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第3話:取引と喪失
元の世界に戻された四人は、喪失感に打ちひしがれていた。
特に仄の落ち込みは酷かった。アパートの薄汚れたキッチンでインスタントラーメンをすするたび、洋館で食べた豪華な食事と、隣で微笑む白藍の顔が脳裏をよぎる。
(あの場所こそ、私の居場所だったのに……!)
彼女は、自分を拒絶した社会への怒りと、あの楽園への強い執着心で、心が張り裂けそうだった。
雷牙と玲華も同様だった。玲華は、かつて欲しかった最新のパソコンを触りながらも、あの洋館の図書室にあった膨大な蔵書のことを考えていた。雷牙は、高級なソファの感触を忘れられず、古びたベッドに横たわっていた。
白藍は、公園のベンチで再び文庫本を開いたが、文字が頭に入ってこない。彼にとっての楽園は、食事でも豪華な設備でもなく、仄の笑顔が見られる唯一の場所だった。
「僕たちは、もうあの|楽園《場所》を知ってしまったんだ」
スマートフォンが振動する。ファントムからのメッセージだった。簡潔な指示と、合流場所が記載されている。
4人は、迷うことなく指定された廃ビルへと向かった。
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廃ビルの屋上には、全身黒ずくめのファントムが待っていた。
「準備はいいかね、楽園の住人たち」
ファントムは静かに尋ねる。
「あの洋館に戻れるんだな?」
雷牙が詰め寄る。
「そうだ。ただし、永遠に楽園に住む権利を得るには、私の指示を完璧に果たす必要がある。失敗は許されない」
ファントムは、タブレット端末を差し出した。そこには、今回の指示の詳細が記載されている。裏社会で大きな影響力を持つ人物への接近。
「君たちの過去は調査済みだ。君たちは元々、社会の規範から外れた存在。私の指示に従うことへの抵抗は、他の者より遥かに少ないはずだ」
4人は、過去の自分を思い出した。孤児院で、自分たちを守るために取った行動。あの経験は、自分たちの中に確かに存在していた。
「私たちを愛してくれる人なんて、この世界にはいない。だったら、自分たちが愛せる場所を手に入れるしかない」
玲華が冷徹に呟く。
白藍は、仄を見た。仄もまた、白藍を見つめ返した。その視線に言葉はなかったが、互いに「この選択しかない」という決意が宿っていた。
「感情は不要だ。感情は判断を鈍らせる。スイッチを切るんだ」
ファントムが指示する。
4人は、それぞれの心の奥底に眠る人間らしさの最後の片鱗を、自らの手で切り捨てた。過去の感情も、不安も、社会的な規範も、全てを「オフ」にした。残ったのは、「楽園に戻る」という狂信的な目的意識と、ファントムの指示に従うという決意だけだった。
「……やりましょう」
白藍が代表して言った。その声には、もはや感情の抑揚はなかった。
ファントムは満足げに頷く。
「では、最初の仕事だ。ターゲットに接近しろ」
4人は、廃ビルを後にした。彼らの背中は、もはや居場所を求める孤独な若者のそれではなく、冷徹で目的を遂行する者のそれだった。
こうして、「忘却の庭園」の住人たちは、永遠の楽園への帰還を夢見て、裏社会へと深く潜り込んでいった。彼らにとって、この瞬間から社会は「仕事場」であり、普通の生活は「仮初」のものとなった。
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