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#1『episode R :廻り始めたオーバーチュア』
この物語はフィクションです。また、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
--- ずっと、後悔の連続だった ---
--- いつだって僕は二択を間違えていた ---
--- きっとそれは、これからも続くのだろう ---
--- 終わらない|序曲《オーバーチュア》のような、人生が ---
---
それは、僕が16歳の時。夏休みに入って、大量の課題に頭を悩ませている頃だった。
机に向き合い数学のテキストを開く。しばらく文字を眺めてはみるが、視線は滑ってばかりで一切問題の意味が分からなかった。
ため息をついてテキストを閉じる。別に、数学だけが苦手な訳じゃない。全ての教科でこうなっているのだ。
自分の解答に自信が持てない。それはよくあることでは無かろうか。知識をいくら詰め込んだとて、記憶は完全な形になることがない。決められた曲線に沿って、僕らの記憶は少しずつ欠けていくと誰かが言っていた。
僕の場合、それはどんな時にだって現れる。この宿題だって、授業中の発言だって、テストでさえも自信がなかった。教師ですら僕に「顔だけが取り柄」と言うほどの。
空をぼんやりと眺めていれば、全ての問題が解決したような気分になってくる。実際は机の上と鞄の中に大量の悪夢が詰め込まれているので、本当にただそんな気分になっただけだが。
そんな風に空をぼーっと眺めていると、小さく何かが落ちた音がした。室内を見るが、特に配置が変わった様子はない。
気のせいだったかともう一度窓を覗くと、家の目の前の道路に人が倒れていた。…え、人???
「…人だ」
慌てて椅子から立ち上がり、部屋着のパーカーのまま下まで駆け降りる。玄関を出て窓から見ていた場所に向かうと、本当に人が倒れていた。それも顔から。
「あの…だ、大丈夫ですか…?」
「………」
「えぇ……と、手首、失礼します、ね…」
こんなときどうすれば良いか分からなくて、とりあえず脈を図る。脈はあるし、特別早いとか遅いとかもなかった。次に呼吸、これも大丈夫。…というか、小さく何か喋ってる?
「………__|了《ら》__」
「ど、どうかしましたか?」
よく聞こえなくて、一先ず痛いところが無いか聞く。無いと首をゆるく振ってくれたので、まず仰向けに転がしてから口元に耳を寄せた。
「…__|肚《どぅ》__…__|了《ら》__」
「……?も、もう一度お願いします……?」
「…|肚子《どぅーず》…|饿了《あーら》……」
そう言うなり、同時にお腹の音が鳴る。それも、目の前の人から。ホームレスかと思ったが、それにしては色々小綺麗すぎるし……てか今のって中国語…だよな?肚子饿了、確か意味は……お腹が空いた、だったはず。
物乞い中国人??でも、それならさっきの音は一体……もしかして空腹で倒れた?
(倒れるほどの空腹…って、ヤバくないか…?)
冷や汗が肌を伝う。どうしよう、助けないと。でも、もし危ない人だったら?そんな考えが頭の中をかき乱していく。助けるべきか、それとも助けない?……こうしている間にもこの人は苦しんでいる、僕にできることがある。それならせめて、やれることだけやってしまおう。後悔はその後だ。
「少し、待っていてくださ……あ、と、我现在…就给你带点吃的。… 请稍等!」
中国語で少し待っていてくださいと伝え、急いで家の中へと駆け戻る。どうか戻った時、この人が死んでいませんようにと、それだけを願って。
---
--- 〜ここから先は自動翻訳をonにしています〜 ---
「いやァ死ぬかと思った!ホントにありがとうね」
「い、いえ…その、無事そうで、何よりです…」
あの後いくらか水とおにぎりを与えれば、倒れていた女性…いや、男性?はすぐに元気になった。今はひとまず僕の自室に匿っている状態だ。
彼(男性だった…)はシイと名乗り、自身を…|混乱的城市《フィンランデ・チャンシイ》という国?の生まれだと言った。当然そんな国名は見た事も聞いたこともないし、中国の地名でもなさそうなので余計に混乱する。
「ア、そういや名前聞いてなかったワ。お名前なんて言うの?」
「えと…………落安零、です………」
一瞬知らない人に名乗っても大丈夫なのか不安に感じたが、すごく悪い人にも見えなかったので名前を言ってしまった。シイさん(きっと年上なのでさん付けすることにしました)は何度か僕の名前を繰り返すと「じゃア零くんだ。ヨロシクね」とこちらに笑いかける。その笑い方がなんだかとても「大人の男性」と言う感じがして、すこし気恥ずかしくなってしまった。
「…ねぇ、零くんはさ。ここじゃない所に居なくなってしまいたい!って思ったことってある?」
こちらの目をじっと見つめながらそう言われて、思わず動揺する。何で知っているんですか、と言いそうになってしまった。それは、ぼくがずっと望んでいたことだったから。
「オレさ、零くんみたいに辛い環境で生きてきたの」
「僕みたいに…?」
僕はこの人を知らないし、この人が僕の立ち位置を知っているとも思えない。なのに、彼が言うならきっとそうなんだろうと信じてしまう力が、彼の言葉にはあるように思えた。
この人も、僕と同じで親から愛されなかったのかな。やりたくないことをやらされてたのかな。見知らぬ彼の過去を勝手に想像して同情するだなんて馬鹿なことだ。分かっているのに、そんなこと。
「…零くんで良ければさ、オレのいた世界に来ない?」
「シイさんのいた、世界…?」
「そう!ここみたいに勉強もしなくて良いし、親に嫌なこともされない!!飯も美味いし皆んな自由に生きてる、そんな世界に!」
そんな夢みたいな世界、あるのだろうか。不安になるけれど、シイさんの尖った耳や歯、そして不思議な服装に髪と目の色。それらはまるで、彼が異世界からやってきた異邦人のような雰囲気を醸し出している。
もし、もし本当にそんな世界があって、両親からの暴力から逃れられたら。それはどんなに素敵なことだろうか。ぐらり、と現実離れした高揚感で足元が揺れた気がした。
「零くん、どうする?」
優しく首を傾げるシイさんは、とっても格好いい大人の男の人で。差し延べた手と相まって、まるでどこかの王子様のようにも見えてくる。
やらない後悔よりやる後悔。使い古され擦り切れた格言の威を借りるように、勇気を振り絞って決断をした。
「…い、行きたいです。連れて行ってください!」
そう言いながら、シイさんの手を取る。瞬間、プツリと映像が途切れたような音がして、僕は意識を失った。
--- 若気の至りとほんの少しの浅はかさだった ---
--- この行動の責任を取るのは僕自身だと理解していなかった ---
--- あの日から、ずっと後悔している ---
--- `彼の手を取ったことを、ずっと…` ---
---
「アーア、バカだなァ零くんは。駄目だろ?知らない男に着いてくなんて…」
「なんで…?だって、自由って…」
「ああ、そうだよ?オレは自由に生きてる。他の奴らだって自由に、ソイツらのしたいことを、好きなよ〜にやってる。…弱肉強食だよ。ホラ、自由ってそんなもんじゃん?」
そんな、どうしてと問いかける。ガチャガチャと音をたてる鎖は、僕の両手首と両足首をゆるりと壁に固定していた。外そうとしても外れなくて、鉄がリアルな冷たさを保っていて。思ってたのと違う、なんて言えるような雰囲気ではなかった。
「どうしてって言われても、まぁ気まぐれ?よくやるんだよね。暇だから」
「気、まぐれ…?暇だから、って………」
「ア、汗かいてる。かわいーねー」
にた、と笑う姿は数分前の彼とは似ても似つかなくって。嗚呼、僕は誘拐されたんだとやっと気がつく。ここはどこ、と聞いても、彼は混乱的城市だとしか言わない。
こんな状況で頭を撫でられ、あまりの恐怖に涙が出てくる。分からない。こんな大人知らない。
「とうさん…かあさん……」
「……エ〜?今更それ?零くんって、もしかして頭が悪いのかなァ?」
「…へ」
「零くんにも分かるように、簡単に言うとね〜。ここは異世界で、君はもう元の世界には戻れないんだよ?だからァ…」
そう言うと、シイさんは僕の右手首についている手錠の鎖を勢いよく引っ張る。その衝撃で上体が引き寄せられ、地面に倒れた。痛みに悶えつつ体を起こそうと腕をつくと、顎をするりと触られ無理やり口付けられる。
「ッグ、ン…?!」
「ん…は。ネ?こういうことしても…泣いても、叫んでも…君の|vati《パパ》と|mama《ママ》には会えないし、だぁれも、助けに来ないんだよ」
冷たい雰囲気の赤い瞳が、じぃっと僕を覗き込む。その言葉の恐ろしさに震えが止まらなくなって、嗚呼これが悪い夢ならどんなに良かっただろうかと、ぼんやりと願った。
「アハハ、震えてる。まぁ良いや、じゃあね」
「え」
ひょいと立ち上がり、さも興味がなくなりましたと言う風にこちらに背を向け、シイさんはさっさと部屋を出て行ってしまう。まって、と静止の言葉を掛けても、聞こえなかったのか彼が足を止めることはなかった。
ひどく疲れて、壁に背を預ける。じゃらりと鳴った鎖の音と呼吸音だけが部屋に響く。よくよく周りを観察してみれば、ここはベッドの上で、部屋は普通の寝室といった風だった。
一応シイさんが出ていったドアを開けようとするも、やはり鍵が閉まっているのか開かない。もうひとつのドアはなんだろうと開けてみれば、そこはトイレらしかった。
人一人が暮らすに充分な部屋。そこに入れられたことで、自分はここで一生を過ごすこともできてしまうのだと考え絶望する。ふらふらとベッドに戻り倒れこめば、ひどい睡魔が襲ってきた。
何も、考えたくない。今はただ、現実から逃げてしまいたい。そう思い瞼を閉じた。
「こんなことになるなら、彼を助けなければ良かったのかな…」
問いは誰にも届くことなく、部屋の中で息絶える。その姿は、まるで泥のように眠る彼にそっくりだった。
---
「…今、なんて」
「だから、出してあげるってこと。勿論条件付きだけどね」
僕が誘拐されてから、恐らく数日が経った頃。突然シイさんが「外に出たい?」と聞いてきた。
無論出たいと答えるとシイさんは「じゃあいいよ」と言ったのだ。…信じられなくてもう一度聞いても、その心は変わらないらしい。
そりゃあ今すぐにでも出たい。出たいけれど、その条件というのが引っ掛かる。もう騙されないぞという気持ちで条件とは何かと聞けば、シイさんはけろっとした顔でこう言った。
「お仕事の手伝いだよ。そんなに難しいことじゃないし、専門知識もいらないやつ」
「そ、そうなんですか……」
それなら簡単そうだけれど、どんな風な仕事なのだろう。全く想像がつかなくて、何の仕事かを聞く。
すると、シイさんは今度にまと口角を上げいかにも「待ってました」と言った顔でこう告げた。
「殺し屋。依頼された人を殺すの。やる?」
殺す、そう聞いた瞬間に頭が真っ白になる。殺す、殺すって何?人を?どういうこと?分からなくて、でも冷や汗がダラダラと出てきた。
「てかやって。よくよく考えたらもう恩返した気するし、あと人手足りないからさ」
そう言うなり、シイさんは部屋の外へ出て、すぐに戻ってくる。後ろ手に持っているのは、気を失っている風な、一人の男。
唖然とする僕の目の前にそれと一緒にナイフも投げて、もう一度「やって」と言う。
そんなこと言われても、人の殺し方なんて知らない。というよりも、やりたくない。そう言うと、シイさんは「しょうがないなぁ」と僕の手ごとナイフを掴んだ。
「ひ」
「はい、よぉく見てて。ここ、心臓。骨があるから刺しづらいんだけど、だいたい…そう、ここにナイフの切っ先を合わせて…」
「あ、う」
「はい、そしたらこうやって勢いよく…下ろすっ」
ぐいっとシイさんが僕の手を下へと下げ、勢いよく男の胸に刺さった。どぷ、と血があふれ、ナイフごと僕とシイさんの手を濡らしていく。その匂いと、感触と、最後の男の呻き声を皮切りに変に視界がぐらつき、そのまま僕は意識を手放した。
「…ありゃ、零くん?刺激が強すぎたかな」
呑気にそう宣ったシイは、男の体を用意していた袋に詰めて部屋の外へと放り出す。そのまま失神している零を置いて、一人死体を引きずっていった。
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「へぇ。お前が落安零?…男じゃん」
「……」
僕がシイさんの仕事を手伝うようになってから、1ヶ月が過ぎた。今僕は、やっとこさ軍の仕事から帰ってきた、もう一人の同居人だと紹介されたフーゾさんに睨まれている。
フーゾさんは、うっすら目元刻まれた隈を除けば彫刻のように綺麗な顔をした男の人だ。シイさんとはまた部類の違う、いわゆる美男子。そんな彼に睨まれると、なんだか自分が蛙になったような気分だった。
「てかさ、シイはいい加減家に男連れ込むの止めろよ。良い迷惑なんだけど」
「え~?でもフーゾ家全然帰ってこないじゃん?だから良いかなって」
「だからさァ、たまの休みにお前みてーに知らないヤツ家にいて安心できるほど、俺は能天気じゃねぇの」
「でもお前抱かせてくんないじゃん」
「……ダル」
大きな舌打ちをして、フーゾさんは僕の隣を素通りしていく。シイさんの方をちらと見やると、笑ってるのか笑ってないのか分からない顔をしていた。
同居をしているし、彼ら二人は恋人同士なのだろうか。けれど、あの様子だと違うのかもしれない。フーゾさんの怖さから頭を別の方向に持っていきたくていらんことを考えていると、シイさんに声をかけられる。
「ああいうヤツだけど、基本的に無関心なだけで懐に入れば結構身内馬鹿になるからさ、あんまし怖くないよ」
ちょっとでもシイさんに期待した自分がアホらしくなった。フーゾさんは怖いしシイさんはクズだしで、本格的にこの世界に来たことを後悔し始める。どうにかして帰れたりしないだろうか。
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冷水を顔に当てて、次に体を濡らしていく。冷えきった水が、熱を持ったような打撲跡の痛みを紛らわせて気持ちが良い。
体中に刻まれた跡を見て、結構薄くなってきてたのにな、と残念に思う。薄くなった痣とはまた別な、お腹のところにできた跡を優しく撫でた。
僕がシイさんに連れ去られてから、はや半年が経った。現状は何も回復せず、強いていうならシイさんが僕に手を出し、フーゾさんが暴力をふるうようになったことくらいだ。無論この変化は最悪なものである。
先程撫でた跡は、つい先程フーゾさんに蹴られた時のものだ。何が悪かったのか分からないけれど、きっと愛想笑いをしていたのが気に入らなかったんだろうと推測する。
懐に入れば身内馬鹿という言葉を信じ、久々に帰宅した彼に声をかけてみればこれだ。もう何度もこれを繰り返しているが毎回惨敗しているので、この家にマトモな大人は誰もいないということをひしひしと実感し落胆する。
軍人だという彼は、確かに力が強かった。この間ぎりと掴まれた肩にもまだ手形があるし、胃のなかは気持ちが悪い。骨が折れていなかったのが唯一の救いだ。
手入れしろとシイさんに言われた髪を丁寧に洗い、次いでで体も清める。今日はシイさんに呼ばれた日だから、いつもよりも念入りに。虚しくなって、少しだけ視界が潤む。いつまで経っても、この作業だけは慣れない。
風呂から上がると、珍しくフーゾさんがリビングのソファに座っていた。なるべく刺激しないように気配と足音を消して一度自身の部屋へ行こうとすると「こっち来い」と呼ばれる。
まだ髪の毛も乾かしていないので、なるべく遠くに立つと「遠い」と言われてしまった。声からして苛立っていて、多分あと一回しくじれば何か物が飛んでくるので遠慮なく左斜め後ろの方へ立つ。
どうやら先程のは不正解だったようで、強めの舌打ちをされてから「座れ」と言わせてしまった。物が飛んで来なかったことに安堵しつつ、対面に座ろうとする。
「……お前さ、シイに同じこと言われてそこ座んの?」
「えっ…?い、いえ…」
いつもならそう言われれば隣に座っているのだが、さすがに今は濡れているしフーゾさんの隣は駄目だろうと思い止めた。その旨を伝えると、今度は大きなため息が聞こえてくる。また怒らせてしまっただろうか。
「いつも通りで良い。隣」
「……へ?」
「…隣に座れ。右でも左でも良い」
怖すぎる要求に、心底震え上がる。でも逆らえば今度こそ命はなさそうなので、大人しく左側に座った。
機嫌を損ねていないかと、横目でフーゾさんを見上げる。と、めちゃくちゃ目があって死ぬほど気まずくなった。
「……魔力が無いな」
「ま、魔力…???」
「………魔法って、知ってるか?」
魔法、唐突にやってきたファンタジーな要素に頭が混乱しつつ、聞いたことならありますけど…と答える。
「……質問を変える。お前、魔法ちゃんと見たことってあるか?」
魔法を?ちゃんと見る??質問の意味が分からなくて、とりあえず首を横に振った。すると、フーゾさんがより大きくため息をつく。どうしたのだろう、徹夜のし過ぎでついに頭がおかしくなってしまったのだろうか。
「魔法っていうのはな…個体差はあれど、だいたいの生きモンが持ってる魔力っつーのを放出して再現する現象の一つだ。俺も…シイも使える。…教わらなかったか?」
「え、あの、いえ……全く……」
ま、ままままま魔法??!!!!そんなファンタジーな、ああでも異世界だから…!!あまりにも元いた世界と変わらないもんだから、すっかり頭から抜けていた。そうだこの世界って異世界だ。
それはそれとして、子供の夢の塊ような事実に胸が踊る。えっ、見せて貰えたりするのだろうか。
「……その、ちなみに…フーゾさんは何の魔法を使われるので…?」
「…んな目で見るなよ。ほら、後ろ向け」
言われた通りに後ろを向くと、後ろから生ぬるい風が吹き始める。来た!と思って振り向こうとすると「こっち見んな」と頭を掴まれ戻されてしまった。
風がより強く、暖かくなった頃。フーゾさんが「触るぞ」と頭を触ったのち、頭頂部に温風が吹き始めた。そのままだんだん下へと下がってきて、ついに毛先まで吹き付け終えると、今度は風が冷たくなる。
冷たい風を髪全体に当たるように吹かせると、フーゾさんがもういいぞと言い、同時に風も止んだ。
魔法を見させては貰えなかったが、充分感じることができたのでとても満足だった。でもなぜ髪の毛?と思っていると、ふと髪の毛が乾いていることに気がつく。
「…髪の毛乾かしてくださったんですか?」
「魔除け」
「魔除け…ですか」
よく分からなかったけれど、髪の毛を乾かしてくれたことに対してお礼は言ったのだから良いだろう。時計を見ると、指定されている時間ギリギリで、慌ててフーゾさんにもう一度お礼を言ったあとにシイさんの部屋へと向かった。
「……………萎えた。今日は良いや」
「えっ…そ、そうですか」
急いで向かったシイさんの部屋にて。最初はだいぶノリノリだったのだが、シイさんが僕の髪の毛を触った途端に萎えたと言って追い出される。
こちらとしてはとてもありがたいのだが、何故だろう。首をかしげながら自室に戻っていると、先程のフーゾさんが言った「魔除け」という一言を思い出す。
「……まさか、ね」
ちなみに、その日の夜はフーゾさんの魔法を見た興奮でなかなか寝付けなかった。
---
--- 夢を見た。人魚になって、海を泳ぐ夢だ ---
--- 歌を歌い、魚と戯れ、自由に暮らす ---
--- ある日一目惚れした男性をもう一度一目みようと人間になり、声を失った ---
--- 自身の想いは男に伝わることはなかった ---
---
水から引き上げられるような感覚がやってきて、目を覚ますとそこは見知らぬ部屋だった。早くもデジャブを感じる。
周囲を見渡す。無機質な白い壁に白い床白い天井白いベッド白白白まっさらホワイトだった。目がチカチカするくらい白くって、ひとまず状況を整理しようと目を閉じる。
この世界にやって来てから、はや五年が経った。時間が経つにつれ、次第に人殺しに抵抗がなくなってきて、シイさんやフーゾさんとの接し方も分かりかけてきている。
そんな時、なんと僕のいる混乱的城市という国とその西の方にあるメーラサルペという国が戦争をすることになった。当然戦争になんて巻き込まれて生きて帰れるわけがないので、僕はしばらく休職ということに。
そうして買い出しのため街中を歩いていた時のことだった。いきなり何者かに眠らされ、気がついたらここにいたのだ。
ああそうだ、これは誘拐だ。しかも僕の同意すら無い誘拐。シイさんの時だって同意は求められたのに。
どうしようかと悩みとりあえず起き上がろうとした瞬間に、何者かによってドアがノックされる。どうしたら良いか分からなくて、一先ず「どうぞ」と言った。
ゆっくりドアが開かれる。誰が来るのかじっと待っていると、推定180cmはありそうな大男が現れた。
「…君は、落安零くんで構わないかな?」
「………」
一応浚われた先なので情報をあまり話すつもりはない。が、この感じだとだいぶバレていそうだった。
じろり、と見下ろされる。相手がとても身長が高くこちらがベッドに座っているから、圧迫感が凄い。
サングラスで瞳の色は分からないが、それが逆に冷たい印象を与えていた。なんとなく、なんとなくだがシャチのような人だな、と思う。
「……口を割るつもりのないのとこ悪いけれど、私達は君の情報を全て知っているよ」
「…なら僕の出身地、当ててみてください」
これは、シイさんと僕以外誰も知らない情報だ。…きっと他の情報は普通にバレているとは思うが、誘拐された腹いせである。
相手はピクリとも表情を変えず、こちらにカツ、カツと歩み寄ってきた。だんだん視界がその人に圧迫され、同時に首が痛くなってくる。
ふっと、視界から彼の顔が消えた。あれ、と思って消えた方向___下を向くと、彼は僕に目線を会わせるように跪いている。その顔は…笑っていた。
「…駄目だね、私にこういう役割は向いてないんだ。全てと言うのはブラフだし、知ってるのは君の名前と住所、交遊関係だけさ」
「……ええと、その…そんなに喋ってしまって大丈夫なんですか…?」
大丈夫だよ。どうせここがバレるのは我が国が負けたときだけさ、そう諦めたようにぼやく彼は、先ほどとは打って変わって親しみやすい人物に見える。
彼はオルカ・オルクスと名乗り、自身のことをメーラサルペ国の総統と言った。そう、今現在混乱的城市が戦っている敵国の総統である。
「っそ、そんな人がどうして僕を……??」
「…実はね。とても情けない話なのだが…」
オルカさんは、僕がシイさんやフーゾさんと交流があったことから軍人と間違えられたのだと語った。その間違いが訂正されないまま誘拐されて、そうして今に至るらしい。
思わずええ…?と困惑の声が漏れる。当のオルカさんも申し訳なさそうにしているし、ガチの間違いなんだろう。
「それとね、もう一つ……実は、誘拐した際に身体を見させて貰ったんだが…」
「えっ」
シンプルに嫌なのが来て、思わずたじろぐ。僕の反応を見て「やっぱり嫌だったよね…本当に申し訳ない。でも、何か隠し持っていたら危ないから……」とオルカさんがまた謝った。
「それでね、その……君が、シイ・シュウリンとフーゾ・ギディオンに…酷いことをされているんじゃないかと思うんだよ」
「………」
酷いこと。自分でもよく思っていたことだが、他の人に言われるとだいぶ傷つく。それは、あれはあの人たちなりのコミュニケーションなのだろうと思い始めてきたからだ。
数年経ってから気がついたことだが、彼らは二人とも感情が昂るといわゆる「酷いこと」をする。それはきっと、正しい感情の発散方法を知らないからではなかろうか。そう思えば、彼らのことも少し、少しは怖くなくなるような気がした。
「…もし、もし良ければね。私達の軍隊に入らないかい?」
「…へ?」
「そこであれば、訓練以外で傷つくこともない。初めは慣れなくて怪我することもあるだろうけど……身体を守る術を身につければ、きっと傷だって薄くなる。それに、ちゃんとしたコミュニケーションを取れる大人達が、あそこには沢山いる。君の話も、ちゃんと聞いてくれるよ」
「あ、あの」
「……私はね、部下によく慕われているんだ。それに自分でいうのも何だが、部下になったら大切にするよ。手を出したりもしない、約束する」
「……」
「……急に、こんなことを言われて戸惑うだろうけれど……私も小さい頃、大人に利用されてきたんだ。その姿が、君と重なって…」
す、とオルカさんが顔を上げる。下を向いた拍子でずれたであろうサングラスの隙間から、彼の赤い瞳が覗いていた。サングラスがずれて分かったことは、彼の素顔は案外幼いということだ。
その瞳がシイさんに少し似ているな、とぼんやり思う。でも、シイさんの瞳はもっと濁っていなくって、それに綺麗なひとだった。この人も色男だけれど、彼とは違う。
彼の誘いはじゅうぶん嬉しいものだった。それでも、僕の心はずっとあの家にある。どんなにマシな環境を提示されても、優しい大人が待っていても、僕はあの家に囚われてしまっていた。
「……ありがたい、お誘いですが……」
「…そうか、分かったよ。……それであれば、致し方あるまい」
そう言うなり、オルカさんはすっと立ち上がる。去り際にすまないね、と残して彼は部屋を出た。
僕は、選択を間違えてしまったのだろうか?分からなかったけれど、でももう後の祭りであることは間違いなかった。
(シイさんは、助けにきてくれるかな…)
そうだと良いな、なんて淡い期待を抱く。やることもないのでもう一度布団に身体を横たえた。
酷く眠たくって、なんだか仕方がなかったから。僕の意識はすぐに、微睡みの中へと落ちていく。
---
次に目覚めたとき、外には怒号が満ちていた。あまりにも物騒な状態での目覚めに、さすがに戸惑う。え、ここで死ぬ?
よく聞けば、誰かを探しているようだった。……もしかして、僕だろうか。そう期待してしまえば、心はそちらの方へと傾いていく。
助けに来てくれた?シイさんが?そうだと良いなと願ったことが本当になるなんて、これは夢だろうかと不安になる。
とりあえずベッドから立ち上がって、開かないドアを叩いてみた。これで、分かれば良いのだけれど。
誰か来るまでの間、ドアの横に腰を下ろす。足音がこちらに来る様子はないから、もしかしたら気づかれていないかもしれない。なんだかどっと疲れてしまって、目線を下に落とす。
すると、僕の服が患者服になっていることに気がついた。ここまで白色だ。妙に足が肌寒いと思っていたが、半ズボンなら無理はない。
足をする、と撫でる。そうすれば、幾分か寒さもマシになるだろうと思った。の、だが…
「………ん?」
腕が、なんか……鱗がないか??慌ててそこに触れると、かさりと鱗が剥がれる。そこの下には素肌があって、でも確かに鱗は落ちたというより剥がれた感覚だった。
「え、あ…あ~っ!!!!」
患者服。白く無機質な部屋に、よく見れば着いていた腕のタグ。そして自国の総統が訪れるほどの施設。………ここは、もしかして軍営の実験施設ではなかろうか。
拉致監禁からの人体実験。勘違いでされるにしてはずいぶん大層なものを施された物だと、呆れてため息をつく。
自分の身体が自分の知らないうちに作り変えられている。その実感がなかなかやってこなくて、それでも怖くなって震えはやってきた。あー、怖い。自分は一体ナニにされたんだろう。
怖くて止まらない震えごと、自分の身体を抱える。外に響く怒号も、こちらにやってくる足音も、自身の心臓の音さえも全てが恐ろしい物のように思えた。……ん?足音?
ハッと顔を上げ、ドアを強めに叩く。怒号が少しだけ止んだので、もっと強く一回だけ叩いた。すると、足音が一斉にこちらにやって来るのが聞こえる。
凄く疲れて、またドアの横に座り込む。ああ、きっと助けに来てくれたんだ。良かった。もう、きっと大丈夫。
外に人の気配が出てきた頃。しばらく鍵を開けようと奮闘している音が聞こえてきたが、なかなか開かなかったようで。
次の瞬間には、物凄い音と共にドアが吹っ飛んだ。…え、吹っ飛んだよな。壁にすごい跡があるし、ちょっと煙も出ている。
唖然としていると、ドアからするりと頭が出てきた。その髪色が白色だったからか、心臓が少しだけ高鳴る。もしかして、本当に助けに来てくれたのだろうか?
すると、彼がこちらを向く。その瞳は左側が赤色、右側が白色と不思議な色合いで、良くみれば髪の毛も白と黒のツートンだった。顔立ちは幼い美少年といった風で、シイさんとはあまり似ていない。
やっぱり、あの人が来るはずなんてなかった。そう実感し、落胆する。と同時にまたどっと疲れがやって来た。
慣れない環境で張っていた気が緩み、それと同時に酷い睡魔が襲ってくる。目の前の男の子が少し焦った顔をしているのを最後に、僕の視界はまた黒く染まった。
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--- 夢を見た。また、人魚になる夢だ ---
--- 自分には尾の代わりに足が生えていて、手にはナイフを握っている ---
--- 目の前には、ベッドで眠る王子が、シイさんがいた ---
--- この人を殺せば、自分は戻れる ---
--- ナイフを振り上げて…結局、刺せずにそれを下ろした ---
--- `絆された人魚はそのまま泡となって消えた` ---
---
◇To be continued…