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キンモクセイと、消えない下書き
いちごりら
十月。大学の図書館のテラス席には、甘ったるいキンモクセイの香りが漂っていた。 湊(みなと)は、ノートPCの画面に映る「新人賞応募原稿」という文字を見つめて、溜息をついた。
そこへ、一足ごとにブーツの音を響かせて、ゼミ仲間の結衣(ゆい)がやってくる。
結衣「湊、またここにいた。……何、まだその小説直してるの?」
湊「……まあな。ラストの一行が決まらないんだ」
結衣「ふーん。相変わらず真面目だねえ。私なんて、昨日書き上げた短編、もうSNSに上げちゃったよ」
結衣は湊の向かいに座り、キャラメルマキアートを一口飲んだ。
二人は文芸サークルに所属している。 湊は、一文字一文字を削り出すように書く「職人気質」。 結衣は、時代の空気を読み、軽やかな言葉でファンを増やす「天才肌」。
湊「お前の新作、読んだよ。……相変わらず、今っぽくて面白いな」
結衣「あ、読んでくれたんだ。ありがと。でも、湊の顔、全然褒めてないよね?」
湊「……そんなことない。ただ、俺には一生書けない種類のものだと思っただけだ」
湊は、自分のPCの画面をパタンと閉じた。 結衣の「面白い」は、スマホの画面をスクロールする指を止めさせる強さがある。 けれど、湊が目指しているのは、十年後の誰かの本棚に残っているような、重い言葉だった。
結衣「湊はさ、私のことバカにしてるでしょ。使い捨ての言葉ばっかり書いてるって」
湊「……してないよ。むしろ、羨ましいと思ってる」
結衣「嘘。……湊の書く文章は、冷たい秋の朝の匂いがする。私はそれが怖いの。自分には、そんなに深いところまで潜る勇気がないから」
結衣が伏せた睫毛(まつげ)が、秋の日差しに透けて揺れた。 いつも自信満々に見える彼女の指先が、カップの縁を不安げになぞっている。
湊「……深いところは、暗くて苦しいだけだぞ」
結衣「それでも。……私は湊に、私の書いたものを『羨ましい』なんて言ってほしくなかった。一番のライバルだと思ってたのに」
沈黙が流れる。 風が吹き抜け、赤く色づいた桜の葉がテーブルの上に落ちた。 夏の頃の突き抜けるような青空とは違う、少し寂しくて、けれどどこまでも高い空。
湊「……結衣。ラストの一行、お前に読んでほしい」
結衣「え、いいの? 湊、人に見せるの極端に嫌がるのに」
湊「お前に『浅い』って言われたら、また書き直すよ。お前が一番、俺の足りないところを知ってる気がするから」
結衣「……ふふっ。厳しいよ、私は。キャラメルマキアートより甘くないからね」
結衣はそう言って、悪戯っぽく笑った。 二人はPCの画面を覗き込む。
友情でもなく、ただのライバルでもない。 秋の夜長を、互いの孤独をぶつけ合うことでしか埋められない二人がそこにいた。
湊「……どうだ?」
結衣「……最悪。これ、私が書きたかった一行だよ」
二人の影が、落ち葉の上に長く伸びていた。 キンモクセイの香りは、いつの間にか、少しだけ冷たくなった夜の匂いに変わっていた。