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二人、沈み逝く海底。
ぴ、ぴ。
『支払いが完了しました』
その文字とともに、借金の残り残高が表示される。
『残高 : 83,756,190円』
「……まあ、返せるわけないか」
俺は苦笑しながら、そう独り言を呟く。
「ありがとうございましたー」
レジで棒立ちをしたままの中年女が抑揚のこもっていない声でそう言った。一文無しになった俺は、その場を立ち去るため、彼女に背を向けて歩き出す。
自動ドアの開閉音と共に、熱風が俺の全身を襲った。正確には分からないが、恐らく三十度は超えているだろう。深夜だと言うのに此処まで暑いとはな。仕事中に倒れでもしたらどうしようか。そんなことを考えながら、生温い夜風の吹く外へと一歩踏み出した、その時であった。
「よ、たっくん」
右手にある喫煙スペースから聞こえたのは、覚えのある若い女の声。そこにいたのは、俺の最愛の女であった。
「ミサ……」
「仕事おつかれさま! ほら、帰ろ?」
笑顔を崩さないまま元気にそう言う彼女は、俺の左手に指を絡ませながらこちらに擦り寄ってきた。繋いでいない方の手には、素手で数パックのもやしを握りしめている。
ぴたりとくっつくミサの素肌が、密着している俺の腕を伝って全身を冷ましていく。気温とか、湿度とかではない。なんとなく、この瞬間だけは、全ての疲れが安らいでいく。そんな根拠のない感覚であった。
コンビニから、俺たちの住むアパートまでの数百メートル。全ての苦痛を忘れて、安らぎを得られる唯一の時間。この時間だけは、いつまでも大切にしていきたいと、そう思っていた。しかし、突然鳴り響いた着信音が、俺を無理やり現実に引き戻してしまう。
『***』
甲高く不快な着信音と共に爛々と輝くスマホのディスプレイに映る数文字。それは、俺が今、この世で最も見たくないものであった。
「…………」
「……どしたん、また借金取り?」
黙り込み、立ち止まり、その文字列を見つめ続ける俺の横で、ミサがそう言う。
どうしよう。出るか、出ないか。
普通に考えて、出るべきだろう。だが、ようやく仕事を終えて貰った僅かな金を、今入金してきたばかりなのだ。もう、頼むから、今だけは現実に引き戻さないでほしい。勝手な子供の、まだ酒が飲めるようになったばかりの子供の戯言ではあるが、それが今の俺の中で渦巻く本心であり、同時に、この着信への拒絶心でもあった。
俺は今、苦悶の表情を浮かべているだろうか。それとも、泣きそうな子供のような表情を浮かべているだろうか。どちらにせよ、今すぐに、この場から逃げ出してしまいたいと思っていることだけは同じであった。どうしよう、どうしよう。
「貸して」
着信音も十回目を超えたであろうその時、突然ミサが俺のスマホを手から奪い取った。そして、その着信を止めるべく、着信拒否のボタンを押した。
「おい、何して……」
「こうしたかったんでしょ。違うの?」
反論の余地などない事実だ。俺は、何も言い返せなかった。しかし、着信拒否はかなり不味い。これからどうしようか。もう無かったことにしてしまおうか。それとももう一度かけ直すべきだろうか。絶望のような、でも、どこか安堵のような感情を抱えながら、再び黙り込み下を向く俺を見て、彼女は笑いながら言った。
「ねえ、たっくん」
「……」
「海、行かない?」
「……は?」
「レンタカーでも借りてさ。今から、ね?」
借りる金なんてない、そう俺は言ったが、ミサが全部払ってくれるそうだ。俺たちは、家に帰らずにそのまま、近くのレンタカー屋に向かい、一番安い襤褸の軽トラックを借りた。朝八時までに返せば三百円だと言われた。彼女はすぐにポケットから小銭を出して支払ったが、今の俺には、そのたった三枚の白銅貨が、まるで金塊のように高価なものであるようにすら思えた。
一応免許を取得していた俺が運転席に乗り、エンジンをかけて最寄りの海まで車を走らせる。
軽トラックの内装は、まるで人に貸せるような状態では無いほどの有様であった。機械油と埃の入り混じった刺激臭、毛玉だらけのシートは所々破け、中綿が弾け出していた。また、ハンドルも擦り切れて黒光りしており、ダッシュボードに至ってはひび割れ、と言うかほとんどが欠損しているような状態であった。
「すご、こんなボロいの、初めて……」
助手席に腰を下ろしたミサが、興味深そうに車内を見渡していく。
「何これ、窓って……」
俺は、困り顔の彼女に、手回し式の窓開閉機能について教えてやった。すると、目を輝かせながらそのハンドルを、子供のように、何度も、何度も回し、窓を上下させ続けた。無邪気に笑う彼女がとても愛おしい。一生を懸けて、この笑顔を守り抜きたかった。その、たった一つの想いだけが、今の俺にとって、唯一の生き甲斐であったのだ。
少し経って興奮が少し収まったのか、彼女は窓を全開にし、右腕と頭半分を外に出しながら夜風を浴び始めた。何を思っているかも分からないぼんやりとした表情は、風に靡き、月明かりに照らされる彼女の茶色がかった長髪も相まって、少し色っぽい雰囲気を漂わせていた。
数十分、走り続けた頃だろうか。すでに車は幹線道路を外れ、海へと向かう松林に入り、海岸線沿いに差し掛かっている。徐々に、林に遮られていた月明かりが再び俺たちを照らし始め、あと少しで海に辿り着くであろう、その時だった。
カラカラカラ……
突然、軽トラックの足元部分からそんな音が響き渡る。その直後、エンジンは、まるで最後の力を振り絞るかのような断末魔を上げた後に、ぴたりと止まってしまったのだ。
「……終わったな」
ガソリンランプが、速度メータの横で赤く爛々と輝いていた。俺はハンドルから手を離し、埃を舞い上がらせながらシートにぐったりと背中を預ける。
「ここまで、か」
「ま、いいじゃん。もう戻らないんだし」
「……ああ、そうだな」
ふとミサの顔を横目に見ると、彼女はうっすらと涙を浮かべていた。俺の視線に気づいたのだろうか、彼女は咄嗟に顔を背け、そそくだとドアを開けて外に出る。
「ほら、たっくん。行こ? 海だよ、もうすぐ」
彼女はそう言いながら、助手席のドアをぱたんと閉めた。俺も、ドアを開けて外に出る。軽トラックには、彼女が持ってきた数パックのもやしが放置されていた。
想像以上に風が強く、淡い月明かりもあってか心地良い。地面のアスファルトを踏み込む二人の足音。虫の囁き、草木の揺れる騒めきだけが辺りに響き、闇夜に溶け込んでは消えていく。
「もうすぐだよね」
「ああ、多分」
しばらく歩くと、徐々に塩の匂いが風に混じり始め、濃くなっていった。前方から聞こえる小々波の音も大きくなり、月夜の逆光に隠れた堤防も、鮮明に見え始めてくる。
近くの海、と言っても、此処は観光客が来るようなところでもない。小さく、砂浜も狭い、いわゆる穴場と言うやつであった。車を売り払ってから数年は、こんな所に来るようなこともなかった。来るような余裕が、俺にはなかったのだ。あの頃は、ミサにも酷いことをしてしまったのを覚えている。それでも、彼女は俺を捨てないでいてくれた。その気持ちに、どうにかして答えたかった。しかし同時に、それが不可能であるということも、身に染みて強く、俺は実感していたのだった。
「ほら、たっくん」
ミサが振り返って俺にそう言う。
「一緒にいこ?」
砂浜に出ると、俺たちは何も言わずに歩みを止めた。
夜の海は、どこまでも、どこまでも黒かった。寄っては引き返していく波音だけが、俺たちの周囲を満たしていく。今、この世界には、俺たち以外誰もいないのだ。
ミサが、俺の手を引いた。白い指が、夜の闇に溶けていきそうな俺の手をそっと握る。彼女は、笑っていた。まるで、この瞬間を、人生で最上のものだと思っているほど満面の表情で、こちらを見ていた。これが、最初から決まっていた定めであり、運命なのだと割り切り、喜び、何の躊躇いもなく受け入れているような、そんな表情であった。
「……脱ご?」
耳元で囁くその声は、波よりも冷たく、夜風よりも生温いものであった。
俺は静かに、自分の服を脱ぎ捨てる。全ての衣服を取り去り、夜風を全身で浴びる感覚は、少し新鮮で、どこか興奮を覚えるようなものであった。ミサも、同じように衣服を脱ぎ捨てていく。シャツ、ショートパンツ、ブラジャー、ショーツ……一枚ずつ衣服を、月の真下で脱いでいくその様子は、普段よりもより艶かしく、お互いの理性を溶かしていくようであった。
最後に靴と靴下を脱ぎ、それを、波が来ないであろう場所に四つ綺麗に並べ、俺たちは全裸のまま、互いの指を絡ませて海へと入っていった。ひやりとした、素足が砂を掴む感覚が、徐々に泥に飲み込まれるような感覚に変わっていき、それが足元からゆっくりと、全身に広がっていく。波に溶けて、消えてしまわないように、お互いの存在を確かめ合おうと、強く、体を密着させていく。
「ねえ、これ飲んで?」
海水も、胸の辺りに差し掛かったであろう時であった。ミサが、繋いでいない右手から、二つの錠剤を俺に手渡してきた。そのうち一つを取った俺は、それを口に入れ、胸元から掬い上げた、塩辛く、夜に溶け込んだ水で嚥下する。それを確認した彼女も、俺と同じようにした。
再び、俺たちは深いところに歩いていく。徐々に水面が上がっていく感覚は、俺たちの身体を海そのものが、世界から切り離していくようなものであった。
顎の下まで海水が満ち満ちてくる。これ以上先には行けない——そう判断した俺たちは、その場で向き合い、笑顔を浮かべながら最期の口付けを交わした。
「たっくん、たっくん……」
彼女は両腕を広げ、俺を抱き寄せる。素肌が海水越しにぴたりと重なる。柔らかく、火照ったお互いの身体。俺の背中に回された彼女の手は、少し震えているようであった。少しでも恐怖心を和らげるために、俺は彼女に舌を絡ませ、より強く、華奢で儚く、色白な彼女の身体を抱きしめる。
互いの体温を確かめ合いながら、ゆっくりと、ゆっくりと、さらに深いところに歩を進める。柔らかく熱い口が、舌が、波に飲まれて冷たくなっていく。塩辛く、少し痛みすら感じながら、それでも俺たちは唇を重ね続けた。
波が突然、俺たちを頭からすっぽりと飲み込む。それは水位が高くなったのではなく、俺たちが海に倒れ込んだと言うことに気づくのには、そう時間はかからなかった。身体が沈み、地面に沈没する。全身が弛緩して、徐々に力が抜け、頭がぼうっとし始める。
もう、苦しくなんかない。
むしろ、このまま沈んで、永遠に、一緒にいられるのなら、それこそ本望であり、幸せであるように思えた。
だ い す き
意識を失う直前、目を開けた俺には、彼女がそう言っているように聞こえた。彼女は笑っていた。暗い海の底でも、しっかりと分かるほどに。俺は、最期の力を振り絞って、彼女に満面の笑顔で笑い返す。
抱きしめながら、キスをしたまま、何もかもが水音に溶けていく。
砂に背中を預ける。
冷たい水に、全身が揺らぎ、溶けていく。
俺たちは、暗く、静かに、この世で一番の幸せを感じながら、闇夜に沈み、共に溶けて、消えていった。