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side Lily - 2
「ただいま」
玄関のドアを開ける。以前と同じ挨拶だった。
ガタッと部屋のドアが開く音がする。彼が出てきた。ここも、同じだった。どこかぼんやりしたような、虚な瞳。これは、以前とは違う。
『おかえり』と言って、くしゃりと笑って、私を抱きしめてくれたものだった。いつも|溌剌《はつらつ》としていた。
「ご飯は食べた?」
そう言いながら彼の顔を見る。眠そうな顔で、どこか頬が|痩《こ》けていた。ああ、これは。
「その顔じゃ何も食べていないのね。飲み物は? ちゃんと水分は取ってる? ミルクでも持っていくわ、ダイニングにいらっしゃい」
もっと気の利いたことを言えればいいのに。|微《かす》かに自分を恨みながら、荷物を置いた。
あれから、彼はずっとぼんやりしている。あのとき見つけた空洞は一向に埋まらず、むしろどんどんと広がっていくような気さえした。
日々が過ぎていけばいくほど、彼はどこか遠くに行っているようだった。いや、遠くに行っているのは自分の方か。
チン、とレンジが鳴った。温まりすぎないように、短く時間をセットしていた。火傷に気をつけて、彼の元に持っていく。
「大丈夫? ちょっと電子レンジで温めたのだけど、熱すぎてないかしら」
彼は何も言わなかった。こくり、とただ頷くだけ。そういえば、以前は彼が私にやってくれてたな、と思い出した。
ああ、ご飯も作らなきゃな。
側にいるのに、以前よりずっと不安だった。
どうすればよいのか分からない。あまりにも突然すぎた。
もしかしたら、ずっと前から兆候があったのかもしれない。彼はずっと笑っていたから、何も言っていなかったから、私を甘えさせてくれていたから。気づけなかった。恨むなら、何を恨めばよいのだろう。自分か、彼か、世間か。
「外は寒かったのよ。ああもう刺されそう。こんなんで私、真冬になったらどうなるのかしら」
他愛ないお喋りのひとつとして、そう切り出した。
ちらり、と彼のほうに目を遣ると、どこか瞳が温もりが戻っているような気がした。
たとえ不安でも、満足してしまう。
彼はどこにも行かない。私だって、どこにも行かない。彼の世界の中核に私が強く存在することが、私にとって支えだった。
できたよー、とご飯を持って行った。
「カレー?」
「えー? いや、ハヤシライスのつもりで作ったのだけれど」
あ、これは。
「そうなの? でもハヤシライスってこんなに具材が入ってるイメージないんだけど」
「むー……。つ、作った人がハヤシライスだと言えばハヤシライスなの! ほらさっさと食べる!」
思わずプイ、とそっぽを向いてしまった。こんなこと、久しぶりだ。後ろから ふふ、と彼が笑う声がした。
そうだ、彼はこんな人だった。なぜかカレーとハヤシライスの違いに敏感で、ちょっとした子どものお遊びのようにこだわっていた。
昔と変わっていないところ。以前と同じところ。明るく笑っていた頃の彼を探して、必死に繋ぎとめようとする。
「美味しい? ちゃんとハヤシライスでしょ?」
「うん、そうだね。ありがとう、リリィ」
思わず振り向いて、彼を見た。以前のような、悪戯っ子のような顔。
———ああ、私も大概だな。
そんなことをただ思った。
誰よりも身勝手なのは、自分だろう。
彼にとって、何が幸せなのだろう。
私が側に居続けるのは、彼にとって幸せなんだろうか。ずっとずっと、|反芻《はんすう》する。
必要なものが手に入り続けるのが必ずしも幸せだとは限らない、一番それを知っているのは、きっと私であり彼なのだから。