れ。
そして――彼女。
リオンが"見たい"と願ったその人、アリシア。
彼の幼馴染みで、いつも隣で笑ってくれていた女性。
「リオン……っ!」
駆け寄るアリシアの笑顔は、世界の全てを照らしていた。
「目、見えるようになったの!?本当に……?」
「……ああ。今、君の顔が見える」
アリシアは涙を流しながら、彼の手を握った。
「良かった……本当に、良かった……」
だが、その瞬間、リオンの頭の中に"空白"が広がった。
――明日の約束を思い出せない。
――昨日、何を食べたのかも。
――アリシアとの思い出が、なぜか"今日"で終わってしまう。
彼は気づく。未来が、ないのだ。
彼女と出かける約束も、抱き締めた温もりも、これからの喜びも……すべて、記憶に残らない。
「リオン?」
アリシアの声が揺れる。
「ごめん……少し、疲れたみたいだ。少し休ませて」
「うん、わかった。無理しないでね。ずっと……そばにいるから」
リオンは微笑んでうなずいた。
その夜、彼は手紙を書いた。
誰にも見せるつもりはなかった。ただ、自分自身に宛てて。
――アリシアの笑顔は、世界で一番美しい。
この目で見られて、本当に良かった。
僕は明日を忘れてしまうけど、それでも構わない。
今日という日が、永遠でありますように。
翌朝、アリシアが目を覚ますと、リオンはベッドに座っていた。
「おはよう、アリシア。……君、誰だっけ?」
彼は笑っていた。まるで、何も知らない子供のように。
彼の未来は、消えた。けれど――
アリシアの中には、彼の笑顔が生きていた。
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黒猫の店の扉は、今日も静かに開いたままだ。
誰かの"最も大切なもの"を受け取り、願いを叶えるために。
最後まで『願いの値段』を読んでくださり、ありがとうございました。
この物語は、「もしも大切なものと引き換えに願いが叶えられるとしたら、あなたは何を選びますか?」という問いから生まれました。
主人公のリオンは、目に見える世界を手に入れる代わりに、これから先の"記憶"という未来を差し出しました。
それはきっと、傍から見れば悲しい選択かもしれません。
けれど、彼自身は"今日"という日を選び、それを幸せだと感じられた。
その一瞬が、本物であれば、失われた未来にも意味があるのかもしれない――そんな思いを込めています。
皆さんがもし、黒猫の魔法屋の扉を開けることがあったなら。
願いの前に、どうか「今、自分が本当に守りたいものは何か」を、静かに問いかけてみてください。
またいつか、物語の世界でお会いできる日を楽しみにしています。
心からの感謝を込めて。