公開中
あなたを探して ── look for you ──
1
「なんで殺したんだよ! 俺が連れて帰って飼おうと思ってたのに」
「|悪《わ》りぃ」
|海堂《かいどう》|渉《わたる》は、軽く笑って頭を掻く親友――|遠《えん》|田《だ》|遥《はる》|己《き》を睨みつけた。
「俺のカマキリが腹空かせてそうだったからさ」
悪気は全くないようで、遥己は屈託なく笑った。
渉が語気を強める。それは、遥己がやったことへの怒りではなく。
「遥己、どうしちゃったのさ。前はこんなやつじゃなかったでしょ」
前はむしろ逆の立場だった。
渉が生き物を何も考えずに弄び、遥己がそれを止める。そうするうちに渉も生き物を弄ぶことをやめ、一緒に昆虫採集を楽しむ仲だった。なのに、
「俺だって変わるさ」
斜めになった日が、遥己の顔に影を落とした。
何があったのかと渉の思考が止まり、その隙に遥己が歩き出す。
追いかけようとした渉は、その背中にどうしようもない拒絶を感じて立ち尽くした。
「どうしてさ!」
聞こえなくても構わない。そんな思いで放った一言は。
「……」
渉に背を向けて歩き続ける遥己には、届かない。
――五年来の親友の友情は、今を以て打ち砕かれた。
2
一週間後。
渉は教室の机に突っ伏した頭を上げ、斜め後ろの席を見た。
誰もいない。一時間目が始まる前だというのに、遥己はまだ来ていなかった。
「今日も休み……」
渉が弱々しい声で呟いた。
これで、遥己が休み始めてから一週間が経つ。
明日学校に行けば、夏休みだ。それまでに渉は遥己と仲直りしておきたかった。
今でさえきっと会うと気まずくなるだろうに、夏休みが明けたらどうなることか。
(明日学校が終わったら、謝りに行こうかな)
そう思って、また寝ようとした時だった。横を通る奴の話が聞こえたのは。
「遠田、引っ越すんだってよ」
「らしいな。手紙でも書いて、明日渡そうか」
「海堂は寂しがるだろうな」
本人が横にいるというのに、隠す気のない大声だった。渉が静かにしていて、あちらは気が大きくなっていることも関係しているのだろうが。
(嘘だろ? 遥己は俺に何も言わなかった)
動揺のあまり、バランスの悪い机を音を立てて揺らしてしまう。
渉の存在に気がついた三人組は、ばつが悪そうに早足で遠ざかった。
(|親友《俺》には何もなしかよ。クソッ)
あんまりじゃないか。たった一度、言い争ったぐらいで。
(別れの言葉ぐらい、言わせろよ)
それに、遥己に謝らなければならない。言い過ぎたと。
渉には謝罪を先延ばしにすることもできた。けれど、引っ越すと言ってその選択肢を潰すのだから、遥己はずるい。
チャイムが鳴り、教室中が慌てて席につく。その三秒後、教科担任が教室の扉を開いた。
「姿勢! 礼!」
「「お願いします」」
学級委員の号令に合わせ、四分休符を挟むのろのろとした礼をした。
座ると同時に、渉は教科書も開かず机に伏せる。
(あいつらは、明日遥己に会いに行くのか。仕方ない。俺は今日行こう)
そのまま、渉は心地良いとは言えない夢の世界へ旅立った。
3
「マジっすか。遥己が家にいないなんて」
放課後。渉は紙袋を持って遥己の家を訪ねたが、遥己の母に「いない」と告げられた。
「あの子に用があるのかしら? 言ってくれれば伝えるわよ」
その申し出に、渉の目が揺れた。視線が、遥己の母の目と紙袋を行ったり来たりする。
(任せたら楽だろうな)
気まずいのを我慢して、直接遥己と顔を合わせないで済むのだから。
「……いえ。自分で伝えたいので」
渉は、自分の中の甘い|囁《ささや》きを振り切った。
謝罪は、相手の目の前でやらないと意味がない。
「そう。じゃあ、私から一つ」
帰ろうと踵を返した渉の背に、遥己の母から言葉が投げかけられた。
「いつも遥己と仲良くしてくれてありがとうね。おかげで遥己、毎日楽しそうだった」
渉の心臓が跳ねた。
(とんでもない。お礼を言うなら俺だって)
しかし、それを口に出すことは|憚《はばか》られた。
それを言うのは今じゃない。
渉は返事の代わりに手を挙げ、歩きだした。
角を一つ曲がり、遥己の家が見えなくなったことを確認する。渉は紙袋の中身も気にせず、そこからわっと走り出した。
緑色に点滅する信号を駆け抜ける。右折してきた車が、ブレーキをかける音がした。
遅めに下校する下級生の列を横切る。紙袋が顔に当たってしまいそうだった。
交差点に飛び出す。なんとなく、車はいないという確信があった。
川沿いに出て、土手を駆け下りる。草に足を取られて、顔面からこけそうになった。
河川敷に座り込み、紙袋の中身をそっと取り出した。虫かごだ。中には赤い蜻蛉が一匹きりでいる。
遥己は、強くてかっこいい虫が好きだった。カマキリとか、蜻蛉とか、カブトムシとか。
カマキリはもう持っているだろうから、赤くて綺麗な蜻蛉を、仲直りの印に。
――そう思っていたのだが。
「まさかいないとはなぁ」
そう、川に向かって独りごちる。
家にいないなら、ここにいると思った。ここはこの辺りでいちばん、虫の種類が多いから。
ここじゃないなら、どこにいるだろうか。
渉は数分間考え込み――その後、力なく首を横に振った。
(ダメだ。分からない)
渉が遥己と遊ぶ場所と言ったら、ここしかなかった。遥己がいそうな場所は、ここ以外心当たりがない。
虫かごを紙袋に入れ、立ち上がる。
取り敢えず、ここにいてもどうにもならないことは分かった。
川岸に近づき、ため息と共に平たい石を一つ拾う。
「やってられないよ」
そのまま腕を大きく振りかぶり、石を川に向かって放り投げた。
石は勢いよく水面に着地し、跳ねることなく沈む。
渉は、石が消えていった水面をしばらく見つめていた。
ふと、空を見上げる。
「雨、降るかも」
帰らなきゃ。
渉はのろのろと河川敷を後にした。
「……ん、雨だ」
頭に冷たい雫が落ちた気がして、渉は手を出した。
今度は手に落ちた雫を見て、雨が降り始めたことを知る。
空を見上げれば、辺り一帯を黒雲が覆い尽くしていた。
「やっべ、帰らないと」
大雨が降る気がする。
渉は紙袋の中身に細心の注意を払い、走り始めた。
「だー! もう、なんで赤になるんだよ」
目の前で信号が赤になった時は、そう言って地団駄を踏んだ。
既に雨は相当強くなっている。道行く人は、みな傘を差しているか渉と同じように走っているかのどちらかだった。
渉はその場で足踏みをする。その甲斐あってかは分からないが、信号は渉が思っていたより早く青になった。
足元の水たまりを気にせず、渉は道路を駆け抜ける。
商店街のアーケードに差し掛かった時、走るのをやめた。今さら無駄だと思うが、紙袋を胸に抱える。
濡れてぐちゃぐちゃになったものを、遥己に渡すわけにはいかない。
雨がますます強くなる。
足を地面に着ける度に、濡れた髪の先から水が飛び散った。
服やスニーカーは、水を吸ってびしょびしょだ。
目を開けたら目に雨水が入る気がして、渉は目を半分だけ閉じた。
悪くなった視界に、我が家の影を捉える。
更に速度を上げ、家の軒先に駆け込んだ。
チャイムに手を伸ばす。鍵は持たされていなかった。
ピンポーン。少し間の抜けた音が響く。
何秒か待って、渉は再びチャイムを押した。
ピンポーン。出ない。
渉はしびれを切らして、チャイムを連打しようと人差し指に力を込めた。
その瞬間、
「おかえり。びしょびしょでしょ。ほら、早く上がって」
渉の母がタオルを持って出迎えてくれた。
渉は急いで家に入り、扉を閉めた。
靴を脱ぐより先に、抱えていた紙袋を玄関に置く。
「……渡せなかった」
その上、紙袋はぐちゃぐちゃ。
「そう。残念だったわね」
母は、深くは聞いてこなかった。「まだ明日もあるから」と言い、小さく笑う。
(なんで紙袋にしたんだっけ)
虫かごをそのまま持って行っても良かったはず。
数秒思案し、渉は理由を思い出した。
(お詫びと言えば紙袋だと思ったからか。なんであの時はそう思ったんだろ)
「さ、早く上がりなさい」
足元にはタオルが敷いてあった。
渉は足を拭き、靴下を脱いだ。濡れた靴下を履いたまま部屋の中に入ると、母に怒られるのだ。
「はい」
タオルをもう一つ手渡され、髪や体を拭く。
拭き終わった渉は、二つのタオルと靴下をまとめて、洗濯機に放り込んだ。
「ひどい雨だったね。体も冷えただろうから、先にお風呂にしておく?」
「……うん」
小さくうなずき、渉は濡れた服を脱ぎ始めた。
4
渉が遠田家を訪ねた直後。
家に戻った遥己の母は、机に座って呆ける遥己に声を掛けた。
「渉くん、来てたわよ」
「……うん」
「いい加減、仲直りしたら?」
「……うん」
母親の言葉に、遥己は生返事を返す。
母親は立ったまま話すのをやめて、遥己の対面の椅子を引いた。
「明日しか、渉くんに会えるチャンスはないわ。会うにしろ、会わないにしろ、後悔しない選択をしなさい」
「ッ……」
遥己が息を呑むのを見て、母親は立ち上がった。
遥己がティッシュに手を伸ばすのを見て、黙って立ち去る。
一人になった遥己は、ティッシュを静かに目に押し当てて、天井を仰いだ。
口から、僅かに息が漏れる。
ティッシュが吸収しきれなかった分が、頬を伝った。
「どう……どうすれば、いいんだよ」
遥己がどれだけ考えても、答えは出なかった。
5
「……おはよう」
渉は、喉の違和感に顔をしかめて起き上がった。
「あら、おはよう」
ちょうど渉を起こそうとしていたのか、母親が目の前にいた。
「うん? なんか顔色が」
そう言って、母親が手を渉の額に当てる。
「熱い。熱があるかもしれないね。昨日、びしょ濡れで帰ってきてたから体が冷えたのかな」
母親が取ってきた体温計を、渉の脇に挟む。
渉は伏せられた体温計を、緊張した面持ちで見つめた。
(今日しかないんだ。遥己に謝るには、今日しか)
体温計が鳴り、渉の脇から離れる。
母親が結果を確認し、言った。
「三八度ある。残念だけど、今日は家にいなさい」
渉は唇を噛んだ。
「薬出しとくから。飲みなさいよ」
渉はこくりとうなずいた。
「私はスーパーに行くけど、外に出たりしないでね。絶対よ」
そこまで言うのなら、逆にこっそり遥己に会いに行こうか、と渉は思った。
母親が玄関の扉の前で言う。
「じゃあ、行ってきます。……あら、何か郵便受けに入ってるわ」
ガサゴソと郵便受けを探る音がした後、母親が声を張り上げた。
「渉宛よ! 差出人は……変ねぇ、書いてないわ。でも、机の上に置いとくからね!」
「分かったから、早く行きなよ」
なかなか家を出ようとしない母親に、渉がしびれを切らして声を掛けた。
喉が痛くてあまり大きな声にはならなかったが、母親が扉を開いて鍵を掛ける音がしたので、一安心する。
机の上に置いてある錠剤を水で流し込み、手紙に目を向けた。
ごく普通の茶色い封筒だ。表には渉の名前や住所が書いてあるが、差出人については何も書かれていない。ひっくり返して裏も見るが、やはり差出人については書かれていなかった。
意を決して、渉は封筒の上をはさみで切って開ける。
中には、折り畳まれた白い便箋が一枚だけ入っていた。
便箋は大部分が真っ白で、書かれていたのはたった一言だけ。
『ごめん』
それを見た瞬間、渉の頭の中を色々なことが駆け巡り、許容量を超えた目頭から涙が溢れ出た。
何がごめんなんだとか、どうしてあんなことをしたんだとか、なんで引っ越しのことを言ってくれなかったんだとか、言いたいことはたくさんあった。けれど、遥己の言葉を目にした瞬間、そんなことは全部頭から吹き飛んだ。
(俺だって、謝りたい)
手紙。手紙なら、渉の代わりに遥己にその思いの丈を伝えられるかもしれない。
それに。
「『ごめん』で別れるのって、|嫌《や》だろ……」
渉は封筒と便箋を探して、家中を漁った。
そうして見つけた、たった一枚の便箋と封筒。ハガキの山から渉が引っ張り出したものだ。
書き損じたら終わり。
まず、伝えたいことを他の紙に書き出そう。
学校の適当なノートのページを破って、渉は鉛筆を持った。
絶対に伝えなければならないこと。
あの時、言い過ぎてごめん。今までありがとう。引っ越し先でも元気で。
たぶん、この三つ。
それと、聞きたいこと。
なんで引っ越しのことを言ってくれなかったのか。
(知ってたら、もっと色々できたのにな)
サプライズとか。
自分の納得できる形になるまで、渉は文章をこねくり回す。
そうしてうんうん唸っている間に、母親が帰ってきた。
「ただいまー」
渉が布団に入らずに机に向かっているのを見て、母親は目をひん剥いた。しかし、手元の紙を見てふっと微笑む。
「書けたらちょうだい。遥己くん|家《ち》に届けに行くから」
「うん」
今から郵便で手紙を出しても、学校が終わると同時に旅立つ遥己には届かない。直接届ける以外、遥己に手紙を渡す手段はなかった。
時計をちらりと見る。大丈夫、まだ午前だ。
あの時、言い過ぎてごめん。遥己があんなことやるなんて、信じられなかったんだ。それで、驚いて……言い過ぎた。
一週間も謝らなくてごめん。
だけど、遥己が嫌いになったわけじゃないんだ。
だから、引っ越すってこと、もっと早く知りたかった。
最後に、今までありがとう。これからも元気で。
結局、手紙が書き上がったのは、それから四十分もしてからだった。
「母さん、これ」
渉が母親に手紙を手渡す。
渉が心配そうに見てくるのを受けて、母親は渉の額に手を当てた。
「熱、少しは下がってそうね。マスクはしてもらうけど、一緒に行く?」
渉はこくりとうなずいた。
行くと決まれば後は準備するだけだ。
着替えて、軽く髪を整える。手紙を小さなカバンに入れて、渉は玄関の扉を開いた。
外は曇っているが、それでも蒸し暑い。
流れる汗をハンカチで拭いながら、渉たちは歩いた。
蝉の声がする。街路樹に止まっているのだろうが、うるさい。
(遥己も、蝉があんまり好きじゃなかったな)
蝉はうるさいし、そこまでかっこよくない。そう言っていた遥己を思い出す。
「あっ」
ミミズが干からびている。近くに土があるから、そこから出てきたのだろう。
足で軽く擦ってみた感じ、アスファルトに貼りついているようだ。
渉はまた遥己のことを思い出した。
遥己の中では、ミミズもかっこよくない虫に入っていた。そもそも、ミミズは昆虫ですらない。
けれど、干からびているのを見ると必ず土に戻してやっていた。
渉も土に戻そうとして、やめた。
土に戻す場合、ミミズをアスファルトから剥がさなければならない。こういう場合、大抵ミミズの胴体がちぎれ、前後で泣き別れになる。
そっちの方がもっとかわいそうだ。
そうこうしているうちに、遥己の家の前に着いた。
引っ越し当日だというのに、いやに静かだった。
渉は体調が悪いのにもかかわらず、全力で腕を振って駆け出す。嫌な予感がした。
「はあ、はあ……」
肩で大きく息をして、遥己の家を見る。
人の気配がしない。
扉の方へもう一度走って、チャイムを連打した。
――何度押しても、誰も出ない。
「そんな……」
渉は足元から崩れ落ちた。
後から母親が早足で来て、渉をさすった。
「大丈夫、大丈夫」
「なにが大丈夫なんだよ……!」
母親の「大丈夫」が無責任な言葉に聞こえた。
「諦めなければ、どうにかなる」
その言葉に、渉ははっとした。
そうだ。渉は遥己の次の住所を教えてもらえなかった。
でも、誰か知っている人がいるかもしれない。
一旦家に帰ることにして、渉たちはその場を去った。
6
(遥己に会いたい。俺にできることは、なんだろう?)
布団の中で天井を眺めながら、渉は考えた。
渉と遥己の共通の友人を思い浮かべてみる。
|樹《いつき》、|海《かい》|斗《と》、|拓《たく》|哉《や》……。
ダメだ、と渉は|頭《かぶり》を振った。
彼らは全員、浅く広く関わりを持つタイプだ。遥己が住所を教えるほど親しかったとは思えない。
(それでも、ダメ元で聞いてみるか)
後は何だ……?
と、そんなことを考えているうちに、渉を睡魔が襲ってきた。
(考えなきゃ……だけど。一旦寝て、明日早く起きよう)
渉の意識は、睡魔によって奥底へ引きずり込まれた。
「ああ、かわいそうに」
「ここはどこ? 俺は渉」
突然夢に現れた男に驚いた渉は、定番のセリフをもじって自分を落ち着ける。加えて、一度深呼吸し、声の方へ向いた。
「何でもいいから、願いを言え」
ボケをスルーされた渉は、真剣な顔になって口を開く。
「遥己に会いたい」
これしかない、と渉は思った。
探せばいくらでも方法はあるだろう。しかし、探している間に渉のこの想いは風化してしまう。それでは駄目なのだ。
「願いはそれだけか?」
「それだけ……って」
渉は黙り込んだ。遥己に会って謝る。それが叶えられれば、他にもう願いはない。そう思っていた。
けれど、渉の頭に浮かぶのは――遥己とやりたいこと。また一緒に遊びたいし、昆虫採集もしたい。
「……遥己とまた遊びたい。できれば、毎日」
悩んだ末に、渉はそれを口にすることにした。どうせ夢だ。どれだけ欲深かったっていいじゃないか。
「分かった。願いを叶えよう」
「え、ちょ、待っ」
渉が焦るが、もう遅い。
「俺が与えるのは『望んだ場所に行く力』だ」
渉の意識が浮上し始める。世界が白く薄らいで、全ての存在が遠ざかっていく。
「グッドラック」
それが、渉が聞いた最後の言葉だった。
「――あっ!?」
息を強く吸い込むのと、口から出たよく分からない言葉が重なって出た、変な声。
渉は深呼吸して、荒い息を整えた。
(風邪は?)
喉に意識を集中させる。痛みが嘘のように引き、違和感すらもなかった。
咳も、鼻水も、頭痛もない。
昨日の出来事が全て夢だったかのように、風邪を引いていた痕跡が消えていた。
(今、何時だろう)
壁の時計を見るが、暗くて時間が読めない。
「あ」
カーテンの隙間から光が漏れている。
もう日が昇っているのか。ということは、五時は過ぎているはず。でも、家族の誰かが動いている気配はないから、まだ朝の早い時間なのだろう。
二度寝しようと渉は目を閉じた。
「ん……」
先ほどの、妙にリアルな夢。自分の驚きようは鮮明に思い出せるし、あの時考えたことは全て忘れていない。
不思議な体験だった。もしかしたら、あの夢は本物だったのかもしれない。
だからといって、夢の中の出来事が全て現実だとは言わない。『望んだ場所に行く力』だなんて、非現実的にも程がある。
「でも、本当だったら」
けれど、それが現実である可能性もゼロじゃない。
ゼロじゃないなら、試さなくてはならない。
渉の腹の中に、僅かな熱が宿った。
すぐに試してみたいという気持ちがある。
時間が早すぎると止める冷静な自分がいる。
どうしようもなくもどかしくなって、渉は寝て時間を忘れようとした。
が、
「……寝れない」
今の思考で、頭がすっかり冴えてしまった。今から寝ようとしても寝られまい。
いっそ、もう起きてしまおうか。
渉は思い切って、カーテンを全開にした。
「うっ……」
朝日が眩しい。渉は反射的に目を閉じて、その後ゆっくり開いた。
明るさに目が慣れると、窓の外の光景がよく見える。日中は暑いからだろうか、早朝ランニングする人が何人もいた。車は変わらずたくさん走っているが、道行く人は少ない。
部屋の中も朝日で照らされ、物がはっきり見えるようになっていた。
机の上に置かれたままの夏休みのワークに、渉の目が留まる。
渉は机に近づいて、ワークをパラパラめくってみた。いつもなら絶対にやらない行動だ。早朝の清々しい雰囲気に|中《あ》てられてしまったのかもしれない。
「……やるか」
引っ越し先で新しい生活を始める遥己に会うのに、渉だけが前と変わらないというのも申し訳ない。
遥己に会いに行ける時間になるまで、少しだけ夏休みの宿題を進めてみようか。
7
深く、息を吸った。最近は深呼吸ばかりしている気がする。
もう一度、渉は夢の中の出来事を思い出す。渉に与えられたらしいのは『望んだ場所に行く力』。
力の使い方は分からない。が、何も教えなかったのだから、複雑な手順を踏むようなものではないだろう。そうあってくれ。
行きたいのは、遥己の引っ越し先。
そう強く念じた瞬間、渉の目の前が暗くなった。血がざわめく感じがする。立ち眩みだ。
だんだん、視界が元に戻っていく。
「……わあ」
完全に視界が元に戻った時の渉の第一声は、そんな感嘆の声だった。
立ち眩みの前とは辺りの風景ががらりと変わり、広い道路が広がっている。朝の通勤ラッシュは過ぎたはずだが、それでもたくさんの車が行き交っていた。
そんな大通りに面したところに、遥己の新しい家はあった。
渉はごくりと唾を飲み込んで、新しい家のチャイムを押す。
一瞬の無音の後、前の家のものより響きのある音が鳴った。
「はーい。どちら様ですか?」
遥己の母の声がスピーカー越しに聞こえる。
渉はしばらく声にならない息を漏らしていたが、意を決して、
「……遥己、いますか」
「あら、渉くん? 来てくれたのねぇ。残念だけど遥己は公園に出かけたわ。家の裏にあるところ」
「分かりました、ありがとうございます」
小さな声で、渉は言った。遥己が出かけている可能性も想定済み。まだ大丈夫だ。
「家の裏か……」
まさか、すぐに昆虫採集ができる場所に引っ越すとは。
渉は小走りで公園へ向かう。
どうせ遥己は昆虫採集をしているだろうと思っていたが――。
「……え?」
金属が擦れて、耳障りな甲高い音が聞こえる。
遥己は虫かごを脇に置いて、ブランコを漕いでいた。
遥己が顔を上げる。
「渉?」
信じられないものを見る目だった。
遥己の口が小さく動く。渉の位置からでは声は聞き取れなかったが、どうして、と言ったようだった。
「ごめん!」
何が、とも言わず、渉は遥己に駆け寄った。
「ごめん、ごめん、ごめん」
「ちょ、待てって」
遥己の慌てた声が耳に入るが、渉の口は止まらない。
今までの感情を全部吐き出すように、謝り続ける。
疲れてきて渉の声が小さくなってきた頃、遥己の大声が渉の謝罪をかき消した。
「俺だって!」
渉は謝るのをやめて、遥己の目を見た。
「あの時は、ごめん」
ぽつりと呟かれた言葉。手紙の続きを聞ける気がして、渉は遥己をじっと見つめた。
「変だったんだ。母さんに引っ越しのこと言われて。自分がよく分からなくなって……渉にもひどいこと言ったよな」
「俺だって」
ごめん、と遥己が言う前に、渉が口を開いた。
「あの時はびっくりしてたとはいえ、言い過ぎた。遥己を傷つけた。本当に、ごめん」
遥己は黙って渉を見ていた。
「だから、これからもよろしく。友達でいてくれ」
渉が笑うと、遥己も笑った。
「それで、一つ聞きたいことがあるんだけど」
「おい、俺まだ謝ってねえぞ」
「あ……どうぞ」
「ごめんなさい。……なんか俺だけ軽いな」
軽くなった場の雰囲気に、二人で笑った。
「なんで俺に引っ越し先教えてくれなかったのさ」
「あー……それか」
遥己の声が掠れる。聞かれたくないことだったようだ。
「あ、嫌だったら別にいいんだけど」
「いや、大丈夫だ」
渉が引こうとするが、遥己は大丈夫だと言って話し始めた。
「嫌だったんだ、|渉《親友》との思い出が泣いて終わるのが」
たったそれだけ言うと、遥己は口を閉じた。
渉は思わず遥己に聞き返す。
「……それだけ?」
「おう、それだけだ。ていうか、渉はなんでだと思ってたんだ」
「怒らない?」
渉が上目遣いでそう聞くと、遥己は大きくうなずいた。
「てっきり、俺のことはどうでもいいというか、嫌いになっちゃって、二度と会いたくないからかなーって」
「お前な」
口では怒っている風に装っているが、そうではないことを渉は知っている。
いつものノリが戻ってきたことに、渉の笑みが深まった。
「じゃあ、そろそろ俺帰るわ」
「せっかく来たのに、もうちょっといれば?」
遥己の申し出はありがたいし、願ってもないものだ。
だが、
「悪い。親に無断で来ちゃった」
そう言って頭を掻くと、遥己は仕方なさそうに言った。
「ったく。また明日、同じぐらいの時間にここで会おうぜ」
「分かった」
どちらからともなく、拳を突き出して合わせる。
「じゃあ、また明日」
「おう、また明日」
渉は大きく手を振りながら公園を出た。
人通りのない路地に駆け込み、自分の家を思い浮かべる。
渉の姿は、その場から消え去った。
8
「ただいまー、っと」
自室に降り立った渉は、靴を脱いで新聞紙の上に置いた。
母親には勉強するから部屋に籠もると言ってある。疑り深い渉の母は渉が勉強する様子を確認しに来るだろうが、一度確認したらそうそう二回目の確認はしに来ない。
母親がこっそり覗いているのを見つけた後、トイレに行くふりをして靴を取りに行った。
開きっぱなしのワークを閉じ、真っ白の一行日記を取り出す。
まだ日記を書くには早い時間だが、これだけは絶対に書いておかなければならない。
『久しぶりに遥己に会った。仲直りできた。明日も遊ぶ』
それから、またワークを開いた。宿題の心配をせず、遥己と思いっきり遊びたい。
親友と一緒にいられるのは、普通のことじゃない。今回のように、引っ越しで離ればなれになってしまうこともある。
渉は、遥己と過ごす一瞬一瞬の時間を大切にしたいのだ。
すっかり昇りきった太陽の眩しさに目を細め、渉は勉強を始めた。
「そういえばあの人、悲しそうだったな」
遥己と再会するための力をくれた男に、思いを|馳《は》せながら。