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第10話:【回想】明日を奪う最後の一週間
中2の三学期、その一週間は異様なほどに「普通」だった。
焚石は、一週間前から自分が去ることを決めていた。けれど蒼には、その演算結果を一切悟らせなかった。
「……師匠、今日のメニューは?」
「いつもの倍だ。……ついてこれなきゃ置いていくぞ」
焚石はいつも以上に厳しく、蒼に技術を叩き込んだ。重力移動の角度、関節を破壊する際の指先の角度。それはまるで、自分が去った後も蒼が独りで「死なない」ための、最後の手向けだった。
蒼の両親や親戚には、焚石は密かに会っていた。
「蒼の喘息は、もう大丈夫だ。……本人が『自分は強い』と信じている限り、発作は出ない。……あいつを、頼む」
そんな準備が進んでいるとも知らず、蒼は神社の境内で、最後の一日を過ごしていた。
「……終わったか。お参りしていくぞ、蒼」
焚石に促され、二人は並んで手を合わせた。
焚石の願いは一つ。
(二度と喘息が出ず、明日から俺なしで生きていけますように)
それは師匠としての、最後の「マインドコントロール」。
蒼の願いも一つ。
(また明日も、師匠の隣にいられますように)
それは茉莉の花言葉そのもの――「あなたと一緒にいたい」という、無邪気な祈り。
「……師匠、また明日。明日は何時から?」
「……さあな。明日になればわかるさ」
焚石は、蒼のハンサムショートの髪を一度だけ、ひどく乱暴に、けれど慈しむように撫でた。
翌朝。
蒼がいつもの場所に駆けつけると、そこには誰もいなかった。
道場にも、神社にも。
ただ一通、古びたベンチの上に置かれた手紙だけが、冷たい冬の風に揺れていた。
『――お前は強い。もう、俺はいらない』
「……嘘。演算、ミスしてる……」
蒼の指先が震える。心拍数が跳ね上がり、パニックが脳を支配しようとする。
けれど、不思議なことに、喘息の発作は出なかった。
焚石がかけた最後の暗示――「お前は強い」という言葉が、彼女の肺を、無理やり正常に動かしていた。
「……っ、クソが……ッ! 勝手に終わらせるな……! 私は、まだ……『動け』って言われてない……!!」
蒼は雪の上に崩れ落ち、声を上げて泣いた。
一週間も前から準備されていた「さよなら」を、自分だけが知らなかった。
明日を信じていたのは、自分だけだった。
この日、蒼の心は氷に閉ざされた。
誰も信じない。効率だけを信じる。
そう決めて「軍師」としての仮面を被った彼女の前に、一人の男がボロボロの体で現れるのは、それから数日後のことだった。
🔚