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ちいさな、Start。
春の終わりは、風がやさしくて、ちょっとだけさみしい。
大学に入学して一ヶ月。ひとり暮らしも、駅までの道も、コンビニの配置もだいたい覚えた。
でもまだ、街のにおいや風の音に、自分が混ざっていない気がする。
今日は朝から雨だった。午後になってやっと晴れてきて、買い物帰りにアパートの階段に座った。
右手には、いつもの「しっとりたまごサンド」。最近のお気に入りだ。
「またそれ食べてるのね」
ふいに声がして、思わず体がびくんと跳ねた。
顔を上げると、隣の部屋のおばあちゃんが手すりにもたれてこちらを見ていた。
白い髪をひとつにまとめて、薄いグリーンのカーディガンを羽織っている。
おばあちゃんとは、これまで「こんにちは」「こんばんは」だけの関係だった。
「……おいしいんです、これ」
私がそう言うと、おばあちゃんは少し笑った。
「そっか。あんた、ひとり暮らし、始めたばっかりでしょ」
「なんでわかるんですか」
「朝が静かだからよ」
なるほど、と思ったけれど、なんだか恥ずかしくなってパンに視線を落とした。
おばあちゃんは「じゃあね」と言って、ふわっとした足取りで自分の部屋に戻っていった。
その晩は、ちょっとだけ遅くまで起きていて、つい夜更かしした。
カップラーメンの残り湯を流しながら、なぜかおばあちゃんの言葉を思い出していた。
翌朝、玄関のドアを開けようとして、足元に小さな紙袋が置かれていることに気づいた。
「……え?」
袋の中には、ふっくらしたおにぎりが一つと、小さなメモ。
「“ちいさなStart”は、ちゃんと食べることから。
―となりのおばあちゃんより」
私は思わず笑ってしまった。
まるで昔の手紙みたいな書き方だ。ちょっと嬉しい。
その日、私はいつもより少し早く起きて、カーテンを開けて、窓を少しだけ開けた。
朝の風がふわっと入ってくる。
昨日と同じ街、同じ部屋、同じ私。でも――
手の中のおにぎりが、なんだかものすごくあたたかかった。
たいそうなことなんて、できなくてもいい。
朝ごはんを食べること。カーテンを開けること。
そういう小さなことが、
わたしの「ちいさなStart」なのかもしれない。