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きさらぎの揺籃
窓の外は、凍てつくような真夜中で、ひどく寂しそうだった。
僕はベッドの中で身をよじった。今日もまた、眠れない。
安眠妨害の原因は一つ。隣の部屋から聞こえてくる、か細いすすり泣きだった。壁は薄く、泣き声は僕の神経を逆撫でし続ける。
「はぁ……」
僕は深い溜息をつき、ベッドから身を起こした。時計の針は午前3時を指している。このアパートに引っ越してきて一週間、まともに眠れた試しがない。
壁を叩いて文句を言ってやろうかとも思ったが、それよりも泣き声の主に対する好奇心が勝った。一体どんな人間が、毎晩こんな時間に泣いているのだろう。
僕は音を立てないように隣室のドアの前に立ち、耳を澄ませた。
やはり、泣いている。意を決してノックしようとした瞬間、ドアが内側から勢いよく開いた。
そこに立っていたのは、驚くほど美しい女性だった。
月明かりだけが頼りの暗がりで、彼女の肌は陶器のように白く、瞳は深く、濡れていた。何よりも目を引いたのは、その頭頂部から生えた、ふわふわとした大きな獣のような耳だった。
彼女は驚きに見開かれた僕の瞳を見て、凍りついた。
「あ……」
か細い声が漏れる。僕は咄嗟に口を開いた。
「毎晩、毎晩とうるさい」と文句を言うはずが、出てきた言葉は全く違った。
「眠れないなら、少し話さないか?」
彼女は狼狽しながらも、僕の提案を受け入れた。
部屋に通されると、彼女は“サーシャ”と名乗った。彼女は人間と、ある種の獣人の混血だった。
故郷ではその出自を隠して暮らしていたが、都会に出てきてからも差別に遭い、心を病んでいたのだ。毎晩のすすり泣きは、孤独と不安の表れだった。
サーシャは申し訳なさそうに俯き、赤く腫れた瞼に手をやりながら掠れた声を絞り出した。
「ごめんなさい、うるさかったですよね……」
「…いや、俺も眠れなかったから、お相子だ」
僕はそう言って、少し微笑んだ。
それから毎晩、僕らは真夜中に話し込むようになった。
僕は彼女の話を聞き、サーシャは少しずつ心を開いていった。僕は彼女の孤独な境遇に惹かれ、サーシャは彼の優しさに救われた。
二人の間に、密やかな恋愛要素が芽生えていった。
ある夜、サーシャはいつものように泣きそうになりながら、自分の出自の辛さを語った。
「私なんか、生まれてこなければよかった」
僕は静かに彼女の隣に座り、そっと彼女の混血の証である耳に触れた。サーシャの体がビクッと震える。
「違う。とても綺麗だ」
僕は真剣な眼差しでサーシャを見つめた。
そのまま、意思のこもった声で続けた。
「君は君だ。その耳も、君の魅力の一部だ」
サーシャは驚いて顔を上げた。
初めて、自分の特徴を美しいと言ってくれた人がいた。彼女の目から涙が零れ落ちたが、それは悲しみではなく、温かい安堵の涙だった。
その夜以来、サーシャの安眠妨害は止まった。
彼女はもう、夜中に泣くことはなくなった。代わりに、隣の部屋からは時折、二人の楽しそうな話し声や笑い声が聞こえてくるようになった。
僕の不眠症も治り、二人は隣同士、穏やかな夜を過ごすようになった。
真夜中から始まる、少し変わった二人の恋愛物語は、静かに続いて春が訪れた。