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can't Breathe.
少し湿ったような、爽やかなような、初夏の匂いが香る頃。
偶々、海に来ていた。
海の磯臭い匂いと、波のひんやりとした冷たさを、この世界が消える前にもう一度だけ感じたかったからだ。
もう間もない間に莫大な規模の嵐が世界を襲うらしい。
今から299年前に一度似たような嵐が起きた。
けれど、それ以上の被害が嵐起きて殆どの国土が沈むだとか、なんだとか。
その200年以上前の嵐のせいで、世界の水位はぐんと上がったけれど沈むことはなかったらしい。
それ以上の嵐がこの地球を襲うらしい。
僕はその時代を生きていなかったから、詳しく知らないけれど。
沈まないと予測されている、標高の高い地域に引っ越していく人々が多くいた。僕の周り、周りじゃなかろうと。
人はいつか死ぬのだから。
それが僕の考え方だ。
沈むか沈まないか確証もない土地に行き、仮にそこが沈んだとしたら無駄金で無駄足だ。
どうせいつか終える人生なら、幼い頃から生まれ育ったこの街で一生を終えたい。
波風が頬を撫でた。
それと同時に、僕の短い髪を靡かせた。
一ヶ月程度後には嵐で覆われるなんて想像できない快晴の下、ただ一人。
|燦々《さんさん》と僕を照らしている太陽と、広く終わりが見えない海の果て。
「君、何してるの?」
そんな場所に、聞いたこともない声。軽くて、少しねっとりとした甘い声。
その声のする方を振り返ると青年のような、少女のような、美しい人が海辺から顔を出していた。
「ただ、ぼーっとしてるだけだよ」
海水浴でもしているのか、と思った。この海が危険と言われる時期に。
しかし、彼、もしくは彼女の下半身にあたる部分には僕の足のようなものは見つからなかった。
見えるものといったら、魚の|鰭《ひれ》のようなものだった。
その鰭のようなものは、水を纏い、太陽の光全てを跳ね返すような光沢があった。僕は彼、もしくは彼女の姿を全てを察した。
「じゃあ少し話そうよ」
女性にしては少し低くて、男性にしては少し高い甘く軽い声。真珠のように白く、この海のように透き通っている肌。人魚と言われて、想像できない艶のある黒の髪。奥二重の瞼と、この海のような透き通る青の瞳。長い睫毛、しっかりとしている眉毛。高い鼻に、ぷっくりとした唇。
今まで見たことがない程、綺麗な顔立ちをしていた。
彼、もしくは彼女にそう言われ、僕は波打ち際で腰を下ろした。
「足が無いって言いたいんでしょ?」
肩を揺らして笑う彼、もしくは彼女。
足がない理由を僕はもうとっくに察しているつもりだが、その話を一度聞いてみることにした。
「人魚なんだよね、僕」
その足の代わりについた鰭を彼は高く上げて、僕に見せてくれた。
波飛沫と共に高く上がるその鰭は、宇宙のような深い寒色で光の当たり方によって、紫になったり、碧になったり、青になったり、紺になったりする。鱗たちによって創られた綺麗な鰭だった。
伝説や子供の頃の作り話でしか聞いたことがない人魚だったが、僕は特に驚かなかった。自分でも、驚かなかった理由は何故か分からない。
「……君は驚かないんだ」
どこか心に突っかかっているような表情、先ほどの明るい声からは想像などできない細い声。
「僕インディゴ、君は?」
「ミリシエ」
中性的で、綺麗な名前だ。
インディゴという名の人魚は、髪の毛を耳にかけて浜に手を置いて頬杖をついた。
「大雨が降るんだってね」
少しの間、流れた沈黙を断ち切るようにインディゴは新たな話題を話し始めた。
「200年くらい前、同じようなことがあったんでしょ?」
僕はその時代を生きていなかったからその嵐について全てを知ることはないが、君の言う通りだろう。
その嵐は一ヶ月もの間、雨が続いて太陽が顔を見せない日々が続いたようだ。
「僕のせいなんだよね。その雨、っていうかここ200年くらいに起こった記録的な雨全部」
「僕の気分が沈んだり、何か新しいことが起こると雨が降るの。僕が生まれたからそんな酷い雨が降ってさ、僕がもうすぐ泡になっちゃうからまた雨が降るんだよ」
泡になるということは、もうインディゴの命は長くはなく短いのだろう。
死を悟っていても、面白くおかしい作り話のようなテンションで自分の死に対して肩を揺らして笑うことが理解できなかった。
僕が誕生した200年前でも、記録的な雨は多かった。それは君のせいで、君のおかげだったらしい。
「泡にならない方法は?」
「恋をすること。相手も自分も真にその人が好きだと心の底から思えたら、僕は死なないで人間として生きていける、らしい」
不確かな情報が面白いのか、更に君は肩を揺らして笑っていた。
そこから、数十分から数時間にかけて話をした。初対面でなぜこんなに話しているのかと、我ながら思う。
インディゴと話すのは心地が良かった。少しだけおっとりとした雰囲気を纏って、リアクションが分かりやすいからだ。
身の上話をして、海の話をして、そんなくだらないと言える話で真上にあった太陽は水平線に近づいていくほど時間が経った。
--- * ---
僕はインディゴに会うために、その波打ち際によく行くようになった。
インディゴは、確かにそこにいるのに僕と話をしているはずなのに幻のような存在に感じる。人を惹きつける黒の中に別の色が宿った奥深い瞳も、普段海水にさらされているはずなのにふわりと靡くその髪も、真珠のように白く波のように透き通った肌も、まるで同じ生物のように感じないほど、美しい。
「………インディゴ?」
僕が名前を呼んだり、この場に訪れたりしたら、飼い主の帰りを待っていた犬のような顔をして話しかけてくるのに今日は姿を見せてはくれないようだった。
朝はあんなに晴れていたのに、今となってはポツポツと雨が降ってきている。夕方になるにつれ、雨は酷くなる予報だったから少しの時間だけ君に会いにきた。
歩いていると、何かを踏んだような感触になり足を上げてその踏んだ物を確認した。
真珠だった。
その真珠はまるで彼のようで、雨の中でも目を奪われるほど綺麗だ。
浜の上に波によって作られた波跡。その上に不規則に置かれる真珠を拾いながら、真珠を辿っていくとそこには岩陰に隠れた人魚が居た。
「これ、君の?」
薄々、その行先に勘づいていた自分がいた。案の定だった。
その人魚が独り浅瀬に座っていた。僕は横の浜に腰を下ろした。
波と浜の境界線、まるで絶崖にある反対側の土地のように関与しあえない関係。
僕の耳に入る音は、嫌なほど煩い波の音だけで君の泣声なんて波にかき消されてばかりで聞こえもしなかった。
君の手に優しく手を重ねた。
ずっと海水の中に居るから冷たいのか、と思っていたが少し冷たさを感じるのみで人の生温かさを感じる手だった。
君も死ぬのは怖いんだ。
人の前で明るく振る舞っていても、一人の時はこうなってしまうこともあるのだろう。
もう一人で抱えさせたくない。
悩みなんて、全て僕にぶつけてくれればいいのに。いつも君が話しているみたいに。
君の方を見ながら、そう思うばかりだった。
「………うん」
僕の方を覗くように見た君は、赤くなった目頭や鼻を露わにした。
目から溢れ落ちるものは僕たち人間が流すような涙ではなくて、僕が拾ってきたものと同じ真珠だった。目から真珠が溢れる姿は、この世のものとは思えないほど美しかった。泣いている姿が美しい、と思ってしまうのは人間としてどうだろうかと思うけれど。
「君は死なないよ」
君の目を真っ直ぐ見て、僕はそう言葉をかけた。
降っていた雨は強くなったけれど、空はカラッと晴れていた。
予報にはなかった、天気雨だった。
「はははっ、そうかなぁ」
肩を揺らして笑ったインディゴ。
君には、泣いている暗い顔じゃなくて笑った明るい顔の方がよく似合っていて綺麗だ。
「何でも話してよ」
君がいつも僕に話をしてくれるような軽い感じで、重い言葉でも暗い言葉でもなんでも僕に投げかけてくれて構わないんだ。君なら。
「ありがとう」
インディゴは、僕に対して見たことのないような優しい雰囲気で優しく微笑んだ。
「風邪ひいちゃうから、早く帰りなよ」
「いいよ別に、風邪ひいても」
僕の体調より、あと一週間程度で尽きてしまう君との時間のほうが大切に決まっている。
「なにそれ、馬鹿みたい」
君は肩を揺らして笑った。雨はどこかに去っていって、カラッと晴れた空だけが残った。
--- * ---
残り僅かの君の人生なんかじゃなくて、僕の人生、数十年間の同じ時間を君と過ごしたいけれどそれはもう叶うことはないのだろうか。
僕と君が恋をしたら、君の寿命が伸びるのなら僕は君と恋をする。君と僕の気持ちを無視して。
相手の気持ちを考えられないなんて、人として最低だと思うけれど。
「今日も来てくれたんだ」
水面から顔を出したインディゴは、僕に話しかけた。
数日前から君と出会うと、胸が痛くて仕方がない。
まるで、陸に上がった魚のように息の仕方を忘れてしまう。だけれど、確かにここは動いていて今でも熱く強く脈打っている。
自分自身でも、君に恋をしているという事実に驚いている。
何だか、目を合わせる気になれなくて君の瞳から目を逸らして出会った時と変わらない美しさの鰭を眺めていた。
「水の中、入ってみる?」
インディゴがそう僕に話しかけた。
僕が君の鰭ばかり見ていたから、そう思われたのだろう。海の中に入ってみたいと思ったことはそれほどないが、気になるのは事実だ。
「君がいいなら」
安定より好奇心が勝ってしまう人生だ。君がいなくなれば、海の中に入れることも無くなるだろうし。
僕は首を縦に振った。
「いいの?冷たくて凍え死んじゃうかもよ」
5歳や6歳辺りの悪戯っ子のような笑みを浮かべて、そう言うインディゴ。その笑顔がその情報が全て嘘であると物語っている。
「将来的にはどうせ死ぬでしょ」
「ははっ、何十年後の話してるの」
当たり前のことだ。何が面白いのやら。
君は肩を揺らして笑った。
君はもう、あとほんの一週間もない時間で泡になってしまうというのに。
「僕と君の手が触れてたら君は生きて帰れるから、手を離したら死んじゃうからね」
そんな警告のあと、僕の方に向かって優しく出された手。
「おいで」
日頃から海水によって濡らされた手を取った。
僕は服を肌につけたまま、足から腰、腰から胸、胸から肩、肩から頭と体全体を海に沈めた。
目に海水が入るのでは、と恐れず目を開いた。結局、目に海水が入ることがなかったが、そんなことどうでも良くなり忘れてしまうほど綺麗だった。
鮮やかで、明るくて、美しく綺麗。
色とりどりの珊瑚礁も、太陽によって照らされる透き通った海の中も、生息する海洋生物たちも。全部まとめて綺麗だ。
僕が目を奪われている様子を見て、自慢げに笑うインディゴが視界内に入る。
僕の家、凄いでしょと自慢したくて仕方がない様子がひしひしと伝わってくる。
手の甲の方は少し角張っているけれど、掌は柔らかくて少し薄い手。
何をとっても本当に美しい人だな、と出会って1ヶ月程度が経っても思う。
それと同時になんで、君の命がほんのまもない内に尽きてしまうのか。
当たり前となった君との会話が突然無くなったら、僕は一人で生きていけるのか不安だ。一ヶ月程度しか話していなかったけれど、僕にとって日常と言って等しいものになった。
本当に君の寿命が何十年と伸びるのなら、君の気持ちなんて無視して僕は君と恋がしたい。
今この瞬間でも、僕の心臓がはち切れそうなくらい強く動いているんだ。
「インディゴ」
君の手を取っているから息が出来ているはずなのに、息が出来ないみたいだ。
「好きだよ」
言葉が届くわけがない海の中。
口を開いて、閉じて、呟くように君に話しかけた。
その言葉は泡となって形に残って消えるわけでもなく、ただ広大な海の中に何としても残らず消えていった。
--- * ---
翌日、記録的な嵐が大雨が世界を襲った。
予報によると、今日から一ヶ月以上は雨が続くらしい。
全てを悟った僕は、傘なんて持たずレインコートなんて着ずに走り、波打ち際に着いた。
人魚の影も、波跡の中に残っていた真珠も、何も残ってなんかいなかった。
僕の体を打ちつける雨と共に僕を包み込むのは消化することのない後悔だけだった。
目から溢れ落ちるのはインディゴが目に溜まるような美しい真珠ではなくて、雨と共に地面を濡らす涙。
僕が君の命を奪ったんだ。
僕が君に恋をしたなんて、我儘な理由で。
僕は君がいないこの世なんて、考えたこともないんだ。ずっとそこに居てくれるものだと信じていたから。消えてしまうなんて、考えたくもなかったから。
僕は人殺しだ。
殺したのは僕のくせに、命を絶ってしまいたいだなんて思ってしまう。君がいたら僕の自殺を止めてくれる。でも、そうでもしないと君とはもう会えないんだ。
あの世に行っても、君が天国行きで僕が地獄行きだから、僕が命を絶ったとしても本当に再会できるのか。
今日、降り始めたばかりの雨だったのにその雨のせいで海の水位がぐんと高くなっていた。今まで波跡があった場所はもう既に浅瀬になっている。
痛くて、苦しく仕方がなくて、もうあの笑顔や顔は見れなくて、声を聞かない、渦巻く後悔しか押し寄せてこない。
バットエンドだと結末が分かっていても、苦しいものは苦しいのと同じである。
君は眩しくて、本当にどうしようもないほど愛おしい。会いたくて、会いたくて仕方ない。
堪えていたものが全部溢れ出した。そんな気がした。
目から水滴が滝のように落ちていって、海水と雨水と混じって海の中に消えていく。
君がこんなに大切で愛おしい存在になるだなんて思ってもいなかった。
きっとどこかで今も笑いながら生きているに違いない、僕はそう信じている。
なんで君だけが、こんな事にならなきゃいけない。
きっとどこかで今も笑いながら生きているに違いない、僕はそう信じている。
僕かそう信じないと、生きていられそうにないからだ。
--- * ---
昨日とはまるで違う天気。
嵐が始まった数日前からは、何日経ったか分からない。
嫌なほど、太陽がギラギラと僕たちを照らす夏らしい猛暑の日、快晴だ。
嵐は終わって、予報されていた降水量より少なかった。沈むと言われたこの世界も、水位が上がっただけで済んだ。
その天気の中、また波打ち際に来てしまった。
昨日の波打ち際とはまるで違った。
浜が見えないほど水位が上がっていたのに水位がインディゴがいた頃に戻っていたのだった。
そして、そこには一人の人が僕の方を見た。
少し離れていたが、ここからでもにまっと笑っているのが見えた。
「久しぶりだね」
声の持ち主はその人だった。
僕はその人と目を合わせた。
「人間さん」
その瞬間、その人の顔に光が差し込んで顔立ちが露わになった。
快晴の下、整った顔の人は僕に笑いかけ、そう僕に対して言葉を話しかけていた。
中性的な聞き馴染みのある声。
そして綺麗で見覚えのある姿。
肩を揺らして笑う独特な笑顔。
嗚呼、僕の好きな人。
ずぅっと探し求めた人、ここにいた。
いてくれた。
思わず、涙が溢れそうだったが君の前で泣いたら、一生いじられるのは短い付き合いながらもわかる。
だから、泣くのは君が泣いたあとだ。君は思っていたよりもずっと繊細だからすぐ泣いてしまうから。
それより先に、そこに存在する君のことを抱き締めたい。
僕の姿を察し、おいでと言わんばかりに腕を大きく広げた君向かい駆け寄り、強く抱きついた。
痛い痛いなんて言いながら、嬉しそうに笑みを浮かべて僕を受け入れてくれる君。そういう声が少し声が揺れていて、君はもう僕の見えないところで泣いているだろう。
今でも胸が熱く強く脈打っていて、君といると息が止まりそうだ。
解説を作ろうかと思ったけれどめんどくさかったからやっぱなし。
インディゴさんは今まで傷ついてきたんです。だからバッドエンドにはできなかった。ビターエンドにすればよかったかなぁ、とも思いますが。
性別は解釈に任せます。男性でしたら中性的声高髪長美人人魚になり、女性でしたら中性的声低僕っ娘美人人魚になり、男女どちらでもない可能性まであります。私の解釈は言わないでおきます。
やっぱ解説作ろうかな。要望多ければ作る???解説いるほど深い小説でもないと思いますけど。