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時の幻神
秋分を過ぎ、空気のやわらぎが町の隅々にまで行き渡った頃のことである。
私の通う旧制中学では年度の終わりに近いある日、
簡素な武術試合が催されるのが常であった。
名目は修養、実態は若者同士の力比べである。
剣道、柔道、果ては西洋由来の拳闘まで、雑多な格闘技が同じ土俵に並べられ、
観る者の好奇心を煽った。
私は元来、そうした荒々しい場を好まぬ性分であった。
血の気の多い同級生たちが拳を握り、声を荒げる様子を、
どこか遠い世界の出来事のように眺めていたのである。
その日も、校庭の片隅でぼんやりと枯れ木を見上げていた私の耳に、
低く、しかし異様に静かなざわめきが届いた。
人の声が、潮の引くように一斉に引いてゆく感覚。
私は自然と視線を向けた。
そこに立っていたのは、一人の少年であった。
名を、神原という。
年齢は我々と大差ないはずなのに、立ち姿だけが妙に古びて見える。
背筋は伸び、視線は伏せられ、
まるで自分の内側とだけ向き合っているかのようであった。
対峙する相手が踏み込んだ瞬間、
私の中で、時間の流れが狂った。
否、狂ったのではない。
伸びたのである。
拳が振るわれる。
衣擦れの音が、引き延ばされた糸のように耳に届く。
砂埃が舞い上がり、陽光を受けて宙に止まる。
時の流れが遅れたように沈み込んだ。
その只中で、神原だけが、静かに動いた。
最小限の身じろぎ。
しかし次の瞬間、相手は地に伏し、何が起きたのか理解できぬ顔で天を仰いでいた。
ざわめきが、遅れて戻ってくる。
誰かが息を呑み、誰かが名を呼ぶ。
だが神原は、勝利を誇るでもなく、敗者を見下ろすでもなく、
ただ一礼し、元の位置へと下がった。
私は、その姿に、言いようのない感覚を覚えた。
畏怖、と言えば近い。
だが恐怖ではない。むしろ、懐かしさに似た感情であった。
後日、私は偶然、神原と図書室で隣り合った。
彼は武術書ではなく、古い神話集を読んでいた。
黄ばんだ紙面に記された、現人神の文字が、私の目を引いた。
「信じているのかい、そういうものを」
思わず口にすると、彼は静かに頁を閉じ、微かに笑った。
「信じるというより、人がそう呼ばざるを得なかった存在が、確かにあったのだと思うだけだ」
その声は低く、しかし不思議と澄んでいた。
格闘技の場で見せたあの動きと同じく、余分なものが削ぎ落とされている。
彼は続けた。
「人は、極限の瞬間に、時間を越える。その時、力は個人のものではなくなる。昔の人は、それを神と呼んだ」
私は返す言葉を持たなかった。
だが、あの校庭で感じた時間の歪みが、
彼の言葉と静かに重なり合うのを覚えた。
それ以来、私は神原を意識するようになった。
彼が歩くと、周囲の空気がわずかに澄む。
彼が立ち止まると、音が一拍遅れる。
まるで世界が、彼の呼吸に合わせて調整されているかのようであった。
春が深まり、桜が散り始める頃、
再び試合の日が訪れた。
神原は決勝に立ち、観衆の期待と畏れを一身に集めていた。
その瞬間、またも時間が伸びた。
拳と拳が交わる刹那、
私は確信した。
彼は特別なのではない。
ただ、人が忘れてしまった感覚
時間と身体と心が完全に重なる地点を、
今も失わずにいるだけなのだ。
勝敗が決し、拍手が起こる。
だが神原は、静かに空を見上げていた。
そこには、神を演じる驕りも、
人を超えた自負もない。
現人神とは、
人の姿をした神ではなく、
人であることを、極限まで引き受けた者のことなのかもしれない。
春風が、校庭を抜けてゆく。
花びらが舞い、時間は再び元の速さに戻る。
しかし私の胸の奥には、
あの引き延ばされた一瞬が、今も確かに残っている。
それは流行の言葉でも、英雄譚でもない。
ただ静かに、人が人であることの深さを示す、
忘れがたい記憶として。