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さよならの一杯
僕が死ぬまで後3日。正確に言えば、世界が終わるまで後3日だ。死と薄暗い影が、もうそこまで迫っていた。
--- さよならの一杯 ---
「速報です。謎の巨大隕石が発見されてから約1週間が経ちました。研究所が調査を進めたところ、3日後には衝突するとの調査結果が出ました。」
アナウンサーが手元の資料を見ながらそう伝える。
「中継です。現場の宮田さん。」一瞬のタイムラグの後、画面は違う景色を映し出した。灰色の冷たい影が落ちていて、人の気配は全く見当たらなかった。
「はい……こちら新潟県山間部です。ここは世界で一番隕石が大きく見える場所です。見上げると、信じられないほど大きな隕石があります…。今にも落ちてきそうな圧迫感ですね…。」
「そうですね…。今各地で犯罪、殺人、自殺が多発しており、警察は対応に追われ」
テレビは真っ黒な画面に切り替わった。こんなニュースなど見ても無駄だ。今テレビやネットニュースはこの話題で持ちきりだ。どうせ隕石について議論したって、返ってくるのは絶望だけ。今更どうにかできるはずもない。僕はソファーから立ち、ドアの先のキッチンへ向かった。
最近は客が少なかった。昨日から客は1人もいない。無理もない。世界の終わりが近づいているというのにいつも通りを守るなんて馬鹿はここにしかいないと思う。僕はいつも通り綺麗に真っ白のコーヒーカップを磨いていた。どれだけそうしていただろうか。流石に手が疲れてきた頃、ドアのベルが鳴った。ありえないはずの来客だった。
「いらっしゃいませ。」
「はるくん!!!」
扉をものすごい勢いで開けたその客は、食い気味で誰かの名前を呼んだ。肩で息をしながら立っているその人は、髪は白色で耳らへんで無造作に切ってあり目は吸い込まれそうな瑠璃色をしていた。裸足で服も髪も乱れていた。
「失礼ですがお客様、今この喫茶店にはあなたと僕しかいませんよ」
「もーー知ってる!!ボクはキミに会いにきたの!!はるくんってのはキミのこと!」
頬を膨らませながらその少年は言った。
「僕の名前ははるかです。そして僕をはるくんと呼ぶ人はいません。」
「相変わらず冷たいな。ボクのこと、分かんない?」
少年は急に近寄ってきてカウンター越しに背伸びし、僕の胸ら辺に手を当てながらそう言った。
「わかりません。どなたですか。」
見下ろしながら言い放つ。
「はるくん、飼い猫の名前は」
試すような笑顔を浮かべながらにやにやとこちらをみてくる。少年はカウンター席に勝手に座った。
「ハクです。死にましたけど。」
するとさっきまで笑顔だった少年は急に真顔になった。見透かすような目。不気味に感じる声。
「うん。それボクね。」
そんな事あるわけがないだろう。似ているところなんて髪を目の色しかないし、そもそも猫が人間になるなんて御伽話でしかない。ハクは死んだ。それ以上でも以下でもないし、死んだことに対する救いなんてないと思う。でももしほんとにハクなら……
「信じてないでしょ…?」
眉尻を下げて顔を覗き込まれる。
「ボクに質問して良いよ。」
「ハクのすきな食べ物は」
「煮干し」
「好きなことは」
「寝ること」
「お気に入りだったおもちゃは」
「サメのぬいぐるみ」
「……僕がいつも話しかけていた言葉は」
「うーーん難しいなー、でも毎日おはようとおやすみは言ってくれてたよね」
これは、まぐれなのだろうか。
「どう、信じてくれた?」
「ここまで合ってたら疑える筈がないじゃないですか。」
「ふふ、良かった。あ、ミルク頂戴」
「ちゃんとお金払って下さいね。」
「薄情な。ボクお金無いよ」
ハクは両手をぱーっと広げて困った顔をする。仕方ない奴だ。
「お願い、どーしてもミルク飲みたくて」
上目遣いでそう言うこの猫に僕は大きくため息をついた。自然と口角が緩むのを感じる。全然変わってなくて、良かった。
「仕方ないですね。今回だけですよ」
「やったー!!!!はるくんすきだよ!!」
僕はわざと顔を顰めた。
「やめてその表情で語るやつ。キモって思ってんのバレバレでちょっとボク傷つくから。」
湯気を立てているミルクを差し出した。隣にはコーヒーも置く。
ハクはミルクをじっと見ながら顔を顰める。
「ねえこの薄い膜?イヤなんだけど。」
ハクはミルクに張った薄い膜をツンツンしながらそう言った。
「子供みたいなこと言わないでください。」そう言いながら銀色のスプーンを取り出して膜を取り除いた。
「ボク一応キミより年上なんだけどね!!もう!!」
そう言いながらハクがカウンターの上に登ってミルクを飲み始める。
「カウンターの上乗らないでください。汚れるでしょ。」
「ケチ。なんか前もよくそうやって怒られてたよね、ボク。あとはるくんって昔から潔癖だよねえ。」
ため息をつきながらボソボソ文句を言っているハクを抱えてカウンターから降ろす。
「なんか、猫みたいですね」
「一応猫だからね、性格ははるくんのほうが猫っぽいと思うけど。」
「どういうことですか。」
「不器用な優しさとか人との距離感とか、なんか猫っぽい」
僕は聞いてないふりをしてコーヒーカップを磨き始めた
「ねえ??ため息ついてばっかじゃない?ボク説明したんだけど聞いてた???」
いつの間にか青空は夕焼け色に染まっていた。残り少ないコーヒーはもう冷めていた。ミルクが入っていたはずのカップはもう既に空だった。
「今日はいっぱい話せて楽しかったね!!明日も来るからね!」
「来なくて大丈夫です」
目を瞑りながらそう言った。
「あ、ひどい。まあ残された時間はボクもはるくんも少ないから、有意義に過ごしてね」
そう言いながら振り向き、光が差し込むドアに手をかけて外へ行ってしまった。夕焼けの中、一人で歩くハクの背中は少し寂しそうに見えた。
***
視界は赤色に染まっていた。メラメラと炎が揺れている。今迄嗅いだことの無いような焦げ臭い匂い。息を吸う度に、肺が空気を拒んでいるような気がした。おかあさん、おとうさん、と何度も何度も呼んだが、返事はなかった。人の悲鳴や泣き声が聞こえる。目の前で家が崩れ落ちた。しばらくそこから悲鳴が聞こえていたが、それはやがて小さくなっていった。僕はその場に呆然と立ち尽くすことしかできなかった。寒いわけないのに手が震える。熱い熱い炎が、迫ってくる。
「おい!!向こうに猫が取り残されてるぞ!!鳴き声が聞こえる!!」
にゃー。
僕はその弱々しい鳴き声を聞いた瞬間、走り出していた。走っている途中でいろんな事を考えた。もしかしたら猫はいないかもしれない。もう死んじゃってるかも。僕も助ける途中で死んじゃうかもしれない。いろいろ考えたけれど、走る足は止まらなかった。
燃え盛る家をしばらく探すと案外早く見つけることができた。煤で汚れてはいるが、もともときれいな白居毛並みだったことがよくわかった。小さな白い猫は小刻みに震えていた。僕とおんなじだ。僕はその猫の手を取ってしっかりとにぎった。
「大丈夫。安心してね。僕がいるからね。」
綺麗な瑠璃色の目が僕を真っ直ぐに見た。
***
世界滅亡まであと2日。喫茶店の外から見ると、明らかに隕石が近づいていた。朝だというのに、隕石のおかげで少し辺りには暗い影が落ちていた。
カラン、とドアのベルが鳴った。
「いらっしゃいませ。」
僕は、白色のコーヒーカップに目を落としながらそう言った。今日もまたコーヒーカップを磨いていた。
「おはようはるくーん!僕の為に店を空けててくれてたのかニャ??」
「おはようございます」
ハクはにやにやしながらこちらへ近づいてくる。
「向こうのお席へどうぞ。」
「え、遠くない??遠ざけてるよね?傷つくよ?」
「はい。」
僕はあたたかいミルクを入れながら言った。ハクはひどいなあとか呟きながら僕の目の前のカウンター席に腰を掛けた。頬杖をつきながら何処かを見つめていた。何かを考えているようだった。
「ホットミルクです。どうぞ。」
既に薄い膜は取り除いておいた。ミルクが少し付いた銀色のスプーンがキッチンに転がっている。
「あ、うん。ありがと」
ハクはホットミルクの方を見なかった。そのまま何処かを見つめていた。基本にこにこしていて能天気だからか、真剣な顔は余計に冷たく見えた。
「冷めますよ」
「あ、あぁ。え、ミルク用意してくれてたの!?分かってるねーーはるくん。僕のこと好きなのかニャ?なーんちゃって…あ、はるくんっていつも飲んでるそれ、なに?」
明らかに様子がおかしかった。べらべらと喋っているが心は何処か別のことを考えているようだった。
「ブラックコーヒーです。苦いですよ。」
「こーひーかあ!!じゃあ、最後の日はいっしょに飲もうね」
「…はい。」
暫くの間、沈黙が流れた。ハクはずっと上の空だった。
「ねぇ、はるくんは逃げないの?」
最初に隕石が衝突するのは日本だ。人々は少しでも生きるためにブラジルへと移動しているらしい。そんな事をしたって無駄だろう。
「逃げませんよ。どうせ助からない」
「助かるよ。」
瑠璃色の瞳が真っ直ぐと僕を見つめた。僕はなんとなく目を逸らす。
「ブラジルの、とある場所に行けば、助かる。」
「じゃあ君だけ逃げたらいいじゃないですか」
コーヒーカップを磨きながらそう言う。
「まあ、ボクは助からないからサ」
もう一度目を合わせると、ハクは笑っていた。
「なんで」
「ボクは神様に3日の猶予を与えてもらったんだ。キミを助けるために。こんなこと言ってもキミは信じないよね、こういうの」
「じゃあ一緒に死にましょうよ。」
ハクは目を見開いた。綺麗な瞳が揺れる。
「駄目だよ」そう言いながらハクが小さく呟く。
「ボクははるくんを助けに来たんだよ。死んでほしくない。」
はあ、と僕はため息をついた。コーヒーカップをキッチンに置く。
「僕はハクと一緒にいたいです。死ぬとしても。ハクを一人にさせる気は無いよ。」
ハクの瞳から大粒の雫がこぼれ落ちる。それは、もう止まる気配は無かった。
「何泣いてるんですか」
冷たく言い放った。
「泣いてない。」
「泣いてます」
「泣いてないって」
「泣いてますって。」
大きくため息をつく。
「ねえ、はるくん」ハルが一緒懸命涙を拭いながら言った。
「なんですか。」
「ボクを助けてくれて、ありがとう。ボク、あの火事のとき凄く怖かったんだよ。」
もうとっくに冷めてしまったミルクのカップを手で包みながらそう言った。
「震えてましたもんね。」
僕はコーヒーを一口啜る。
「よく覚えてるね、はずかしいんだけど。」
「知りません。てかいい加減泣き止んだらどうですか。」
「はあ!!薄情だね!!慰めてくれてもいいんだよ!?」
ハクはそう言いながら伏せた。伏せながら泣いて震えているハクが、あの時のハクに見えた。赤い炎の中の白い猫を思い出す。僕は思わず頭を撫でた。
「あったかい」
泣きながら満足気にわらっていた。僕も自然と口角が緩んでしまう。
「ハク、僕に会いに来てくれてありがとう。」
「そんな事言われたら余計泣くでしょ!!ばか!はるくんのばーか!!!!」そう言いながらハクはカウンターにのぼり始める。そこで座ってミルクを飲み始めた。
「だから。カウンターの上のぼらないでくださいって」
「ケチ。バカ。アホ。」
「ほんとに何処でそんな言葉覚えたんですか。」
抱えて降ろしながらそう言う。
「はるくんよく言ってたじゃん。」
「…言ってない」
「言ってた」
「言ってない」
「言ってた!!」
窓の外はもう既に暗くなっていた。淹れたコーヒーも既に空だった。
世界滅亡の朝。隕石はもう信じられないほど近づいていた。今にも落ちてきそうだった。大きな大きな岩は太陽の光を遮り、冷たい影を落としていた。
外でなんとなく隕石を見つめていると曲がり角から少年が近づいてきた。白い髪。瑠璃色の目。乱れた服。
「はるくん!」
「おはようございます。」
僕はそう言いながら店のドアを開け、ハクを中に入れた。ハクは当たり前のようにカウンター席に座った。
「ブラックコーヒー。2人分ね。」
「かしこまりました。」
僕は既に淹れてあったコーヒーをハクの前に差し出した。白い湯気がもくもくと出ている。
後ろを振り向いてシュガーを取ろうとした瞬間右手に当たって白いティーカップが落ちてしまった。ティーカップは音を立ててパリンと割れてしまった。
「はるくん大丈夫?ケガない?火傷とかしてない?」
「大丈夫です、空だったので。」
そう言いながら余っていた紙袋のなかにガラスの破片を入れた。ハクはずっと窓の外を見ていた。片付け終え、2人で一緒にコーヒーを飲んだ。きっと、これが最後の一杯だ。
「苦くないですか」
「苦い、けど嫌いじゃない」
ハクのコーヒーカップを握る手が震えていた。きっと、寒くて震えている訳では無いだろう。
何処かで地響きがして、微かに窓ガラスが揺れた。
「もうこれで最後かあ」
「そうですね。」
コーヒーカップを握り目を瞑りながらそう答える。
「はるくん、一緒に居てくれてありがとう」
ハクの声が涙で震えていた。涙が頬を伝ってもハクの笑顔が壊れなかった。視界が滲む。テーブルに雫が落ち、そこで初めて僕が泣いていることに気がついた。怖くなかったはずなのに。
「もーー泣かないでよ」
「ハクも泣いてるくせに。」
ハクはコーヒーカップを握る僕の手をそっと包んだ。火事のときの感覚が蘇ってくる。
「大丈夫、安心してね。ボクがいるよ」
そう言ってハクは僕に笑いかけた。
--- “大丈夫、安心してね。僕がいるからね” ---
懐かしい言葉だ。窓の外が白く光った。凄い音を立てはじめる。僕はカウンターを飛び越え、ハクを抱きしめた。カウンターが汚れるなんてことはもう気にしていなかった。
「いやだよ、行かないで」
「大丈夫。ボクはここにいるよ」
2つのコーヒーカップがカタカタと揺れる。電球も揺れていた。振動でコーヒーが少し飛び散った。
「また、コーヒー飲もうね。今度は笑って飲もう」
「うん……うん。」自分でもびっくりするほど弱々しい声でそう答える。ハクの身体がだんだん薄くなっていく。
「大好きだよハク」
「ボクもだよ」
ハクの服だけが残った。ぎゅっと抱きしめる。だんだん振動が大きくなり、気温が急に高くなった。そっと目を瞑る。もう手の震えは収まっていた。
最初からさよならが決まっていたとしても、この一杯は温かかった。