公開中
〖第三話〗 神殿の書庫と禁じられた頁
神殿の書庫へ入るには、いくつもの扉をくぐらなければならない。
白壁に囲まれた回廊の奥。陽の光が届かぬ石造りの階段を降りた先。空気はひんやりとしていて、外界の喧騒とはまるで別世界だった。リィナは、息を呑みながらその階段を一段一段降りていく。
「足元に気をつけて。段差が滑りやすいんだ」
前を歩くのは、あの書記官――シオン=マクレイ。彼の足取りは落ち着いていて、まるでこの神殿の構造すべてを記憶しているかのようだった。
「書庫って……本当に、こんな奥にあるんですね」
「それだけ"本"というものが、貴いものだということだよ。鍵がなければ扉は開かないし、許可がなければ誰も足を踏み入れられない。君は特別な許可をもらったんだ。心して入るといい」
リィナはこくりと頷いた。背中の汗が冷たい。興奮と緊張が入り混じり、胸の奥がふわふわと浮いているようだった。
階段を降りきった先、重い鉄の扉の前で、シオンは懐から銀の鍵を取り出した。鍵は羽ペンの形をしていて、先端が複雑な曲線で作られていた。
「神殿書庫・第一階層へようこそ」
ガチリ――と音を立てて鍵が回る。中からふわりと漂ってきたのは、乾いた紙と革の匂いだった。
---
扉の向こうには、幾つもの木製の書架が整然と並んでいた。
書架の高さは大人の背丈ほどもあり、巻物や革装丁の本が並べられている。窓は一切無く、魔石のランタンが天井や柱に取り付けられていた。淡い青白い光が、埃の粒をぼんやりと照らしている。
「……すごい……!」
リィナは思わず声を漏らした。これまで彼女が見たどんなものよりも、壮麗で、神秘的で、そして――静謐だった。
一冊一冊が、まるで語りかけてくるようだった。
「言葉を持った紙たち……」
「そうだ。知識とは、沈黙の中に語るものだ。耳を澄ませば聞こえてくる。何百年も前の声が、ここではまだ生きている」
シオンの声は静かだったが、その言葉には確かな力があった。
「さて、君にはまず、この第一階層の整理と清掃を頼みたい。覚えるべきは、巻物と冊子の保管方法、それから分類記号の読み方。文字も、作業と平行して教えていく」
リィナは力強く頷いた。
「お願いします!」
---
その日から、リィナの神殿での生活が始まった。
午前中は薪屋での労働、午後は神殿での書庫整理。働いた対価として、文字の読み書きを教わる――それが彼女とシオンの取り決めだった。
最初に教えられたのは、神殿で用いられている"聖典文字"と呼ばれる書記体だった。形は簡潔だが、文字の並びと意味が複雑に絡み合っている。いくつかの文字には魔術的な効力を持つものもあると聞き、リィナは目を輝かせた。
「これは"風"の文字。『ヴェス』と読む。風を意味すると同時に、"運ぶ"という動詞でもある。君の紙片にも、同じ文字があっただろう?」
「あっ……ほんとだ。これ、だったんですね……!」
言葉が、形に変わっていく。線が、意味を持ち始める。その一つ一つが、リィナにとっては魔法だった。
やがて、一週間が経とうとしていたある日――
リィナは、書庫の隅にある古びた書架の下、埃を払っていたときにそれを見つけた。
他の巻物や本とは違い、黒い布で包まれ、封蝋で閉じられた一冊の厚い書物だった。
赤黒く染まった封蝋には、見たこともない文様が刻まれていた。
「……これは……」
触れようとしたその時だった。
「――それに、触れてはならない」
低く鋭い声が背後から飛んできた。
振り返ると、そこにはシオンがいた。
彼は滅多に見せない、厳しい表情をしていた。
「その本は"|禁頁《きんぺい》"と呼ばれるもの。神殿の書庫でも、限られた者しか目を通せない。内容は記されていないが……封じられているということが何を意味するか、わかるかい?」
「……危ないもの、なんですか?」
「あるいは……真実すぎるものだ」
シオンはゆっくりと本に近づき、黒布をそっと整え直した。
「知るべきではない言葉もある。だが、君が成長し、力を持ったとき……その扉が開くかもしれない。そのときまで、決して無理に開けようとしてはならない」
リィナは黙って頷いた。
しかし、その本が放つ気配は、まるで呼びかけているかのようだった。