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第一話
父さんと母さんが寝静まってから、僕は床を軋ませないように気をつけて家を出た。扉を開けて外に出る時は緊張したけれど、閉めて早足に歩き始めてしまえば、高揚感の方が強くなった。
「来たか」
丘の下まで走っていくと、そこには幼馴染のジェイスが既に来ていた。このクレアシオン村において、今年十歳になるのは、僕とジェイスだけだ。本当に小さな、田舎の集落だ。
「ファルカの事だから、怖がって来ないかと思った」
「僕はそんなに臆病じゃないよ! それより、何を捕まえに行くの?」
黒髪のジェイスを見ながら、僕は尋ねた。ジェイスと僕は、いつも一緒に遊んでいる。ジェイスはいつも面白い事を教えてくれる。そして今日の昼間、ジェイスは『夜になったら面白いものを捕まえに行こう』と僕を誘ってくれた。
「知ってるか? 流れ星を見つけたら、心の中で願い事を唱えると叶うらしいんだ」
「流れ星?」
「そうだ。だから今夜は、流れ星を捕まえるぞ!」
「どうやって?」
「視界で」
「……う、うん。分かったよ」
ジェイスの言葉は絶対だ。物理的に虫かごに入れたりは出来ないけれど、確かに目で捉える事は可能だろう。僕の手をジェイスが握ったので、それから二人で丘の上まで進んだ。その草むらに、ジェイスが寝転がる。僕も隣で仰向けになった。
満天の星空を眺めて、僕は大きな三角形を見つけた。川みたい散らばっている銀の星もある。
「ジェイスは何をお願いするの?」
「願い事が二つ叶うように祈る」
「それってありなの? ずるくない?」
「ありだろ。俺が決めた。俺はずるは嫌いだ。でも、どうしても叶えたい願いが二つある。これだけは譲れない」
「ふぅん」
頷きつつ、僕は何をお願いしようか考えた。
……。
真っ先に思いついたのは、『これからもずっと、ジェイスと一緒にいられますように』だった。けれど、チラリとジェイスの横顔を見て、苦笑を噛み殺す。ジェイスの夢は、冒険者として旅立つ事だと、僕は何度も聞いている。きっと、流れ星にも、旅立ちを祈るんだろうなって、分かってる。だったら、僕に出来る事は一つだ。応援する事。だから僕の願いは、『ジェイスのお願いが叶いますように』と、お星様に祈る事だろう。
「あ! 流れてきたぞ! ファルカ、早く!」
「う、うん!」
僕はジェイスが指さした方を見て、流れ星を認めたから、心の中で必死に願った。
何度も心の中で唱えている内に、光は流れて消えた。それを確認してからジェイスを見れば、じっと目を伏せ、熱心に指を組んで祈っているのが見えた。端正なジェイスの顔を見て、僕は少しの間だけ見惚れてしまった。
「よし、完璧だな。ファルカもちゃんとお願い出来たか?」
「うん。僕は大丈夫。ジェイスと違って一つしかお願いしてないから、すぐに終わったよ」
「俺は願いをまず二つにしてもらってから、それぞれ何回も心の中で唱えたから大変だった。けど、ばっちりだと思ってる」
「当てようか、何をお祈りしたか」
「やってみろよ」
「『旅に出られますように』でしょう?」
「――っ、悪いか?」
僕の言葉に、ジェイスが不貞腐れたような顔をした。剣だこが出来るほど、熱心にジェイスは鍛錬をしている。ジェイスのお父さんが、元冒険者で剣士だから、稽古をつけてもらっているらしい。ただこの田舎の村から旅に出るのは中々資金的に困難だ。今は、ジェイスのお父さんが、嘗ての仲間に相談中らしい。
「ううん。応援してるよ。はっきり言って、寂しいけど」
「俺だってファルカと離れたくない。でも、俺は世界を救いたいんだ」
魔王が世界に生じてから、もう何年も経つらしい。魔王が操る魔物が人間に害をなすこの国では、多くの冒険者が世界を救おうと旅に出ている。
「ファルカと幸せに、ずっと一緒に暮らせる世界にするんだ」
「期待してる」
「なぁ、ファルカ。そ、そのさ……もう一個も、分かったのか?」
「え? それは想像もつかないけど?」
「良かった」
「教えて?」
「無事に俺が旅から帰ってきたらな」
「まだ旅に出るって決まってないのに?」
「出るって決めてるから、旅に出るんだよ俺は!」
それを聞いて僕は思わず吹き出した。
――そんな夜から三年を経て、僕達が十三歳になった年。
ジェイスの旅立ちが決まった。村人総出で入口に向い、僕達はジェイスを見送る事にした。満面の笑みで、僕は最後に、ジェイスの肩を叩いた。
「ちゃんと世界を救ってね!」
「任せろ。必ず世界を平和にする」
「うん。でも、危なくなったら逃げてね!」
「俺は逃げない。幸せはこの手で掴むつもりだ」
「格好つけて……」
怪我をしたり死んでしまう方が辛い。世界がこのまま緩慢に滅んでいく事よりも、今目の前にいるジェイスが傷つく方が僕は嫌だった。
「なぁ、ファルカ」
「何?」
「――約束して欲しいんだ。必ずここで、俺を待ってるって」
「え?」
「絶対に俺は帰ってくるから。俺の事、待っていてくれないか?」
「僕は村から出るつもりはないし、いつでもここにいるよ。ちょっと考えたら分かるでしょう?」
僕はくすくすと笑った。だが、ジェイスの顔は真剣だった。そして僕の耳元に唇を寄せた。
「俺以外の奴とキスとかをするなって意味だよ。分かってるのか?」
その声に、僕は目を丸くした。実はこの前、ジェイスに、『キスをしてみよう』と誘われて、僕は唇を重ねたのだったりする。頬が熱くなってしまう。僕は大きく頷いた。
「分かったよ」
「今、分かったんだろ?」
「そ、それはそうだけど! とにかく分かったから。いってらっしゃい!」
「おう。行ってくる」
満面の笑みで、僕は旅立つジェイスを見送った。
ジェイスの背中が遠ざかっていき、どんどん小さくなる。村の人々が踵を返して帰路につき始めてからも、僕はずっと街道を眺めていた。ジェイスが見えなくなっても、暫くその場に立っていた。ずっと僕は、笑っていた。最終的に、夕暮れ、僕は一人になった。
その足で向かった先は、いつか流れ星を二人で見た丘の上だ。
僕はそこで膝を抱えて座り、俯いた。まだ顔には笑顔が張り付いている。だって大好きな幼馴染の夢が叶って、旅立っていったのだから、これは喜ばしい事態のはずで――と、思った時、僕の頬が温水で濡れた。ここには誰もいないから、ジェイスに知られる事だって無いだろうからと、僕はそのままボロボロと泣いた。
僕は、もう子供ではない。
だからジェイスが『キスをしてみよう』なんて言い出した時には、とっくに彼の事が好きで、ただの幼馴染じゃなく初恋の人に変化していて、柔らかな唇の感触に舞い上がるほどだった。だけど僕が泣き喚いて『行かないでくれ』なんて言ったら、きっと優しいジェイスは困ると思ったから、今日は朝からずっと、笑顔を浮かべていた。今日のために、昨日も一昨日も、ジェイスの旅立ちが決まったと聞いた日から、僕は作り笑いの練習に必死だった。その成果が発揮できたのだし、笑顔で見送れたのだから、僕は良いと思ってる。
「どうか、無事で」
涙で歪む視界に、僕は空を捉えながら、ポツリと呟いた。瞬きをしたら、頬が濡れて乾かなくなってしまったけれど、唇にだけは練習した笑みを浮かべ続けていた。