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名もなき博物館で最後の思い出を
爽やかな空気。涼しい風。朗らかな日差し。
「ああ、何も変わってない。」
わたしはそれで、再び目が覚めた。
気持ちのいい目覚めだった。二度寝した後、ゆっくり体を起こす。そんな瞬間に感じる幸福のような。
と、今はそんなことどうでもいい。
「ここ、結局どこ?」
わたしの眼前には、青く澄み切った湖、同じく美しい川、それから可愛らしい花畑があった。おとぎ話でしか語られない、楽園のような空間と例えるのが最もふさわしいだろう。
写真でしか見たことのないような花々。ふわりと甘すぎない香りが鼻に届く。これが目の前にあることをしっかり教えてくれた。
湖の方にもわたしは近寄る。覗き込むと湖の底がよく見えた。人工物一つ浮いていない。風がほんの少し、水面を揺らすだけ。
少し前に確かめた風景と、何一つ変わっていない。
……遠くから、声が聞こえる。
「おーい」
そして、遠くから人が走ってくる。
「よかった、目覚めたんですね!」
「はい?」
わたしは体の向きを完全に変えて、その人はわたしの元にやってきて。
わたしの周りで円を描くように動いた。しばらくそうしていた。
「ああ、よかった。どこにも怪我はありませんね。」
わたしに向き直って、若いその人は緩く息を吐き出した。
「あの?あなた、誰なんですか?わたし、気づいたらここにいたんですけど……何も、覚えていなくて。」
ここに来るまでの記憶が、まるごと抜け落ちていた。
どうしてこんな、桃源郷のような場所にいるのか。わたしは今まで何をしていたのか。普通に働いて、普通に休暇を満喫して、普通に日常を送って。でも、ある日突然それがぷつりと途切れていた。
そして、気づけばここにいた。こんな場所、わたしは知らない。来ていたら絶対に覚えているはずだ。
「はじめまして、ですね?私はこの辺りに博物館を構えてます、ええと……まあ、『館長』とでも呼んでください。」
「館長、ですか?」
「はい。館長、です。」
肩くらいまで髪を伸ばした、若く中性的な容姿。きらりと太陽の光を反射するモノクルと、知的な雰囲気を醸すコート。フィールドワークで使うのだろうか、茶色の大きなリュックサック。
うん。やはり、わたしも館長と呼ぶのがしっくりきた。わたしの思い描く「知的な人」がそっくりそのままいる。
「立って話すことになっちゃいますし、うちの博物館に来てください。事情みたいなものは、そこで説明します。こちらへ。」
「ああ、はい。」
とりあえず、素直にこの人……館長の後について行った方がよさそうだ。何かできることが見つかるかもしれない。
わたしは大きく伸びをして、履いていた革靴で地を蹴った。
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「随分と大きい建物ですね。」
「私の自慢なんですよ。」
しばらく野原をハイキング気分で歩いていたわたしたちは、ようやく目的地に辿り着いたようだった。シミひとつない外壁、それから磨かれた金色のプレートが出迎えてくれる。彫られている文字は「博物館」。ただ、それだけだった。
「博物館、だけなんですね。」
「私にはいい名前が思いつきませんでしたし、別に不便をすることもありませんから。」
それは、観光客などを呼ぶにあたってどうなのか、とわたしは口走りそうになったが、すんでのところでとどめた。
個人の趣味だったら、お客さんを呼ぶ必要もないし、わたしがこの博物館のオーナーであるわけでもないのだから。
木製のドアをくぐる。素朴な照明に照らされる、丁寧に展示された花々がわたしの視界に映し出される。
不思議な展示だ。花が宝石、それか硝子の中に閉じ込められているような、そんな展示。カットされた断面は光を柔らかに反射して、中の花はたった今摘んできたかのように美しい。ついため息が漏れてしまって、それを聞いた館長が嬉しそうにはにかんだ。
「私の技術力を結集させた展示なんです。それなりのものにはなっていると思いますよ。」
「いや、それなりどころじゃないですよ!」
だって、花がこんな風に飾られているのをわたしは見たことがない。明らかに現代の技術を超えている。
「こっちに来てから、なぜか研究が上手く行くようになったんです。なんとなく、心当たりはあるんですけど。ああ、そんなことはどうでもいいですね。どうぞこちらへ。」
クリスタルの中に埋め込まれた花々の群れから抜け出して、博物館を進んでいく。ちょっとした休憩所のようなところに着いた。
「アイスハーブティーとお茶菓子です。お口に合うと幸いです。」
透明なポットから、琥珀色の液体が流れ出る。それはなめらかにティーカップに着地し、ふわりと華やかな匂いをあたりに漂わせた。傍の上品な皿にはクッキーが気付かぬうちに盛られていた。
「ありがとうございます。」
わたしはクッキーを一口齧った。素朴な味が口いっぱいに広がって、自分でも唇が緩んでいくのが感じられる。
「さて、本題ですね。あなたがどうして、この場所にやってきたのか、ですけれど……。」
軽く目を伏せた後、館長はわたしの目をまっすぐ見て言った。
「私にも皆目分かりません。ごめんなさい。こんなこと初めてなんです。本当に、申し訳ありません。」
こればっかりはしょうがないだろう。ここで怒っても、わたしが家に帰れるわけではないし、疲れるだけだ。
「いえいえ、あなたがそこまで謝る必要はないですよ。だって、あなたがここにわたしを連れていたわけではないんですし。……そうですよね?」
「はい。私があなたを見つけた事情から話しましょうか。私は今日、博物館の企画展で展示するための花を採取しようとあの場所に向かいました。」
わたしはハーブティーを啜る。口で香りを感じるような、不思議な感覚だ。
「そこで、あなたが倒れていたのを見つけました。私、こんなこと初めてで、どうしたらいいか分からなかったんです。急いで戻って、いつものリュックサックに救急セットを詰めて、あなたの元に戻りました。」
「そして、目が覚めたわたしを見つけた、と。」
「はい。その通りです。」
物憂げな瞳が嘘をついているように、わたしには到底見えなかった。
「ですが、私に出来ることならなんでも致します。しばらくは私の技術を使って、あそこを解析してみます。それまであなたは、うちで暮らしてください。」
「そんなこと、できるんですか?というか、わたしは帰れるんですか……?」
「私には分かります。長年ここで暮らしてきましたから。絶対にあの状況は不自然です。それに、あなたを見つけた時、私は感じたんです。何かのテクノロジーの痕跡を。これは私の直感ですけどね。」
強い意志を感じる。しっかりしていそうな人だし、しばらくは「解析」とやらをお願いしてみよう。
「じゃあ、しばらく厄介になってもいいですか?お手伝いできることなら、わたしやります!」
「ええ、もちろん。できれば博物館の手入れ関係や受付をお願いしたいですね。」
「分かりました。」
こうして、わたしと館長の共同生活が幕を開けたのだった。
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「おはようございます、館長。」
「おはようございます。今日もいい天気ですね。」
郷での暮らしは今日で一週間になる。館長はここを「郷」と呼ぶので、わたしも郷としか呼ばない。具体的な地名は、聞いたことがない。
あそこで倒れていたわたしの所持品といえば服ぐらい。館長いわく、随分わたしが暮らしていた街からそれはもう離れているところらしい。スマートフォンは外と繋がらないのであまり使わないとのことだった。つまり、連絡手段は何もない。ただ、精密機械のようなものは、郷の技術で郷の中でだけ使えるようだった。
友人や家族に会えないのは寂しいけれど、帰るまでの辛抱だ。「解析」はどうやら無事に進んでいるようで、少しだけだけれど新たに分かったことが館長にはあるらしい。わたしは一度聞いてみたけれど、「これはあなたに伝えない方がいいと私は考えています」と言われた。知らぬが仏、ということなのだろう。
「今日も受付をお願いしたいです。大丈夫ですか?」
「もちろんです。わたしもだんだん慣れてきました。」
「それはよかったです。では、私は今日の採取に行きます。また。」
館長の姿が見えなくなった。わたしは大きく伸びをして、館長が用意してくれた制服を身に纏う。
そして、受付のカウンターに立った。ちりひとつないカウンターがきらりと照明を反射し、お客様を迎える準備ができたことをわたしに伝えてくれた。
しばらく過去に館長がまとめた日誌を眺めていると、ドアが開く音がして、お客様がやってきた。
「博物館へようこそ。」
「ええっと、1人です。」
不安そうな顔をした少女だ。たまに子供が来館する。たいてい親らしき人物は来ないので、初めて対応した時は面食らった。しかも、たまに大泣きしている。
「それでは、ごゆっくりどうぞ。」
観覧料は無料。どうやってこの博物館を回しているのか分からないが、おそらくは郷から補助金を出してもらっているのだろう。
わたしが開館中にすることは基本的にこれだけだ。あとは館長の過去の日誌を読んだり、植物の展示リストを眺めたりするくらいだった。お客様はほとんどがおひとり様で、そう連続して来ないので、暇をするわけではないが忙しいわけでもない。
植物の展示リストを眺めるのは面白い。展示されている植物はほとんどが知らないもので、チューリップとかバラとか、著名な植物はあまりなかった。
「観覧ありがとうございました。」
帰る人がいれば、声をかける。かけてから、また次のお客様を待つ。
「ただいま戻りました。」
そうこうしている間に、館長が戻ってきた。既に採取したものを裏に置いてきたようだ。
「そろそろお昼休憩にしましょうか。」
ここは小さな博物館だ。ずっと館長1人で運営していたので、勤務中にちょっとお昼を食べることくらいは毎日あったらしい。だから、受付係のわたしも食べても大丈夫。そう説明された。まあ、大抵は帰ってきた館長が受付をしてくれるので、わたしはカフェスペースに行って落ち着いて食べられる。
料理はいつも館長の手作りだ。今日はサンドイッチ。色彩豊かだ。
……美味しそうなのに、わたしはあまり食欲が湧かない。普通に会社でデスクワークしていた頃は、つい食べ過ぎていたくらいなのに。あまり動いていないからかな。
それが、わたしのささやかな最近の悩みだ。
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「今日はもう閉館ですよ。お疲れ様です。」
「え、もうそんな時間ですか?」
既に夕日が顔を出している。わたしは受付カウンターから出た。
「今日はわたし、やることありますか?」
解析のため、わたしは彼女に謎の機械で検査されている。正直何が何やら分からないが、大人しく従っている。
「今日は大丈夫です。その代わりに、あなたの1番好きな植物を、ここに書いて欲しいんです。現実になくてもいいんです。理想の植物、みたいなものでも。」
「好きな植物を?」
「はい。私が興味があるだけですよ。次回の企画展を、そういうものにしようと思っているので。」
「なるほど。」
わたしは近くの椅子に腰掛けて、スケッチブックと色鉛筆を受け取った。
「絵、お上手なんですね。突然だったのに、ありがとうございます。」
「わたし、美術部だったんですよ。だから絵は得意なんです。あ、植物も大好きですよ。学生時代は、よく週末にホームセンターに行ってたっけ。まあ、社会人になってからは、植物を育てる余裕なんてなくなったかな。」
ひたすらわたしは手を動かす。すぐ隣から聞こえる、館長の声が心地いい。
「あなたが植物が好きでよかったです。大好きなものにまつわる仕事ができるなら、少しは精神的に楽でしょうから。」
「ですね。」
ちらりと横を見れば、館長はうつむいている。どこか苦しそうな気がして、わたしはどきりとする。
「あの。館長は、学生時代は何をしていたんですか?」
なかなか館長は自分のことを話さない。わたしのことをたくさん聞いてくるのに、だ。
「もっと聞かせてくださいよ、館長のこと。博物館を始める前のこととか。」
館長は思い詰めたかのように黙っている。
「……私の話なんて、聞いたって面白くないですよ。そうだ。スケッチブックの花、実はレプリカとして再現できるんですよ。手触りもなるべく野生の植物に合わせられますし。」
「そうなんですか!?」
わたしは話を逸らされてしまったのを分かっていた。それでも、わたしは今日、それ以上詮索することはなかった。
「昔のことだって、どうだっていいじゃないですか。私の今が幸せなら。」
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共同生活はこれで一ヶ月。わたしの体に、異変が起こっている。
わたしの頭がおかしいのだ。
ここに来る前のことが、あまり思い出せない。任されていた仕事。ハマっていたもの。友達と出かけた場所。全て朧げだ。
なぜ。どうして。わたしはぐるぐると考えているうちに、嫌な可能性に引っかかった。
いや、それは失礼な気がする。だってわたしは、この場所で新しい思い出をたくさん作ったから。
「……どうかしたんですか?」
「はい!?」
「ずっと呼びかけているのに、あなた、ぼうっとしてました。どこか体調が悪いんですか?」
「まあ、少し頭が痛くて。」
「そうなんですか。今日はこれ以上人が来ることはなさそうでしたし、どこか郷のお店でも回ろうと思ったんですけど……やめた方が良さそうです?」
「いや、大丈夫です!」
あまり不安を悟られたくない。わたしは平静を装って、館長に笑いかけた。
「今日はどこに行きます?昨日は雑貨屋を見ましたよね。何か食べますか?まだ行ってないレストラン、あるんですよ。」
「ごめんなさい。わたし、お腹が空いてなくて。」
満腹度は朝からずっと一緒。何も飲食していないのに、わたしは平気だ。食欲だけじゃない。睡眠欲だってなくて、最近はどんどん眠る時間が短くなっている。それなのに頭は冴えている。絶対に、おかしい。
「そうなんですか。じゃあ今日は、また湖の辺りを散歩しましょうよ。」
話す館長は、満面の笑みを浮かべていた。
わたしの元の場所に戻すための研究の報告は、もうほとんどない。
思考がぼやけていく。勝手に、今日のお出かけプランの話に持っていかれる。
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今日で、2ヶ月。
おかしい、おかしいと思いつつも、言い出せない日々が続いた。わたしの体はわたしの知るものからはどんどん遠ざかっていった。
それなのに、館長や郷の人と過ごすのは楽しくて。
みんな朗らかな人だから、わたしが来る前にしていた「理不尽な上司に対して怒る」なんてこともなくて。ひたすらに平穏な暮らしだった。たまに、帰らなくてもいいかなと思うくらいに。
……そんな、ある日のことだった。
「受付さん、すごく楽しかったよ!」
「本当?それはよかった。」
きゃっきゃとはしゃぐ少年が、わたしに話しかけてくる。
「ありがとう!受付さん、ここの名前教えてよ!あと受付さんの名前も!受付さんだけだと変だよ。帰ったらママに伝えるんだ。ママ、に……。」
少年は涙目になる。わたしは彼を慰めようとして、この博物館に名前がないことを伝えようとして。
気づく。
わたしの名前って、なんだっけ。
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「館長。」
「……どうかしましたか?」
わたしたち2人だけになった博物館で、わたしは館長と対峙する。
「あなたは、何を隠しているんですか?」
「隠している、とは?」
館長はいつも通りの凪いだ瞳をしている。
「わたし、あなたに言いましたよね。記憶が曖昧だって。そうしたらあなた、おそらく知らない場所に来たストレスのせいだから、気にするなって。言いましたよね。」
黙っている。
「わたし、食欲も睡眠欲もないこと、あなたに言いましたよね。」
微笑んでいる。
「わたしはもう、わたしの名前を思い出せません。」
ただそこに立っている。
「あなたは、あなたは何を隠しているんですか?ここは、どこなんですか?わたしは、どうなってしまったんですか?」
まっすぐ立っている。
「あなたは、あなたたちは一体、なんですか?」
わたしは見据える。
「館長。」
わたしは。
「ねえ!」
口を開くのがわたしは見える。
「あはは、もう限界ですね。」
乾いた笑い声だった。
「わたしを帰してください。わたしを、返してください。戻してください。お願いです。お願い、だから」
「わたしをこれ以上、消さないで。」
「……ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。」
館長は、地面にへたり込んだわたしの手を取る。
「あなたのこと、私が責任を持って、帰します。こんなこと、最初からしちゃいけなかった。私が間違ってました。あなたを帰すための解析なんて、要りませんでした。ごめんなさい。」
わたしは、その言葉に何も返すことができなかった。
出発は、今すぐに。
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「この川を渡ればいいんです。渡れば、あなたは戻れます。」
わたしたちはボートに乗っていた。真夜中の静けさがわたしたちを包んでいる。
「こんな奴の言葉、信じろっていうのはおかしいかもしれませんね。」
「……わたしは、信じたかったんですよ。たぶん。」
「どうしてですか?」
「信じるものがないと、不安になるから。それにわたし、館長と気が合うなって思ってたから。」
「そうですか。」
無言で、わたしたちはボートを進ませている。載せられたランタンが揺れて、幻想的にオールを照らす。
「あなたは前に、わたしが博物館を始める前のことについて訊きましたよね。」
「はい。」
郷に来る前の記憶は霞がかかっているけれど、来てからの記憶は怖いくらいに鮮明だ。
「少しだけ、身の上話をさせてください。」
わたしは頷く。館長はそれを見てから話し始めた。
「私、子供の頃から植物が大好きだったんです。気づいたら好きになっていたんです。私が愛情を持って育てれば、植物たちもぐんぐん育っていく。花や実をつけるのが楽しみでしょうがなかった。」
段々と、それは館長の独り言のようになる。
「でも、私は成長して、いろいろなものを見なくちゃいけなくなりました。好きなものも、嫌いなものも。好きなものを、否定するものも。」
わたしは館長の顔を直視できなくなって、川面を眺める。
「好きだけ見ていたかった私は、ここに来る方法を模索しだしました。それで、ようやく訪れられたんです。この理想郷に。あまり褒められた方法ではありませんでしたから、私は大きな力によって、ここで働かなくてはなりませんでした。」
わたしは館長にもう一度視線を移す。穏やかな顔をしている。
「でも、それは幸せなことでした。好きなもので、誰かに最後の思い出を届けることができたんですから。しかし、私は欲張りなんです。」
わたしは館長から目を逸らすことができない。その綺麗な瞳を、オールを漕ぐ手を止めて見てしまう。
「どこかが、欠落していた。それを、あなたが埋めてくれた。」
館長もオールを置く。
「私、ここに来てから初めてなんですよ。誰かと関係ができたこと。」
館長の声が湿気を帯びて、必死に堪えてきたものが壊れそうになって。
わたしは、その手を握った。冷たかった。弱々しい力で、握り返された。
「わたし、楽しかったです。友達と話す時間は、誰だって楽しいものだから。」
「私も、です。私も楽しかった。」
わたしたちのボートは、終わりに向かって進んでいる。
「私は早まりすぎたのかもしれません。」
この時間の終わりが見えた。
ボートは滑らかに船着場にたどり着いて、わたしはゆっくりと川岸に足をつけた。
「その先に門が見えるでしょう。門番が立っているでしょう。話しかければ、きっと対応してくれます。」
わたしは振り返る。館長は手を振った。わたしも、振り返した。
「また、会えますか?」
わたしは堪えられずに言った。館長は、大きく目を見開いて、目を細めた。そして、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「しばらくは会わなくていいですよ。ただ……ずっと先なら、会える気がします。」
わたしは歩きだした。遠くにある、門を目指して。もう館長が嘘をついている気はしなかった。
わたしは叫んだ。
「さようなら!さようなら、館長!」
館長の姿は、もう見えない。
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わたしは飛び起きた。全身の痛みで、すぐに倒れ込んだけれど。
「起きたのね!?」
聞き馴染みのある声。
うまく声が出せない。わたしは今、どうなっている?
「なんでずっと眠ってたのよ、お母さん心配したでしょ……。」
眩しかった視界は落ち着いて、ここが病院のベッドの上であることがなんとなく分かった。
わたしは泣き出すお母さんの手を握る。温かくて、安心する手。
……医者がやってきた。わたしはあれよあれよという間に、治療を受けることになった。
個室を出る前に、ふとサイドテーブルをわたしは見た。
わたしの一番好きな花があった。それから、「渡し忘れていました」と、几帳面な字で書かれたメモが添えられている。わたしには全く、心当たりがなかった。
その花は、なぜかずっと枯れなかった。