公開中
side Lily - 1
彼は忙しい人だった。
毎日ノルマに追われているとかで、夜遅くまで起きていることも頻繁だった。
それでも特に問題もなく充実しているように見えたし、なんなら私の方が置いていかれているのではないかと何度も不安に駆られた。
笑顔もあった。何も言ってこなかったから、後にあんな状態になるとは思わなかった。
鮮明に覚えている会話がある。
『最近どうしているの? 忙しそうだよね、疲れてない?』
確か私は、当時大好きだった漫画を見ながらそう言った。彼は隣に座っていた。
私が『疲れてない?』と言ったとき、彼はふっと遠くを見た。瞳の中で何かが目まぐるしく動いていた。
だんだんとその灯りが消えていって、空洞が広がっていく。|虚《うつろ》、という言葉が思い浮かんで、ふと恐ろしくなった。
『……ううん、大丈夫だよ。』
たっぷり時間———もそんなに取らず、彼はそう答えて笑った。いつもと同じ笑顔だった。
それから彼は私が見ていた漫画に目を落として、
『リリィはどうしているの?』
悪戯っ子のような顔で、彼は自分の唇を少し舐めた。私を『リリィ』と呼ぶときはいつもそうしていた。
『えーっとねー、あ、ねぇカイ、ちょっと聞いてよ、あのね———』
それから私の愚痴が始まるのが日常だった。彼はいつも何も言わずに聞いて、『大変だねえ』と私の頭を撫でてくれた。
何ひとつ言わない人だった。だからずっと、何もないんだと思っていた。いつでも前を向いていて、他の何よりも明るく輝いて見えて、それが私の誇りだった。
気づかなかった。何かあったらすぐに何か言える私と違って、彼は何も言えなかったのだ。その手段を、持ち合わせていなかったから。
『リリィといると、気が晴れる。何でもできる気がしてさ。いつもありがとう』
何か言葉を交わせば、最後に必ずそう言った。そういえば、最初はこんなことは言っていなかった。いつから、なぜ、言うようになったのだろう? 今となっては何も分からない。
あの頃は特に何も考えていなかった。毎日忙しそうにしていた彼はいつだって私の上に、隣にいるけど手の届かないところにいて、まるで私は彼のお付き添いのようだと皆が言った。
優しい人だった。私のどんな我儘も穏やかに聞いてくれて、どんな話も受け止めてくれた。私の中で『スパダリ』といえば、まさしく彼のことだった。
彼の目に、世界はどう映っていたのだろう。
彼は何をやっていて、何を考えていたのだろう。
『僕はさ、まるで止まれない暴走機関車みたいだ』
それが最初で最後の言葉だった。その時ですらも、仕方なさそうに笑っていた。
---
彼が壊れたのは、突然だった。
確か暖かくなり始めた頃の、朝だった。
いつも通り彼は起きてきた、はずだった。
『あ、カイ、』
いつもしている挨拶、『おはよう』という言葉を喉の奥にすんでのところで呑み込んだ。おかしい。直感でそう思った。いつかと同じ、虚な瞳だった。
空洞が広がってる。目の前にいるのは誰だ。彼は確かにそこにいるのに、まるでいないかのようだった。
『……カイ?』
呼びかけてみても、返事はなかった。