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一時間三千円
虐殺の映像を見た翌日だった。
駅前の雑居ビルの五階に、「悩み相談」とだけ書かれた紙が貼ってあった。
フォントは明朝体で、少し傾いている。
誰が貼ったのか分からないところが、かえって信用できる気がした。
夜更け、眠れずに指先で画面を滑らせているうちに、偶然流れてきた動画だった。
砂埃の立つ街路、人の叫び声、銃声、編集はなく字幕もなかった。
誰が誰を殺しているのかも分からない。
ただ、人が倒れ、動かなくなる。それを、僕は最後まで見た。
画面を閉じても、胸は高鳴らなかったし、吐き気も、涙もない。
コーヒーを淹れ、シャワーを浴び、いつも通り歯を磨いた。
その一連の動作が、ひどく滑らかに続いたことが、後になって気になった。
何も感じなかった、というより、感じたという実感がなかった。
相談室の中は、思ったより狭かった。
机と椅子が一脚ずつ。窓はなく、壁は薄い灰色だった。
机の中央に、青い石が置かれている。光を吸い込むような色だった。
「ブルーダイヤモンドです」
向かいに座る男が言った。年齢はよく分からない。
声に癖がなく、こちらの言葉を待つのが上手な人だった。
僕は、昨夜のことを話した。
虐殺の映像を見たこと。
何も感じなかったこと。
それを異常だと思ったこと。
言葉にすると、出来事は急に小さくなった。
男は、途中で相槌を打つこともなく聞いていた。
「あなたは、その映像を見て、何を考えましたか」
少し考えてから、答えた。
「これは、本当に起きていることなのか、と」
「遠いからですよ」
「遠いから、かもしれません」
男は机の上のブルーダイヤモンドに指先で触れた。石は動かなかった。
「この石は、多くの人の手を渡ってきました。そのたびに、奪われ、争われ、死がありました。人はそれを|呪い《災い》と呼びました」
「|この石《ブルーダイヤモンド》が、人を殺したわけではないじゃないですか。」
「ええ。けれど、人は責任の置き場所を必要とする物です。」
僕は、石から目を離せなかった。深い青の中に、何かが沈んでいるように見えた。
「虐殺も、似ています。あまりに大きく、誰の責任か分からない。だから、人は数字にします。距離を取る。あなたが何も感じなかったのは、その距離が働いたからです」
「それは、逃げではないですか」
男は少し考えてから、首を横に振った。
「逃げる余地がないほど近づいた人は、壊れます。人は、一度に一人分の死しか抱えられない」
その言葉を聞いたとき、胸の奥で、何かが静かに整った気がした。
安心ではない。ただ、納得に近い感覚だった。
「もし、この石を砕けば、一つの虐殺が止まるとしたら」
男が言った。
「あなたは、砕きますか」
「砕きます」
即答だった。理由は説明できなかった。
相談はそれで終わった。料金を払い、部屋を出る。廊下の蛍光灯が、少し眩しかった。
外に出ると、夕方の街はいつも通りだった。人は歩き、話し、笑っている。
どこかで、今日も人が殺されているのだろう。
それでも、きっと、この街も世間は動き続く。
ポケットに手を入れる。何も入っていない。
それでも、昨日より少しだけ、胸の重さが減っている気がした。
不感症は、冷酷さとよく似ている。
けれど同じではない。感じないのではなく、感じきれないのだと、僕は思う。
次に虐殺のニュースを見たとき、すべてを理解しようとはしない。
ただ、名前のない誰か一人を思い浮かべる。それだけでいい。それが一番楽だから。
ブルーダイヤモンドは、きっと今もあの机の引き出しにある。
石は変わらない。変わるのは、それを見る人間だけだ。
そして僕は、悩み相談の看板を振り返らず、駅へ向かって歩いた。