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1-1 銀髪の少女
邪神と約束し、あんな物騒な宣言をしたわけだが、当分主神のもとに行く気はない。
せっかく解放されたんだ、今を楽しまなきゃ損だろう。
「ん?」
目に入る場所に、人間の街があった。何か、楽しそうな気配がする。祭りでもやっているのだろうか。
「行くか」
俺が人間界で初めて訪れる場所は、あの街にしよう。
足を一歩踏み出す。枯れて乾いた木の枝が、音を立てて折れた。
俺が出たところは、色の悪い雑草が茂る草原だ。草原の中で見つけた木の枝。なかなか珍しいものだな。
踏みつけてもすぐ元に戻る雑草にイライラしながら、俺は人間の街を目指した。
道の半分まで来たところで、街の場所をもう一度確認しておく。大きい建造物だから大丈夫だろうが、念の為。
「はー」
街の立派な外壁に、感嘆の声が漏れる。外壁の高さは俺の身長の六、七倍はあった。賊の侵入を防ぐためにしては、過剰な高さにも見える。
結構な数の人間が、街の入り口らしきところに並んでいた。どうやら、かなりにぎわっているらしい。
がぜん楽しみになってきた。
俺は足を早め、街へ急ぐ。歩いている間も、一つの疑問が頭の中に渦巻いていた。
――地獄の入り口のすぐそばに、なんで街なんか作ったんだろうな。
と、大変なことに気がついた。
街の入り口では、街に入る者の身分を衛兵が確認している。
俺は身分証を持っていない。
俺の身分を証明してくれる人もいない。
身分の保証をしてもらうために払う金もない。
「詰んだ」
かくなる上は、不法侵入――!
壁を登る。目立つため不採用。
商人の荷物に紛れる。荷物は厳しく確認されていて厳しそうだ。条件次第で採用。
誰かが騒ぎを起こしてくれれば、その混乱に乗じて中に入れるのに。まあ、都合よく騒ぎを起こすやつなんて、そうそういない――
「止まれ!」
いた。
いかにも悪人のような顔を歪ませて、男が衛兵に突っかかっている。おおかた、入れてもらえなくて逆上したというところか。
まあ良い。突然怒鳴り始めた男に、周囲は軽くパニックになっている。衛兵がこの騒動を収める隙に、俺は中に入らせてもらうとしようか。
気配を殺せ。俺は空気だ。空気は意思を持たない。呼吸もしない。音も出さない。
壁に沿って、じりじりと街の中へ足を進める。
いける。誰も俺を見ていない。
後、もう少し――。
「あら?」
侵入に成功する寸前、街の中から俺に声をかけた人間がいた。鈴を転がすような透き通った声。たぶん美人だ。
油の切れかけた機械のようなぎこちない動きで、俺は声のした方を向く。残念ながら、フード付きの白いローブのせいで顔は見えなかった。
「初めまして、よね?」
まずい。侵入がばれた。顔も見られている。始末するか?
俺の沈黙を肯定と捉えたか、彼女は話を続けた。
「あなたの名前、良ければ教えてくれない?」
名前? あー、名前。しっかし、名前ね。
困った。俺には名乗る名前がない。
俺の頭が高速で回転する。『|名付け《フォルネウス》』を使いたいところだが、今は使えない。
たっぷり五秒。体感時間で十分考えた俺は、口を開いた。
「ノル」
「ノル!」
彼女は目を輝かせる。
「そう言うおま……あー、あなたは?」
初対面の相手にお前と言うのは失礼かと、途中で言い直す。
俺が彼女に名前を聞くと、彼女は一瞬だけ言葉に困った。
「……ティナって呼んで」
「分かった。ところで、今日は祭りでもあるのか? 街がにぎやかな気がするが」
ティナは「祭り?」と首を傾げ、数秒考え込み、ポンと手を打った。
「リアムの帰還ね。今回は街道沿いの魔獣を一掃したんだって」
「待て、魔獣?」
それがあの高い外壁の理由か。魔獣の侵入を防ぐためだとしたら納得がいく。
地獄では、人間界は安全な場所だと聞いていたが、数百年経てば変わることもあるだろう。
「うん。あなた、それも知らないでここに来たの?」
会話がうまくできるようになってきたからか、ティナの声が大きくなってきた。目立つのは嫌だな。
「ああ。通りかかったから入ってみただけさ」
「嘘」
「ほんとだよ。……なあ、場所を変えないか?」
正直言って、ティナの格好と声は目立つ。辺りを通る人からちらちらと好奇の視線が向けられているのが、気になってしょうがない。
ティナも辺りを見回し、俺たちが目立っていることに気づいたようだった。
「そうしましょう」
ティナが俺を連れて行ったのは、古い喫茶店だった。
店主が俺たちに会釈する。俺もなんとなく会釈を返し、空いていたテーブルに座った。客は俺たちしかいないから、席は選び放題なんだが。
「話の続きね」
注文した紅茶を飲みながら、ティナが言った。残念ながら、俺の紅茶はなしだ。金がない。
「十年ぐらい前に魔獣が現れたのは知ってるわよね? さすがに」
知らない、と言いたかったが、それでは話が進まない。俺は黙ったまま先を促した。
「ここは対魔獣の最前線、クライス。魔獣が湧き出てくる森を監視する役目があるの」
ティナは紅茶で口の中を湿らせ、話を続けた。
「当然、この街には腕自慢がたくさん集まってくる。その中でも、リアムは飛び抜けて強いの」
なるほどね。だから、リアムが帰ってくるというだけでこの熱狂。
「ん?」
――何か、妙な気配。人間以外の存在のもの――魔獣か? でも、小さな違和感がある。
「っ、なんで……」
ティナが勢いよく立ち上がり、紅茶を一気に飲み干す。
「用事ができたわ。残念ながら、私はここまで」
店主に向けて、硬貨を弾く。
「最後に一つだけ。逃げた方が良いわよ」
そう言い残して、ティナは走り去った。
フードが取れ、ティナの顔があらわになる。美しい銀髪だった。碧眼は焦りで揺れている。
実は、俺は地獄で何度か魔獣と戦ったことがある。負けることはなかったが、苦戦はした。ただの人間が魔獣に敵うとは思えない。
「くそっ」
俺もティナの後を追って立ち上がり、店を飛び出した。扉が音を立てて閉まり、出入りを知らせるベルが虚しく鳴る。