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一枚の写真
注:この短編は約3,800文字あります。
地元の大学に進学した友達をからかいに、男――清水和也の地元に帰省したときのことだった。
都内の某大学の下宿先から東武鉄道に揺られ、田舎の毛色が徐々に強くなりそうな、住宅地と緑地が五分五分になるその境界線が和也の地元である。
ホームから電車を見送って、バスロータリーに着くと、「あれ?」っと地元の変化に気付いた。
中央にはタクシーの黒い軍団があって、その先の建物。ちょっと前の記憶では四階建てくらいあったはずのビルが、工事を進めている。厚ぼったい灰色の布をかぶせられて、周囲には鉄パイプがつくしのように上に突き出している。
ああ、解体工事するのか、と思った。
地元にもとうとうこうした〝メス〟が入ってきたか、と和也はちょっと残念な気持ちになる。小学校から高校まで、この建物のそばを通って大きくなったというのに。
解体のメスが入ったのはいわゆる「激安の殿堂」という、高校生時代には大変お世話になった建物だった。ここら一帯にはもうすでにシャッター商店街となってしまった部分があり、唯一残った建物、いわば賑やかさの象徴だった。
一階にゲーセンが入っていて、二階から四階にかけて文化祭の準備や新歓の催し物などの掘り出し物が所狭しと置かれてあった。小道具の調達のためにどれだけの時間をこの建物の中に費やしてきたことか……。
背中から前のロータリーに向けて、冷たい秋の追い風が吹く。野分という秋の風物詩だ。朝は冬並みに寒く、昼は秋の仮面を被っている。夜にはその仮面を外してしまう癖に。
その強風をダウンジャケットの背中に受けて、前を見据える。
それが今にも、無くなろうとしているのだ。時間経過の無常観にため息を吐いて抗議したくなった。
バスを待っている間、灰色の布の高さを越えた建物の上部に目をやってみた。外側にはその象徴であるキャラクターのモニュメントがあったはずだ。たしか屋上付近の塔の壁に……と。あった、あった。
サンタクロースのような赤い帽子をかぶったあのペンギンがいた。先端に白いボンボンのある帽子に、あの憎たらしい目つきの青いペンギン。
彼は屋上から突き出した塔の窓からはしごを出して、自分たちに背を向けている。今にもその建物から逃げ出そうとして……まあ、そういう像なんだけど。
ああ、かわいそうなドンペンくん、次また会うときはいなくなっているだろうな、とその時は思っていた。
しかし、工事というのは、じらすように、思うようにうまくいかないものなのだろう。次の年の秋に再び帰省した。目的は同じく地元の友達をからかいに。
前は「都内の大学の施設はすごいんだぞ! なんとパン屋が併設されている! 味も値段も安い!」……ということについて大いに語ってやったのだが、今度は違う。無事内定をゲットし、どこに受かったかをあえて質問させて(というテイで)自慢したい。
悔しいだろうなぁ、あいつ。あの、なんとも言えないふてくされたあの顔つきを想像すればするほど、心のなかのにやつきが止まらなかった。
最寄り駅のロータリーでバスを待っていると、やはりあの灰色の布は目についてしまう。
「あれ?」っと再び思った。『防音』と太字で書かれているあの布はまだまだ健在で、つくしのように生えた鉄パイプもちぐはぐさを強調している。棒グラフのように見えるなあのパイプ、先端同士をつなげると折れ線グラフのようにも見える……と考えてしまうのは、卒論発表会が間近に迫ってきているからだろう。しかし、それよりもまだいるのかあれ、と和也は懐疑的な目線になる。
あのドンペンくんはまだ屋上にいた。一年前と同じ姿勢、同じ高さのままでいた。なあんだ、解体されないのか、と、どこか安心した心持ちになる。
しないならしないでいいんだ。
あの青い身体を持つペンギンの像は、ここらでは象徴のような、ある種の守り神のような感じに思えるから。
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その年の再来年。和也は内定をいただいた企業から異動になってしまった。本社勤務から支店勤務に異動のお知らせ。新入社員としての研修は本社で集まって、二年経ったからはい解散ね、みたいな。蜘蛛の子を散らすような、新入社員の配置の仕方だった。
和也の場合、春日部辺りに配属予定になっている。こうまで来ると地元に戻った方が距離が近いまである。
というわけで都内の引っ越し作業を終え、車で地元付近に帰って拠点を移した。今まで遠距離恋愛だった彼女もそこに住まわせた。
一週間くらい経ったころ、ふと、あのペンギンは無事か知りたくなった。
彼女に怪しまれるといけないので、車は少し遠目に、駅の東口に停めた。ペンギンは西口にいる。ここからは見えない。駅ビルに邪魔されている。
同乗していた彼女は近くの弁当屋にて海鮮丼を注文している。あの様子なら、まあ、ちょっとくらい抜け出してもいいだろう、車の鍵は俺が持ってるし。
和也は気になる好奇心を胸に秘め、階段を昇った。流石に西口まで行くまでの目的ではない。改札前の、渡り廊下のようなところの窓から頭を押し付けて見下ろすだけでいい。
数年前の記憶を|縁《よすが》にして窓に寄りかかる。たしかここから見えるはず……
灰色の布はやはりあった。あったけど、なかった。
解体作業はもう済んでしまったらしい。高いところから見下ろしているので、布で囲んである中身が見えてしまった。布の高さもそうでもないのでよく見える。
白いがれき、黒いがれき。そして床の残骸のような物と掘りぬかれた建物の基礎のような部分が露出している。あとはパイプでできた簡易足場と外の布を取り除くだけなのだろう。
あの青ペンギンはどこにもなかった。逃げ出したように、解き放たれたように。
解体工事のための灰色の布がかけられた時点で、こうなることは予想していた。けれども、何というべきか、ああ、というべきか。
渡り廊下にいるはずなのに、間近で見ている感じだった。物悲しい雰囲気がこちら側にまで漂ってきていた。自分のうちにあった思い出が、現実世界から消失した瞬間とでもいうべきか……
自然とスマホを取り出していた。カメラ機能をオンにし、灰色の残骸の方を向け、一枚の写真に収めた。
なぜこうしたのか、分からない動作だった。なぜ? そう考えていると、ふと、子供の頃のことを思い出した。
おぼろげな記憶だ。年齢はよくわからないが、小学校低学年かそれ以下か、確実にお年玉を貰って嬉しかった時期だった。
かつてのここは緑地の方が多かった。ちょっとしたミカン畑を伯父が持っていたくらいに。
かすかに見えてくる幼少期の思い出。
明くる日の夏休み。地元の友達を誘った。その後、夜の屋台に連れていかれ、ちょっとした花火を見たことも覚えている。けれど顕著に覚えているのはこの記憶だ。
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「これは手がかりとなる宝の地図だ。婆さんの埋蔵金が眠っておってな」
昼間、自分の伯父はボロボロの紙に手書きの地図を自分たちにくれた。バツ印が付けられたところの木の下に宝箱がある……そういったものだった。次いでいう。
「見事宝箱を持ってきたものにその一部を褒美として授けてやろう」
従兄弟やら伯父の息子やら、五・六人のクソガキどもがあーでもない、こーでもないと罵りあうように言って、結局破裂。
単独行動をするようになると、幼いころの和也はその中の、おどおどしていた女子の手を引っ張って、「こっちだ」と連れていく。
ミカン畑の中を走って、土の色が変わっている所を探し、そばにあったスコップを突き刺す。見事掘り当てる音が鳴った。
やったね!――という女子特有の励ましを隣から貰って、伯父の所に帰ろうとした。が、箱の中身が気になって、道中に開けてしまった。
中に入っていたのは一枚の写真だけが入っていた。透明のラミネート加工をされて夏の炎のごとく光に対抗し光っている。
大空を映しただけ。青い海のような空を写しただけの写真。……なんだこれ?
そう思って二人は伯父にその写真を渡した。
他の奴らは見かけなかった。伯父はニコニコ顔だったから、一番乗りでいいのだろう。
疑問の顔をしている孫の顔が気になったのだろう、
「何も写ってないように見えるだろう? 婆さんにしか分からないようにしているからな」
そういって、伯父は部屋の奥の方に引っ込んでいった。「たしか婆さんのへそくりは……」という声が奥から聞こえ、やがて戻ってきた。褒美としての大量のミカン、そして。二人分の分厚いお年玉……
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「何ぼさっとしてんの」
現実世界に帰ってくる。後ろから彼女が呼び止めた。「探したんだけど、早く帰ろ」
「……ああ」
彼女は少々ぷんぷんした感じで階段を降りていく。その後方を見ながら、思う。
宝探しをしたということが深く記憶に刻まれているのは、形式的なものをしたから、というわけではないのだろう。
形式的にも登場したあの写真。何もない空を写したあれは、本当に単なる小道具として登場したのだろうか、と今になって疑問の雲として何もない空に浮かんできた。
ラミネート加工までして、泥で汚れないようにするか? あの空を写しただけなのに。
だから、あれと同じなのだろう。逃げたペンギンと同じく、本来、あそこには撮りたかった被写体があった。
けれどもそれはもう、消えゆく時間経過の只中にあって、取ることは叶わなくなってしまった。だから、何もない大空を写すだけでしかできなかった。あの大空の先に、撮影者の思い出があるのだとしたら? 例えば、大空に羽ばたく『飛行機』とか。
あの一枚の写真は、見事に過去の時間を切り取っていたのだ。
「なあ、絵美」
彼女の名前を呼んだ。あの頃の記憶では縁台の隣で褒美のミカンを食べて、大学時代ではからかうだけの間柄で、今は自分の声で振り返ってくれる。
「みかん、買わなくていいの?」
彼女はやけに勝ち誇ったように微笑んだ。「家にあるよ、食べきれないくらいに送られてきたし」