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一場春夢
バレンタインなんてくだらない。
そもそも遡って考えると起源はずっと昔のローマで起きた司祭の処刑である。人間が処刑された日を恋愛ごとのイベントとしてお祝いするなんて、馬鹿げてるだろ。
…と、あの時までの俺は思っていた。
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俺は冴えない中学生の男だ。
恋人はもちろん気心の知れた友人すらもいない。教師もなぜか俺のことを避けている様子なのでよく言えば一匹狼である。しかしそんな俺でも一組織には所属している。…というかしなければならない。義務教育期間中だから。
毎日がくだらなくてしょうもなくて退屈だ。特に今日は別格で。
理由は先ほども出てきたあの忌々しい行事、「バレンタイン」だ。
俺には縁もゆかりもない話だが、教室中はその話で持ちきりである。
教室の片隅の席でじっとして耳を塞ぐ。…話も聞きたくない。くだらない。
力を込めて閉じていた瞼をそっと開けてみる。リア充どもがワイワイガヤガヤと盛り上がってやれ「チョコありがとう」だの、やれ「これ本命?(笑)」などと騒いでいる。ひとえに耳障りだ。
俺は再び目を閉じて机に突っ伏した。
…リア充、か。そんな言葉をどこで覚えたのだろう。
そんなことを思っているうちに俺の意識はどこかへと飛んで行ってしまっていた。
しばらくして気がついて起きた時には昼休みは終わり、周りで騒いでいた生徒たちは席につき始める。
俺も教科書を開いて、特に意味はないがペラペラとページを|捲《めく》る。…別に優等生を|演《や》っているわけじゃないが。そうこうしているうちに理科の先生が入ってきた。今日は座学か。
筆箱を机の中から出そうとしたところ、何か身に覚えのないものが指先に当たる感触がした。
ん、なんだこれ。
筆箱を取り出すのは後回しにしてその”何か”を取り出してみる。
確認すると、俺は言葉を失った。まさかのラッピングされた箱だったのだ。
「は。」
思わず声が出てしまったが、普段から声が小さいので周りに聞かれていなくて助かった。
しかしなぜこんなところに”これ”が?自分の目が信じられない。
気がつくと視界が霞んでいた。ポタポタと何かがこぼれ落ちる。
あぁ、俺、チョコが欲しくて|僻《ひが》んでいたんだ。そんなことに気がついた時、とある考えが頭をよぎった。
もし、これが間違って置かれたものだったとしたら?
そうしたら俺のものではないということになる。そもそもこんな奴にチョコを渡す奴がいるか?いや、いるわけがない。なんの取り柄もない凡人、またはそれ以下だぞ?
俺はそのラッピングされた箱に気が付かなかったかのように机の中に戻した。
気恥ずかしさと落胆、そして|一縷《いちる》の期待を感じながら今度は筆箱を取り出す。そして授業に意識を向けた。
しかし、一度見たあの小箱のことを忘れることは到底できなかった。
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結局授業中もまともに集中することはできず、謎のあの箱のことが頭の中をぐるぐると駆け回っていた。もうすでに放課後になってしまったのに、あの小箱のことが気になって帰るに帰れない状況だ。
教室の中にはまだ数人の生徒が残っているが、皆ぱらぱらと帰っていく。
だんだんと暗くなっていく教室の中でぼーっと椅子に座ったままでいると、突然教室の扉が開いて知らない奴がソワソワと様子を伺いながら入ってきた。
その女学生は俺の方にまっすぐに歩いてくる。そしてこう言った。
「す、すみません…あの、あ……」
何か伝えようとしているが、彼女はキョドった様子で瞳を揺らしている。
俺は内心心臓バクバクであったが、おそらく眉を寄せてその女学生のことを見ていたと思う。そのこともあってさらに彼女は声を震わせて焦ったように早口でこう言った。
「チョコ間違えましたっ…!」
…そうか、やっぱり間違って渡してしまったんだな。なるほどなるほど。
俺は済ました顔で机の中の小箱を返す。
「本人に渡せるといいですね。」
自分がその時どんな顔をしていたかはわからないが、相手の表情を見て察するに、おそらく悲しげな顔をしていた、と思う。
しかし、彼女は俺から小箱を返してもらった後、そのまま別の小箱を渡してきた。
俺は声も出させずにただ目を見開いて困惑する。頭が真っ白だ。
彼女はこう言った。
「こっち…が、__先の__チョコ、なん、です…」
顔を伏せて誰にも聞こえないような声で呟く。
俺は震える手でその差し出された箱を受け取った。
「え。」
頭の中がクエスチョンマークで埋め尽くされていく。
俺が感謝の言葉も言えないまま黙って固まっていると、彼女は不安げなしかし微かに満足したような表情で教室を出て行った。
俺はいてもたってもいられずにカバンも持たずにただ小箱を持って教室を飛び出す。
「あのっ!」
今出せる限界の大声を出して彼女を呼び止める。
「あの…これ、本当に俺の?」
彼女は何も言わずに頷いた。マジで俺のなの!?…信じられない。
しかしそんなことを本人に言うわけにもいかないので、もう一つの箱について聞いてみる。
すると彼女は箱を開いて見せてくれた。そこにはチョコが入っていた。
「あれ、チョコ…」
俺はさらに困惑して固まる。
すると彼女はなぜか微かにわらってこう言った。
「こっちは、明日渡しますね」
俺は帰宅した後、早速もらった小箱を開けた。しかししばらくは食べずに眺めておいた。せっかく作ってくれたのにすぐに食べてしまうと勿体無い。…別に浸っているわけじゃないが。
俺は朝早起きしてまたチョコを見る。しかし手作りは早めに食べた方がいいらしい。
登校まえに仕方なく小箱を開け、初めて貰った贈り物を噛み締める。
「ちょっとくどいけど柑橘系の香りがして美味いな。」
バレンタインも案外、悪くない。
ちょっと怖いお話にしてみました…!
お気分を害してしまったら申し訳ないです…!
<解説>
主人公が二度目に受け取ったチョコには描写からも分かるとおり柑橘系のものが入っていました。
そして最初に受け取ったチョコについて言及はありませんでしたが、理科でも聞いたことがあると思います。酸性のものと塩素系のものを混ぜると毒性のある塩素ガスが発生すると。
つまりはそう言うことです!(無理やりですね!)
一場春夢_いちじょうしゅんむ
→その場限りで消えてしまうこと、きわめてはかないことのたとえ。(出典:コトバンク)
春の夜の夢のように、その場限りであること。人生の栄華のきわめてはかないことのたとえ。(goo辞書)