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琥珀色の秒針
月の風は、いつも少しだけ嘘の匂いがする。
大学の入学式。満開の桜が、まるで祝福の押し売りのように舞い散る中、僕は一人、キャンパスの隅にある古びた時計塔のベンチに座っていた。喧騒が遠い。誰もが新しい生活に期待を膨らませているこの場所で、僕だけが「昨日」に取り残されているような気がした。
「隣、いいかな?」
不意にかけられた声に顔を上げると、そこには春を擬人化したような少女が立っていた。透き通るような白い肌に、少し癖のある栗色の髪。彼女の手には、場違いなほど大きな一眼レフカメラが握られている。
「あ、どうぞ」
彼女は僕の隣に座ると、ファインダーを覗くことなく、空を見上げて言った。
「君、この時計塔が『止まっている』ことに気づいている、唯一の人でしょう?」
心臓が跳ねた。そうだ。この古い時計塔の針は、三年前の春から一度も動いていない。校舎の建て替え計画で取り壊しが決まっている、忘れ去られた遺物だ。
「どうして分かったの?」
「だって、みんなはスマホの時計しか見てないもの。針を見つめて寂しそうな顔をするのは、時を止めてしまいたい人だけだよ」
彼女の名前は、凛(りん)といった。写真学科の二年生だという彼女は、それから毎日、僕をこの場所に呼び出した。
僕たちは、止まった時計の下で、動き続ける春を眺めた。凛は写真を撮るのが好きだったが、決して現像はしなかった。
「写真はね、記憶を殺すための道具なの。写してしまえば、それは思い出という名の標本になって、心の中からは消えていくでしょう?」
彼女の言葉はいつも少し難解で、けれど心地よかった。
僕は彼女に恋をした。
三年前、事故で亡くした妹の影を追うのをやめ、前を向こうと思えたのは、間違いなく彼女がいたからだ。
五月が近づき、桜が完全に緑の葉へと姿を変えた頃。
時計塔の解体工事が始まった。
「ねえ、最後にお願いがあるの」
防塵シートに覆われ始めた時計塔の前で、凛が言った。彼女が初めて、僕にカメラを向けた。
「私を撮って。それで、全部終わりにして」
僕は震える手でシャッターを切った。
ファインダー越しに見る彼女は、逆光の中で溶けてしまいそうなほど淡かった。
カシャリ、という乾いた音が響く。
次の瞬間、目の前から彼女の姿が消えていた。
落ちていたのは、彼女がずっと持っていたあの一眼レフカメラだけだった。
僕は狂ったようにカメラの背面モニターを操作した。けれど、保存されている画像は一枚もなかった。ただ、最後に僕が撮ったはずの一枚だけが、ゆっくりと画面に浮かび上がった。
そこに写っていたのは、凛ではない。
三年前のあの日、この時計塔の下で僕に手を振っていた、亡き妹の姿だった。
足元で、ガラン、と大きな音がした。
見上げると、解体作業の衝撃で、三年間止まっていた時計塔の長針が、一目盛りだけ動いていた。
春が終わる。
僕はカメラを抱きしめ、初めて声を上げて泣いた。
頬をなでる風は、もう嘘の匂いはしなかった。ただ、新緑の、少し苦い香りがした。