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少女Sの切望(一)
記憶の彼方に、君は生き続ける。
序章 『君の指とティーカップの温度』
踏切が喚いている。鳴り響く警報が、黄昏の冷えた空気を震わせる。夕陽を溶かして赤く染まった地平線の上を、急行列車が走り抜けた。薄暗がりに浮いた光る車窓から見えた車内には、いくらか人がぽつりぽつりと見えた。ガタンガタンと喧しく列車が通り過ぎて、その後に静寂が到来した。沈黙した街に、響くのは僕の足音。一人寂しくアスファルトをカツカツと鳴らしながら、僕は通りに面した洋菓子店に足を運んだ。店頭に掲げられた『Patisserie Wiegenlied』の文字。すっかり暗くなった大通りに灯る店の明かりが温かい。周りを見渡したが、僕以外に客は居ないようだ。木造の店内には洒落たアンティークと、宝石の様に輝くケーキが並べられたショーケース。彼女が好きだった、ケーキたち。
「お久しぶりです、お客様」
ショーケース越しに小さく響いた声がケーキに目を凝らしていた僕の耳を|擽《くすぐ》る。
「お久しぶりです、長瀬さん」
僕に声をかけてきたのは、|長瀬《ながせ》 |文也《ふみや》さん。この店で働くパティシエで、僕と彼女の関係をよく知っている人。
「長瀬さん……お客様って言うのやめてくださいって言ってるじゃないですか」
「申し訳ありません。ですが、私めからしますとそうお呼びした方がしっくりとくるのです」
そう言うと長瀬さんは少し笑んだあと、静かに呟いた。
「しかし、こんなことでは|縁《ゆかり》様に怒られてしまいますね……」
彼は少し俯いた後、僕の顔を一瞥して、レジの前に立った。
「それじゃあ、いつものをお願いします」
僕の言葉に彼は静かに頷き、ショーケースからケーキを一つ取り出した。ふわりとした生クリームのクッションの上に、林檎やオレンジ、メロンなどの様々な果実がジュエルのように散りばめられたフルーツタルト。彼女がこの店で一番美味しいと頬張っていたケーキだ。
「もう、あれから、二年ですか」
取り出したケーキを白い皿の上に乗せながら彼はそう呟く。
「えぇ……短いようで、長いような……言い表せない不思議な感覚です」
「縁様はいつもお客様のお隣にいらっしゃいましたからね」
彼はにこりと口角を上げ、ケーキが乗ったトレーをこちらに差し出した。
「こちらフルーツタルト……いえ、『 Juwel des Waldes 』でございます」
「ケーキにドイツ語で名前をつける趣味は相変わらずですね」
僕がそう言うと、彼は趣味ですからと微笑んで、奥のテーブルに案内してくれた。二つの椅子が向かい合うように置かれた、古臭いティーテーブル。その上にはミルクティーが注がれた二人分のティーカップ。湯気に乗って僕の鼻を|擽《くすぐ》る紅茶の鮮やかな香り。思い出す、今でも忘れてしまいたい程に眩しい君の笑顔を。
「久しぶり、縁」
静かに揺らぐ湯気の向こうに君がいる気がして、そう呟いてみた。ただ静かに紅茶の表面が揺らいだだけだった。ティーカップに手を伸ばした。冷えた指先に伝わる温もりに、微かに皮膚が震えた。一口飲めば、ミルクのまろやかな甘みと、少しフルーティーな紅茶の香りが口に広がった。そのままフルーツタルトを口に運んだ。舌の上にとろりと広がる、上品な甘さのメロンと洋梨のコンポートの柔らかな感触と甘みを濃厚な生クリームが包みこんだ。変わらない美味しさに舌鼓を打っていると、隣で長瀬さんが目を細めて僕を見ていた。
「うん……いつも通り美味しいです」
「そのありきたりな感想も、相変わらずですねぇ」
彼はそう言うと僕の向かい側の、誰も座っていない椅子を見つめた。いつもにこやかな彼の表情が、一瞬だけ、寂しそうに見えた。そこに居ない人を想って。そんな表情の彼に何と話しかければいいかわからず、もたれ掛かった椅子がギィと軋んで鳴いた。一つ残っていた甘酸っぱいラズベリーを口に放り込み、空になったティーカップを片手に追想に|耽《ふけ》った。
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第一章 『夕陽が溶けたリノリウム』
窓に射し込む橙色の光の束が廊下を照らしている。裏庭にある楠の木が微かに吹く夕風に揺らいで、|漣《さざなみ》のような葉擦れの音を響かせた。校舎には僕以外に人は居ない。コツコツと上履きがリノリウムを叩く音が木霊する。開けられた教室の扉から見える、影に沈む並んだ机と椅子。そこから漂う|塵埃《じんあい》と何かが少し|黴《か》びたような臭いが鼻腔を突いた。誰も居ない、紅く濁った放課後の一室。窓側の机の上に雲の群れが静かに流れている。理由もなく、それを見つめていると、不意にカーテンがふわりと舞った。
「どうしたの?そんなセンチメンタルな表情して」
一人、少女が窓際で微笑んでいた。風を受け止めて|靡《なび》くカーテンを背に、静かにただそこに立っている。
僕以外に人は居ない。
「……なんだ、まだ留まってるのか」
僕が静かにそう言うと、彼女は少し悲しげな表情を顔に貼り付けて僕を見た。
「うん。私って、ほら……未練の権化みたいなものだし」
「……」
もう一度言おう、僕以外に《《人は》》居ない。
何も言わずに溜息を吐く僕を彼女は薄く笑って、くるりと半回転。翳った校庭を見つめながら、呟いた。
「意外と執念深いのかな……私って」
僕に向けていったのか、それとも独り言なのか、背を向けられては分からなかった。
「だからこそ、そんな形で残ってるんじゃないのか?君という存在が」
「うん……まぁ、そうだね」
そう彼女は曖昧な返事をしてから、少し俯いた。カーテンの影を|纏《まと》った彼女の表情はよく見えなかった。
「まぁ……僕も乗っかったんだし、最後まで付き合うさ……」
次第に冷えだした空気に自然と口を閉ざした僕たちは、いつの間にか静けさに囚われていた。窓枠に没しかけた落陽の|仄《ほの》かな光の残滓は、まだ淡く彼女の黒い髪を照らしている。薄く笑みを浮かべる彼女。開いていた窓から吹く穏やかな風が、ふわふわと彼女の長髪を靡かせる。
一瞬とも、永遠とも感じる静寂を、鴉の鳴き声が破った。僕がまた口を開くには、それで十分だった。
「最後まで、手伝うさ」
彼女の表情は変わらない。鴉の鳴き声が遠ざかっていく。
「君の成仏を」
刹那の間を挟み、太陽が地平線に没した。静かに見つめた彼女の顔は、もう薄闇に呑み込まれていた。