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第1話〖マヌ・シネストラ〗
プロローグを見ていない人の為の簡単なあらすじ
小さい街、モーツンベンの一角に佇むのは探偵事務所。それを営むのは、かつて天才音楽家であり、天才ピアニストであり、
あの『黄金の右手』の宿主であった__、ヴァンサン・ド・ルヴェール。
彼はあのサル・ガヴォー爆発事故により右手を失ってから、音楽界から逃げるように離れた。
彼は一つの疑念を抱いている。
いや、『確信』を抱いている。
あれは事故なんかじゃないと。
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白い天井を見つめる時間が、どれほど長く続いたのか。
目を覚ましたヴァンサン・ド・ルヴェールは、最初、自分がどこにいるのか分からなかった。
――ここは……?
鼻を突く薬品の匂い。機械の規則正しい電子音。
そして、胸の奥を凍らせる空虚感。
右腕に、何もない。
彼はそっと、視線を動かす。
包帯で覆われた肩口から先が、空白になっていた。
思考が停止する。息が詰まる。
――これは、夢だ。悪い夢だ。目を閉じれば戻る。
だが、現実は無慈悲だった。何度瞬きを繰り返しても、失われたものは戻らない。
「……お目覚めですか」
落ち着いた声が、耳に届く。
ドアの方に目をやると、白衣を着た医師が立っていた。背後には、看護師が控えている。
「状況は、ご理解いただけますか」
声は優しい。だが、その奥には取り繕えない緊張があった。
ヴァンサンは声を出そうとしたが、喉が乾いて言葉にならなかった。
医師が言葉を選ぶように、静かに告げる。
「――右腕は……肘から先を失いました」
その瞬間、心臓を鷲づかみにされたような感覚が走った。
右手。黄金の右手。世界を掴み取るはずの手。
――なぜだ?なぜ、俺が……。
呼吸が荒くなる。天井が揺れる。
「……私の……手が……!…」
声にならない声を押し出したとき、医師はただ、痛ましげに目を伏せた。
その後の記憶は、霞がかかったようだった。
説明を聞いた気もする。爆発のこと、火災のこと、奇跡的に右手だけで済んで、命が助かったこと。
――だが、そんなことはどうでもいい。
残ったのは、黄金の右手を失ったという事実だけ。
ピアニストにとって、それは死刑宣告に等しい。
夜、誰もいない病室で、ヴァンサンは何度も呟いた。
「なぜ、なぜなのだ、私がこのような目に遭わなければならないのか…。」
すると、その答えを知っているかのように、あの言葉が蘇る。
――『音を奪ったのは、私だ』
あの日、意識を手放す直前に聞いた声。
幻聴かもしれない。それでも、確かに耳に残っている。
それからの数日は生きた心地がしなくて、ピアノが出来ないのなら、私にはなにも脳がない。死んでしまおうと何度思ったか分からない。
一度、立ち入り禁止の屋上に侵入して、ここから落ちてしまおうかと思ったが、その時、屋上からある車が見えた。
それはヴァンサンの師であり、元世界的ピアニスト__アルベルト・ヴァ・イオールコスのものだった。
ヴァンサンは少し、会うのが怖かった。でも、それでも会わなくてはと思い、屋上から去っていった。
「…ヴァンサン。」
扉の向こうには、ヴァンサンの亡くなった右手や他の点々とある傷を見て、何とも痛ましそうにしているイオールコスがいた。
「先生。…」
なにか、ヴァンサンは話そうとしたけど、何も話せなくて沈黙が流れる。
すると、ゆっくりとイオールコスは口を開く。
「痛かっただろう。」
「…。ええ。」
「あのような事故が起きなければ、お前は栄光を手にできたのにな…。」
「…大変申し訳なく思います先生。|約束《・・》をしたのに。」
「いいや。いいんだ。老いぼれの夢に付き合わせてしまってすまんね。」
「いいえ。先生なら夢ではなく、本当に栄光を取れたはずです!!…私も、あなたも、…本来ならっ…。」
「落ち着こうヴァンサン。もうその話はよそう。ピアノの話をして済まなかった。」
「何も謝ることじゃあるまい。ピアノの話もしても良いのですよ?」
「……そうなのか。てっきり、右手を失ってピアノなどもう懲り懲りかと
…。」
「……ピアノしか俺にはありません。ですが…。」
「他にやりたいことも本当にないのか?」
その言葉を聞いて、少し、なぜか心が揺さぶられる。
「ですから、俺にはピアノしか…。」
「やりたいことと、できることは違うぞ。ヴァンサン。お前は今、ピアノという出来ることを、思い浮かべいるんじゃないかと私は思う。
やりたいことはなんだ?ピアノをまだやりたいのか?それならば、私はできる限り支援をするが…。
私はそうは見えないのだ。色々と心配なんだ。お前は、良くも悪くも、『天才』ではもうない、自由になれるのだから。」
その言葉に、ヴァンサンは言葉がでず、放心する
(自由ならば、やりたいことが出来るならば、俺は何をやりたいんだ…?)
「分かりません…。」
ヴァンサンは答えが出ず、ただ戸惑う。
「…。いきなりこんなこと聞いて悪かった。お前にも心の整理の時間が必要だろう。」
イオールコスは立ち上がり、コツコツと靴の音だけを残して病室から立ち去った。
ヴァンサンはまだ、あの言葉を反芻して考えていた。
(やりたいこと…。 )
答えを探すように、病室の中を見渡す。そこには、もちろんなにも答えなど書かれてはいなかった。
けれど、ある新聞記事が目に入る。
『ピアニスト、ヴァンサン・ド・ルヴェール。|事故《・・》により、黄金の右手を失う__。』
「は?」
その記事を見た途端。間抜けな声が漏れでる。
ヴァンサンはこの一連の事件は、事件として処理されていると、何故かそう思い込んでいた。あの声の正体も、解明されるだろうと思っていた。
「事故などありえない…。」
そう呟いたヴァンサンは、一つ、言葉を思い出す。
『____お前は天才ではもう無い、自由になれるのだから。』
____病室に沈黙が流れる。
しかし、一つの決意はその流れには乗らなかった。
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数か月後。パリ、サン=ジェルマンのカフェ。
冷たいエスプレッソを口にしながら、ヴァンサンは新聞を広げた。
「音楽界の革命児、今度は探偵業?」
そんな見出しが躍っている。半ば戯れとして記者が書いた記事だったが、彼はその肩書きを受け入れていた。
ピアノを失った男に残されたのは、真実を求める指先__だけだった。
次回から本格的に探偵小説ぽくなると思います。
プロローグ結構長くなってすみません( ;´꒳`;)
ご閲覧して頂いた方々、ありがとうございました!!
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