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雪が降る日に想い出のメロディを奏でて
「…本当に、行ってしまわれるのですか?」
白い息を吐いて、琴はそう言った。着物の下で肌がぶるっと震える。真っ白の空を、汽車の黒い煙が塗りつぶす。程なくして、雪がしんしんと降ってきた。
「あぁ。もう後戻りできないからね。…必ず、会いに戻ってくるよ。」
そう言って帽子を被り直し、あの人はふっと笑った。その顔は何処か寂しそうで。息が冷たい空気に紛れ込んで、白く染まる。
まもなくして、汽車は耳障りな音を奏でた。またね、と言わんばかりに、彼は手を振って汽車に乗り込んでいった。
汽車と共に、あの人は遠ざかってゆく。雪が手に当たって冷たいのも忘れて、琴はあの人のことを想う。
なぜ、汽車は彼を連れてゆくのだろう。どうして、私から幸せを奪ってゆくのだろう。嫌だ、行かないで。冷たくて苦しくて、胸をキュゥっと縛りつけるような感情が、一気に押し寄せてくる。
もうちょっと、厚着してくればーーー、この苦しさも、少しは癒えたのだろうか。
何年経ったか、あるいは何年も経ってないのか、彼がいない日々なんて、数える必要もなかった。約束したはずなのに。必ず会いに戻ると。
戦争はもう何日も前に終わって、帰ってきてもおかしくないはずだった。あれからは毎日雪が降り積もって、あの日のことを思い出させる。
「…もう、帰ってこないのね…」
そっと諦めたような顔を浮かべ、冷めたご飯を口に運んだ。味はしなかった。
そっと郵便箱の中を覗き見る。いつもと変わらない日常を繰り返す。何かが欠けた普通の日々。まだ雪はしつこくしんしんと降りづける。
「…寒い」
何年か前。あの時も冷たい雪が降って、寒かった。でも彼が後ろからそっとかけてくれたマフラーが暖かくて、体も心も満ちていくのだ。
ふと、後ろを振り返る。誰もいない。あるのは彼と住んできたはずの小さな家。
カサ、の手の中で紙が音を立てた。何かと思って見ると、
「ピアノコンサート…」
丁度いい。今の凍りついた心に少しでも響くような、そんな音を聴きたいと思った。昔から琴は音楽が好きで、あの人と出会えたのもピアノがあってのことだった。
「行って、みようかしら」
琴はその紙を優しく握りしめて、家の中へ戻っていった。
会場に人々の雑音が響き渡る。そんなノイズはもう琴の耳には届かない、今日はピアノの音だけを聴きに来たから。ふと、眼の中に再会したであろう幸せそうな夫婦が映ると、より一層琴の心は冷たくなっていく。あの人たちの心は暖まって、幸せなんでしょうね。そう思うと、なんとも言えない感情が琴を襲う。
冷たい、冷たい。寒くて、凍えそうだ。ピアノの音が会場に響いても、琴の心には響かなかった。もう、帰ろう…。そう思って席を立とうとした時。見覚えのある顔が、舞台裏から出てきて一礼をする。
「…え?」
その人が弾いた、「戦場のメリークリスマス」。寂しいメロディで、どこか暖かな優しさがこもった綺麗な音色。今までの何よりも、琴の心に響き渡った。いつしか、彼が琴のために弾いてくれた、あの曲。
「どうして…。…貴方、貴方なのですか?」
ぽろぽろと涙が溢れる。どうしてこんなところに、そんな疑問よりも、あの人を見つけられたことが何よりも嬉しくて。ピアノの暖かな音色が何よりも凍りついた心を溶かして。
演奏が、コンサートが幕を閉じる頃、琴は誰よりも早く席を立ち、舞台裏へと向かっていった。丁度あの人が、会場から出てきた頃だった。深く降り積もった雪が、琴の行手を邪魔してくる。でもそんな事はどうでもよくて。あの人に会いたい、ただそれだけだった。
あの日の汽車の音が、頭の中にこだまする。苦しくて、悲しくて、冷たかったあの日の別れが、鮮明に思い出される。
「ーーー貴方っ!」
ふわっ、と彼に抱きつく。間違いない。あの人だ。琴が何よりも愛した彼。誰よりも会いたかった彼。
「どうして、今まで…。いや、帰ってからゆっくり話しましょう。よかった…本当に良かった。」
涙を浮かべながら、琴は嬉しそうに彼と話をしようとした。ーーーでも。
「…すみません、私はどうやら戦争で記憶を失ったそうなのです。貴方が誰なのか、私はわからない。けれど、貴方が凄く大事で、守りたい人なのは…分かる気がします。」
あぁ。汽車は、あの人との思い出と記憶を奪っていったようだ。けれどなぜか、割れるはずの琴の心は…暖かい気持ちでいっぱいで。
たとえ貴方が私を忘れたとしても。貴方はここに戻ってきてくれたのだから。
ただそれだけなのに。
ぽたぽたと、降り積もった雪の上に涙が落ちる。それが貴方に出会えた嬉し涙なのか、はたまた貴方が私のことを忘れた悲し涙なのか…それは誰にもわからないけど。
琴の凍りついた心と共に、雪が溶けてゆく。
「…貴方にまた会えて本当に良かった。戻ってきてくれて…ありがとう。」
その日から、雪は止んだらしい。