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19 儀
第19話です。
19話から21話まで、文章が長く(5000文字以上)なります。注意してください。
到着したところは群馬県内でも最奥、地元の人たちでさえ知っているものは少ないと見た。
近くには|吾妻峡《あがつまきょう》と呼ばれる、見応え十分な景勝地があるというが、それよりも険しくて厳しい地形をしているようだった。
谷底にある急流で、せり出した岩肌はごつごつと削られている。それだけ水のチカラが強い証拠だ。それによって大量に発生したと思われる水蒸気が白い煙となって立ち昇り、遠くにあるはずの空を消し飛ばそうとしている。始終もやがかった霧が、梢の上にかぶさって濃緑色であるはずの木々をけぶらせている。
温度は冬のように冷め、鳥の鳴き声が見当たらない。自然がぼくたちを見下ろしている。人里以外の人間を拒んでいるかのように凍てついた眼光……
もちろん、初めてここに着いたときのぼくは、あの「おどろおどろしい箱」に入ったまま境内のなかに入ったので、こんな景色は見ていない。このときの荘厳なる自然の声は、もう少しあとになってから見たものだ。
自然の|睥睨《へいげい》のなかを、すばやく通り過ぎようとする。江戸時代の運搬方法である|駕籠《かご》さながら、えっちらほっちらと運ばれる。
……ところで、これ。二人で持つほど重くないはずなんだけどな。発泡スチロール製だし、中に入ってるのもぼくだけで、空っぽのようなものなのに。なんで二人がかりで持つんだろう。結構揺れるから、一人で持ってくれないかなって思ってる。
でも、この中に入って座って運ばれていたらしい宮仕えの人たちは、こういった揺れを感じていたりしていたのかな。
そういう考えなくてもいい歴史の妄想にふけりつつ、箱入り娘と同じくらいの待遇を受けてぼくは待っていた。大音量のせせらぎの音が下がってくるや、足元から砂利を踏みしめる音が聞こえてきた。どうやらここが境内らしい。
すると箱の外から、ようこそいらっしゃいました、とくぐもった女性の声が聞こえた。女性の案内に従い、|駕籠《かご》は斜め上の方角に進む。時折重そうですね、持ちましょうか?――という気遣いの声が、スタッフチームを悩ませる。全力の遠慮をしている。
そりゃそうだわ。だってこれ、|外側《がわ》だけ立派なだけなんだし。指一本でも触ることのできない見えないバリアを巡らせて進むしかない。
砂利の音が消え、しばらくすると箱が降ろされた。着いたようだ、とぼくは思っていると、南京錠が外される音が鳴っている。隙間ができ、そこから久しぶりの光が内部に入光した。
「こちらが、その……」
二人のうち若いほうが代表する。これが噂の、人形です……おずおずとした紹介の仕方。初めて見る顔が二・三人いた。白拍子の神聖さのある服装を纏いし若人たち。どれも女性だった。
あ、はじめまして。白い服を着た女性だから、巫女さん、で、いいのかな。結局ここって寺なのか神社なのか分からないんだけど。
とりあえず、目線だけで……やあ。
あれ、反応してくれない?
だめだよ、そんなんじゃ。恥ずかしがり屋であるはずのぼくが、やあ、と言ってるんだから、そちらも「やあ」で返さないと。初対面の会話で印象の七割が決まってしまうんだからね。
何も返さないでじっと凝視してくるのって、無礼なやつだなって思っちゃうでしょ?
その時のぼくには、なぜ巫女さんたちがまったく反応しなかったのか、その理由が分からなかったけど、あとから察するにぼくの内面にあるものを感じ取ってしまったのだろうと思う。
番組スタッフからの事前にうかがった話や噂の是非。噂というのは短期間でこれまで何人もの人たちを〝呪い殺した〟という実績だ。いわくつきの人形。日本人形然とした、元の色も分からないほど、うす汚れたひな人形。のっぺりとした顔つき。定番のど真ん中を通ってきたような見た目、その大きさ。その汚さ。
また出演者であり、ここの主、すなわち住職でもある『神宮寺』から事前に訓示めいた内容を聞いていたのだろう。好奇心は猫を殺す、あまり見てはならないと言われたかもしれない。それでも好奇心には上限がない。
もちろんそれなりの覚悟をして確認しに来ているはずだ。その上で見た実物。でも……それに勝る『何か』。
名状しがたい『何か』が目の前には憑いている。先に目線を外してはいけない、と脳内に考えが迸る。人形から目線を外すことなんてないのに。それでも外してくれる、人形から先に舞台上を去らなければ、目線を外してくれなければ、自分の身に危機が迫ることになってしまう。
閉じるのを放念したように、口と目は見開かれたまま、刻々と時が過ぎる。あれは、神職に就く者としての〝絶句〟そのものだったのだ。
その日は面通しをしただけで終了し、次の日から儀式に入った。儀式は一週間かけて行われた。詳しい内容は……大体省いてもいいだろう。
結論から申し上げますと、効果はまったくなかったわけだ。
ぼくとしてはいったい何をやっているのか、見当もつかない。伽藍のような、立派な建物のなかでぼくは台の上に置かれ、目の前を見据える形をとらされる。
大体人間の一歩くらいの距離しか離れてない。右に左にとうろつく者はあの『神宮寺』だからいたって真面目な儀式なのだろう。先にギザギザした白い紙切れがいくつも付いた長い木の棒をしゃんしゃんと振り回して、神宮寺はぶつぶつと呟いている。それが三日間続いた。
あのな、言っていいか? そのギザギザした白い紙切れ、上下に振り回したときにそれがいくらかぼくに当たってるんだぞ。それが何度もだ。数週間前に死んだ男――名前なんて言ったっけ? 忘れちゃったな――のように、容赦なく鷲掴みされて投げられるほうがよっぽどましだ。というかその棒でいっそ叩いてくれよ。そのほうが気持ちよく倒れることができるから。
でも、そうじゃない。問題なのはギザギザした白い紙切れだ。紙切れは紙切れなんだ。軽いから衝撃はないので当たった所で転ぶことができないし、仮に当たってもなんだか柔らかいもので身体全体をなでなでされている感じがしてくすぐったい。なんだかバカにされてる気がする。
これで三日間立ったままでいろだって? 誰が考えたんだこんな嫌がらせ、人形の立場にでも一回なってみたらどうだ。
でも後半に比べたらそうでもないかもしれない。
後半の三日間は前半とは打って変わって屋外だ。
あれはいきなりだった。よく入口などにある手水所にぼくを連れていって、そのままどぼんと沈めてくれた。
とても、水が冷たかった。これほんとに液体なの?――と疑問を抱いてしまうくらい、冷たかった。なんで氷になってないんだこの水、と悪罵を吐き捨てたくなった。
沈めるだけじゃなく、ひしゃくで布の繊維にまで染みわたるくらいの入念さ。ああ、たしかに汚かったよ。悪かったって。そう何度も水中で謝ったのに、そんなに冷えた水ですすがなくたっていいと思わない? きみたちだってこの水の温度で、身を清めてるわけじゃないんだろ?
そんな巫女さんたちによる水責めから三日、ここに来てから六日が経ったある日の夕方のことだった。
もう一日が終わりそうなほど低い場所からのオレンジ色を帯びた光線を浴びて、ただ立っているだけの時間。
先ほどまで冷たい手水所でじゃぶじゃぶされた後なので、衣服には雫が滴っている。ひたひたのおひたしのようになっている。この時間は、ほうれん草のおひたしを乾かしてほうれん草にするためだけに設けられている。
ただでさえ霧が深いこの境内で、夕方近いことをある。降り注ぐべき光量は霧の屈折率によってどうしても少なくなってしまう。他に頼れるのは風くらい。それも湿った空気を運んでくれる。乾くわけがないんだよ。ほんと、いつまで待てばいいんだろう……寒いよ。
「それでなんですがね、あの人形のことでご相談が……」
遠くからこんな会話が聞こえてくる。会話の主導権は神宮寺にあるようだ。
内容から見出すに、ぼくについての相談事だ。
相談事は道中で彼らが予想していたものと大して裏切らない。
儀式として設けられた期間は七日間。紙切れシャンシャンが三日、ずぶ濡れ水責めが三日、正味あと一日残っている。今までの儀式はいわば前座のようなもので、最後に残ったものこそ、人形供養……〝炎で焼かれる〟という行為そのものである。
だが、神宮寺としてはぼくをご神体として引き取りたいと思っている。本心としてはあまり燃やしたくはない。
しかし、スタッフ側はたとえ同胞のほとんどが〝呪い殺された〟呪いの人形である。それに番組の「撮れ高」を考えれば、人形供養の炎で焼かれるさまはぜひとも取りたいと考えるはず。
そこで神宮寺が提案したのは、新たに「身代わり人形」をたてるということだった。
「考えてみてください、人形がすり変わるだけだと。直前まででいいのです。あの人形の出番はそこまでで充分。そこから先はスタントマンがとってかわるようにすればいい。あなた方が撮りたいと思える最高の光景は変わりませんから、カメラに収めることができるでしょう」
神宮寺の提案を聞き始めたころは拒否と不本意さの混じった表情を見せていたが、神宮寺が事前に「上」に話を通したのだろう、二人の上司に電話で相談するとすんなり承諾の意を捧げた。「大丈夫だとのことです」
「心遣い感謝します」
神宮寺は深い礼をした。
「…… 一つだけ聞いてもいいですか。どうしてそんなにあの人形に固執するんです?」
頭を下げたまま深く黙っている。何も返さないのが答えである、と言っているように。ゆっくり、神宮寺が頭を上げる際に質問者は続ける。
「あなたは今までテレビなどのメディア出演は断ってきたと窺っています。俺の上司からも、今まで打診してきたのに応じるどころかけんもほろろだったと。だが今回は違った。わざわざスタジオにまでお越ししてきて、出演なされた。その端緒は……」
目が一瞬ぼくの方にきて、戻した。
「神宮寺さん、言っておきますけどね。もうこりごりなんですよ。我々に対して、あれが再び〝災厄〟をまき散らすのは、もう勘弁なんですよ」
「そう思うでしょうね。私がいくら言葉を積み重ねたとしても、理解できないだろうと思いますよ」
スタッフ側は渋々といった感じを出していたものの、夜も近かったこともあって境内から足早に去っていく。
ただ今回に限ってみれば、何かを持っていた。ここに来るとき、ぼくが入っていたであろう発泡スチロール製の空っぽの箱。それを持って去ったということは、今夜、いや「今夜から」この寺でお泊りだということを告げていた。
神宮寺が寄ってくる。夜の風で凍えきっていたぼくを丁重に持ち上げて、砂利を踏みしめていく。
しばらくすると道は砂利の参道から小さな飛び石になっていく。足音はじゃりじゃりからこつこつと。境内から徐々に奥へ。深い霧で覆い隠された森が迫ってきて、霧の粒子でできた自然の舌にのせられ、飲み込まれるように中に入った。
森の中で二人きりになる。
「じゃらくだに、|情痒《あがゆ》いじゃねぇ? あだけんたごどばしてまねごどばもうないがもじれぬげもど」
とうとう頭がぶっ壊れたのかと思ったら、独り言だった。
「私が小さいころ、呪文のように唱えられた一節です。世間でいうところでいえば家訓、いえ遺訓でしょうか。
先祖が遺した遺訓。現代風に直すとこうなります。『あの日に戻してください、しゃらく様。私が間違っていました。どうか、どうか、私はあなた様に謝りたいのです』。誰が言ったのか。いくら歴史上をさかのぼっても、この地方ではあの人しか出てきません」
神宮寺の言葉によって、霧がさらに深まっていく気がした。フクロウやミミズクの声さえも聞こえない。あるのは、か弱い夜の風により木の葉同士、霧の粒子同士がこすれあった不気味なざわめきだけ。
まだ続く。「世間知らずだったのです。父親に守られ寺に籠りきりで大海を知らない井戸の中にいた。蛙だったので、あのような愚行をやってのけた。
隣の村に井戸があったことを知らず、こちら側には井戸がなかった。雨が降ることはありましたが、まともに貯水することができず、困っていたのはこちら側だったのです。
だから父親は定期的に隣の村へ足を運んで、水を分けてもらうことで村の存続を図っていたのですよ。たしかに隣の村は雨があまり降らなかった。ですが大きな井戸があり、そこから地下水をくみ上げることができた。地下水脈は村一つどころか隣村にも賄えることができるほどに強靭だった。飢餓状態だと思い込んでいたのは彼一人だけ。
おそらく、寺の窓から遠くを見ていたので勘違いしたのでしょう。遠くの畑の土を見た。土が乾いている、だから飢えているに違いない――そう見当違いなことを思い、父親の外出中を狙い離れに行った。そして、天罰が下った。離れは流されてしまって、唯一……この箱だけが残った」
ザッ、と足袋の足が止まった。目の前に、霧にむせぶ祠のような箱があった。それ以外に物はない。
祠と呼ぶには簡素なつくりをしている。灯篭のような台の上に神棚のような箱があって、障子みたいな格子扉がついている。これではあのオンボロな所しか残っていないあの『ビル群に取り残された祠』のほうが幾分マシとさえ思える。しかし、近づいてみると……
神宮寺は一礼してその箱に近づく。格子戸を開けた。鍵はついていない。数字錠さえない。箱の中は小さな紫色の座布団が一枚あって、そこにぼくを座らせた。意外にもふかふかだった。ひんやりだったけど。
そして一度離れ、一礼してから再び近づき、扉を閉めた。閉められても箱の中は真っ暗ということでもなく、格子戸ということもあり隙間はある。そこから霧の空から注ぐ月のひかりで建物のなかを照らしてくれている。
月光に内装がきらりと反応する。黄色く光っている。黄色、いや、これは金色だった。
金箔が贅沢に貼られ、床から天井、そして格子戸の裏に至るまで余すことなく使われているらしい。外の雨ざらし感の強い外装よりずいぶんと格式高い造り。
なるほど……、ここがぼくの家か。新居な感じがしてとても良いね!
「――っ――」
月夜の只中に立つ神宮寺は、それまで深い礼をしていた様子だった。
そのとき、何を言っていたのか、ぼくにはよく分からなかった。神宮寺は踵を返し、飛び石を渡って霧の中へ去っていった。