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(上)一
「はるか、今日、遊びに行かね?」
屈託のない声でそう言われ、勉強——宿題をしていた手を止めて幼馴染の顔を見上げた。
「え、遊び?」
どこに、と聞こうとした。そのとき、「あ、玲! やっと見つけた! サッカーしよーぜ!」という大声が響く。いつもの、玲の遊び仲間だ。
「あ、呼ばれてる。えっと……じゃあ、はるかの家でいい?」
「……うん、いいよ」
場所を聞く前に答えが返ってきた。さすが幼馴染、といったところなのだろうか。
「じゃ、また放課後に会お」
自分から話を振ったくせに、玲はあっさりと切り上げてしまった。
自分を背を向けて去っていく後ろ姿を、私はそっと見送った。
私に友人らしい友人はいない。極度の人見知りのおかげで、人付き合いが上手くできないからだ。だからか「友人」といえば専ら、それは幼馴染である玲のことだった。
玲は何でもできた。勉強も。スポーツも。いつも笑顔で人当たりも良いから教師には好印象も持たれ、気前が良いから男子にも好かれ、外見も良いから女子たちの格好の恋の対象だった。
昔は、それが自慢だった。そんな人と幼馴染であることが、昔から知る仲であることが、自慢だった。
そんな幼馴染でありながら、勉強もあまりできない、スポーツはもっとできない、外見も良くない、いつも無愛想で、当然人当たりも悪い私とは大違いで。
———いったい、いつから、こうなったのだろう?
「分からないところでもあんの? 教えるよ。そこの範囲は、だいたい終われたから」
「え、もう終わったの?」
宿題はあまりにも分からなさすぎて全く進まず、結局放課後も家でやる羽目になってしまった。これでは幼馴染と遊ぶこともできない。
だから、終わった、という言葉にひどく驚いた。
聞き返された本人はニコニコと微笑みながら頷く。
「ん、そんなに難しくもなかったし」
『そんなに難しくもなかったし』。その言葉が、頭の中で響いた。反響して、音と音とが|唸《うな》りあう。何かと共振して、それをバリバリと壊していく。
「……そう、なんだ」
何とか反応すると、玲は「うん、それで、分からないのはどこの問題?」と言ってシャーペンを持って紙を引っ張り出した。
相変わらずの、屈託のない微笑みを浮かべて。
結局、玲のおかげもあって宿題は終われた。もう辺りは真っ暗で、夜は更けようとしていた。
「もう大丈夫そう?」
帰る支度をしながら、案じたように聞いてくる。夜遅くまで付き合わせたことの文句は一切言わない。
「うん、もう大丈夫。こんな遅くまで、ありがとう」
『ありがとう』。その言葉を心から言えたらどれだけ良かったのだろう。
『はるかちゃんと違って、玲くんは何でもできるのね』
何人にそう言われてきたのだろう。両親ですら、自分ではなく玲を誉めた。
ほとんど同じ環境で育ったはずだ。なのに、何故こんなにも違うのだろう。何故私は、玲と違って要領が悪いんだろう。何もできないのだろう。
どす黒く塗りつぶされていく。反響して唸りあった音が、再び頭の中で響いた。
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「小テスト返却するぞー」
間抜けた教師の声にハッと我に返った。
一人一人教壇の前に出て、教師からテスト用紙をもらいに行く。
私は出席番号の上では結構最初のほうだから、早く答案用紙をもらうことができた。
右上の点数欄を見る。
———56点。
いつも通りすぎる点数だった。毎回、半分くらいしか取れた試しはない。
人知れずため息をついて、私はそれを|鞄《かばん》の中に仕舞った。
「ただいま」
家に帰って、自分の部屋に行き、荷物を置く。
リビングの方に行くと、母が夕食の準備をしていた。
「あら、おかえりなさい」
母が顔を上げてそう微笑むのに、私は頷きだけを返した。
「そういえば、玲くんのお母さんから聞いたけど、小テスト返ってきたんでしょ」
———玲、という言葉に、胸がざわついた。途端に息苦しくなる。
「ああ、……うん。」
「どんなだったの? 見せらっしゃいな」
私は何も言わずに部屋に戻り、テスト用紙を鞄から引っ張り出して、またリビングに向かう。
母の目の前に出した。
母は料理をしている手を止めず、横目でチラリとそれを見た。
———56、という数字が、母の目に映る。
はぁ、とため息の音が、顔を伏せていた私の耳に届いた。
「56点、ねえ。」
私の視界には、自分の足と母の足と、茶色の床だけが見えている。
「玲くんは満点を取ったって聞いたわよ。いつもいつも満点なんですって」
その声だけが、やたらとエコーがかかったかのように頭の中に反響して聞こえた。
ぷつん、と音がした。世界が灰色に塗りつぶされていく。
———壊してやりたい。
心の底から、そう感じた。