公開中
第8話:遠い目、あるいは焚石の残響
「……あ、おい茉莉! またペンが止まってるぞ。非効率なんじゃねーのかよ」
風鈴高校の屋上。桜の声に、蒼はハッとして手元の参考書に目を落とした。
「茉莉塾」の最中だというのに、彼女が「演算」を忘れて虚空を見つめる回数は、ここ数日で明らかに増えていた。
「……別に。日射角度による視覚情報のノイズを解析してただけ。……桜、あんたはここの因数分解、三回連続で間違えてる。……脳の再起動が必要?」
「んだとテメェ! 普通にぼーっとしてただろ!」
いつもの言い合い。けれど、傍らで見ていた蘇枋の目は笑っていなかった。
蒼の視線の先――それは、この街の境界線の向こう、あるいは、数年前の「過去」を見ているように見えたからだ。
その日のパトロール中、街の空気がざわついていた。
「……聞いたか? 多聞衆のナワバリの端で、獅子頭連の残党がまとめてノされたらしいぞ」
「あぁ。犯人は一人。風みたいに現れて、一瞬で全員の関節を外して消えたって……」
その噂を耳にした瞬間、蒼の足が止まった。
指先が微かに震え、呼吸の音がわずかに鋭くなる。
「(……関節の外し方。……無駄のない足跡。……演算するまでもない。あいつらが見たのは、私の知っている『風』だ)」
「……蒼? 顔色が悪いよ」
蘇枋が心配そうに覗き込むが、蒼はそれを撥ねのけるように歩き出した。
「……何でもない。ただの、非効率な噂話。……先に帰る」
「蒼!」
呼び止める蘇枋の声を背に、蒼は一人、あの神社へと向かった。
中2の冬、焚石と最後にお参りした場所。
「……動くな、と言われた。あの日から、私はずっとここで、あなたの『動け』を待ってる。……バカみたい。非効率の極み」
蒼は神社の階段に座り込み、膝を抱えた。
自分の名前、茉莉花(ジャスミン)。
その花言葉の通り、自分はまだ「あなたについていく」という呪縛の中にいる。
その時、背後の森から、カサリと乾いた葉の音がした。
蒼の全細胞が、かつての「恐怖」と「歓喜」を同時に思い出す。
「……演算……不能。……心拍数、計測限界突破」
振り返った蒼の瞳に映ったのは、夕闇に溶けそうな、けれどあまりにも鮮明な「師匠」の影だった。
🔚